扶余豊璋 ― 2024年06月06日 21:01
扶余豊璋(ふよほうしょう、풍장、生没年不詳、在位660年9月から663年8月)は百済の最後の王子である。 日本書紀では「余豊璋」、「余豊」、「豊璋」、「豊章」などとする。『三国史記』では扶余豊、『旧唐書』は扶余豊/余豊とする。「余」は姓で「扶余」の略である。「豊王」ともいう。
概要
百済の最後の王である義慈王(의자왕)の5男とされる。 日本書紀によれば、631年(舒明3年)に子の余豊璋を人質として日本に送り、両国の関係の強化を図ろうとしたとされる。倭国にいる間に養蜂を試みたという。『三国史記』には人質と書かれていないので、人質ではなかったという説もある。 百済の義慈王が敗戦した後も、百済の地方軍と領土は大部分が健在であった。百済復興運動の指導者・鬼室福信は、百済復興のために豊璋の送還を求めた。661年(天智1)年、倭国は5000人をつけて豊璋を衛送したとされる。663年6月、百済王豊璋と福信とは不和となり、豊璋は福信を斬殺してしまった。 663年、百済は唐・新羅の連合軍と戦って敗北し、完全に滅亡した。豊璋は数人と舟で高句麗に逃げたとされる。668年、高句麗の滅亡後は唐に捕虜として送られ、流刑になったとされる。 『日本書紀』は豊璋が即位下と記すが、「三国史記」「三国遺事」は豊璋を正式の王と認めていない。
業績
日本書紀
日本書紀卷第廿三 舒明
- (三年春)二月辛卯朔庚子、掖玖人歸化。三月庚申朔、百濟王義慈、入王子豐章爲質。
- (大意)舒明3年2月掖玖の人が帰化した、3月百濟の義慈王は豊璋を人質とした。
日本書紀巻第廿五 孝德
- (白雉元年)以粟田臣飯蟲等四人使執雉輿而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等而至中庭。
- (大意)白雉が現れたため改元した。左右大臣らは宮門外に並び、粟田飯虫ら4人は雉を乗せた輿を持ちそれを先頭とし、左右大臣、百官、百済の豊璋、その弟の塞城・忠勝、高句麗出身の醫毛治、新羅出身の侍學士を従えて進んだ。
日本書紀巻第廿六 齊明
- (二年冬十月)又乞師請救、幷乞王子余豐璋曰或本云、佐平貴智・達率正珍也「唐人率我蝥賊、來蕩搖我疆埸、覆我社稷、俘我君臣。
- (大意)
- (六年)冬十月、百濟佐平鬼室福信、遣佐平貴智等、來獻唐俘一百餘人、今美濃國不破・片縣二郡唐人等也。又乞師請救、幷乞王子余豐璋曰或本云、佐平貴智・達率正珍也「唐人率我蝥賊、來蕩搖我疆埸、覆我社稷、俘我君臣。百濟王義慈・其妻恩古・其子隆等・其臣佐平千福・國辨成・孫登等凡五十餘、秋於七月十三日、爲蘇將軍所捉而送去於唐國。蓋是、無故持兵之徵乎。而百濟國遙頼天皇護念、更鳩集以成邦。方今謹願、迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲國主。」云々。詔曰「乞師請救聞之古昔、扶危繼絶著自恆典。百濟國窮來歸我、以本邦喪亂靡依靡告。枕戈嘗膽、必存拯救。遠來表啓、志有難奪。可分命將軍百道倶前、雲會雷動倶集沙㖨、翦其鯨鯢紓彼倒懸。宜有司具爲與之、以禮發遣。」云々。送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等、其正發遣之時見于七年。或本云、天皇、立豐璋爲王・立塞上爲輔、而以禮發遣焉。
- (大意)百済の佐平・鬼室福信は佐平・貴智を遣わし、「唐と新羅は王とその妻、子の隆、佐平千福らを唐に捕虜として連行した。しかし百済は人々を呼び集めて再興しようとする。そこで皇子の豊璋を迎えて国王としたい」と述べた。斉明は百済を助けたいと述べた。皇子豊璋と叔父の忠勝を送った。ある本には(斉明は)豐璋を王とし、弟の塞上を助けとし、送り出したとする。
日本書紀巻第廿七 天智
- 九月、皇太子、御長津宮、以織冠授於百濟王子豐璋、復以多臣蔣敷之妹妻之焉。乃遣大山下狹井連檳榔・小山下秦造田來津、率軍五千餘衞送於本鄕。於是、豐璋入國之時、福信迎來稽首奉國朝政、皆悉委焉。
- (大意)皇太子は長津宮で百濟王子の豐璋に織冠を授け、蔣敷之の妹を妻とした。大山下狹井連檳榔と小山下秦造田來津とに5000の兵を付けて送り出した。豐璋が国に入ると福信は朝政をすべて任せた。
- 五月、大將軍大錦中阿曇比邏夫連等率船師一百七十艘、送豐璋等於百濟國。宣勅、以豐璋等使繼其位、又予金策於福信而撫其背、褒賜爵祿。于時、豐璋等與福信稽首受勅、衆爲流涕。六月己未朔丙戌、百濟遣達率萬智等進調獻物。
- (大意)大將軍大錦中阿曇比邏夫連らは舟170隻を率い、豐璋を百済国に送り届け、豐璋を百済国王に付けた。
考察
631年(舒明3年)の来日は、義慈王の即位は641年であり、それより前の時点での人質は疑問がある。豊璋は百済に戻った後は、即位したのではないだろうか。滅亡した国では資料が残らないので、立証が難しい。 国が滅びるときは、内部の混乱が原因となることが多い。百済もその例にもれない。豊璋が鬼室福信を殺害したのは、百済の滅亡に拍車をかけたのではなかろうか。豊璋は政治力や大局的な判断がなかったと思える。
参考文献
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 金富軾 (1983)『三国史記』平凡社
- 高寛敏(1995)「百済王子豊璋と倭国」東アジア研究 (10),pp.53-71
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