上ツ道 ― 2024年06月17日 00:12

上ツ道(かみつみち)は奈良盆地の東側をを南北に走る古道である。
概要
古代の奈良盆地には、上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれる3本の直線道がほぼ等間隔で南北に縦断していた。3本のうち最も東側の道路が上ツ道である。672年の壬申の乱で大海人皇子軍は上ッ道、中ッ道、下ッ道にそれぞれ軍を配し、上ッ道を進撃する近江朝廷軍と箸墓近くで闘っている。国道169号線は上つ道とは一部で重なるが、同一ルートではない。「官道」と呼ばれているとおり、一般道ではなく、外国の使節、任地へ赴く国司、及び許可証を持った国営の飛脚が使う目的である、実用性より中央権力の強大さを印象付ける意味合いが大きかったと見られる。中央集権体制が崩れだす平安中期頃(8世紀後半~9世 紀初め)からは道路を維持管理できなくなり、幅の狭い実用的な道路になった。
経路
上ツ道の起点は桜井市大字谷付近であり、奈良盆地の東端の山沿いを北上し、終点は天理市佐保庄付近である。上ツ道は最南端では大和平野の南部で東西に走る横大路に近接する。横大路は桜井市の三輪山の南から葛城市の二上山の麓の長尾神社付近までの道であり、現在は伊勢街道ともいう。上ツ道の遺構はほとんど確認されていないが、箸墓古墳近くの発掘調査では上ツ道跡と想定される盛土遺構が確認されている。
上ツ道の設置時期
上ツ道の設置時期は推古の頃(岸俊男説)、孝徳・斉明期など諸がある。 纏向遺跡の第189次調査では、緑釉陶器や奈良三彩片、漆塗りの須恵器などがみつかっているが、これらの遺物は、上ツ道付近で発見されたことから、奈良時代に道路付近に置かれた役所があったと推定されている。纏向遺跡の第142次調査では、調査地の東側を南北に走る上ツ道に沿う位置で、古墳時代後期以降の盛土状遺構が確認された。盛土のなかから出土した土器片のうち、最も新しいと考えられるものは6世紀後半~7世紀初頭ごろの須恵器杯であった。近江俊秀(2012)は上ツ道は飛鳥時代の7世紀初頭以降に築かれたと判断している。
歴史的意義
古代の都市計画により設置された幹線道路で、重要な歴史的意義がある。 三道の歴史的意義が確認されたのは、1966年藤原京の発掘調査であった。岸俊夫は上ツ道、中ツ道、下ツ道と横大路、古代の山田道などを用いて、藤原京の京城を復元した。平城京との関係も示した。これは日本古代の都城制研究に大きな影響を与えた。
南北朝時代
南北朝の争乱で、北朝側の奈良・興福寺が南朝側の妙楽寺を攻めるために使った道は、上つ道であった。
日本書紀 卷第廿八 天武
- 鯨軍不能進。是日、三輪君高市麻呂・置始連菟、當上道、戰于箸陵、大破近江軍。
万葉集
考察
上ツ道は箸墓古墳の後円部を迂回しているので、箸墓古墳より後に上ツ道が作られたことは知られていたが、発掘調査により7世紀初頭以降であることは確認できた。すると上ツ道の建設は600年から672年の間ということになる。 日本書紀に明確な記述はないが、656年(斉明2)に「斉明は時に土木工事を好んだ」と書かれており、狂心渠の土木工事、後飛鳥岡本宮の造営、大倉庫の造営、吉野宮の造営、多武峰に石垣を巡らし、「観」を建て、それを「両槻宮」あるいは「天宮」と呼んだなどを行っている。土木工事のひとつとして、この頃に上ツ道、中ツ道、下ツ道を整備した可能性がありそうだ。
参考文献
- 佐竹昭広・山田英雄他(2013)『万葉集(一)』岩波書店
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 近江俊秀(2012)『道が語る日本古代史』朝日新聞出版
最近のコメント