物部太媛 ― 2025年04月01日 00:20
物部太媛(もののべ の ふとひめ, -587年(用明2年)8月2日)は飛鳥時代の豪族の女性である。父は物部尾輿であり、母は阿佐姫。「物部布都姫」、「御井夫人」、「石上夫人」とも呼ばれる。
概要
『日本書紀』では蘇我大臣(蘇我馬子)の妻は物部守屋の妹と書かれている(崇峻即位前秋七月条)。『日本書紀』は名前を特定していないので、この記載では物部太媛が蘇我馬子の妻であったかかは分からない。 『紀氏家牒』には蘇我大臣の妻は物部守屋の妹で名は太媛と書かれている。物部守屋の滅亡後は石上神宮の斎神の頭になったとされる。当時の女性は結婚しても、姓は変わらず、「物部」を名乗っていた。 『先代旧事本紀』 巻第五 天孫本紀では、物部太媛は物部贄子の妻とする。 『先代旧事本紀』「天孫本紀」に「此の夫人、倉梯宮御宇天皇(崇峻天皇)の御世、立ちて夫人と為る。亦朝の政に参て、神宮を斎き奉る」と記され、崇峻天皇の時代に神職の重職について国政にも参画したと記される。『石上振神宮略抄』『紀氏家牒』にも蘇我蝦夷の母親は守屋の妹の「太媛」とされている。
呼び方
史料間にかなりの食い違いが見られ、『先代旧事本紀』「天孫本紀」には布都姫夫人と書かれており、配偶者は異母兄弟の物部贄子となっている。子が4名いて、一人は蘇我馬子の妻となる鎌足姫(鎌姫)大刀自であるとされている。
考察
日本書紀に蘇我馬子が妻の計略を用いて物部守屋を殺したと書かれる(崇峻年七月条)。どのような計略かは分からない。石上神宮の斎主になったり、政治にも関与したことがあるならば、同時代での評価はどうであったろうか。『日本書紀』『紀氏家牒』が蘇我馬子の妻が物部系として、太媛を示唆する。さらに『神主布留宿禰系譜』は、「蝦夷の母は物部弓削連(守屋)の妹の太姫で、蝦夷が弓削連死亡後に祭首を補佐した」と書かれる。『先代旧事本紀』の記載だけが崇峻の夫人であったと書くので、それを除けば各史料は一致する。よって、蘇我馬子の妻が物部太媛で、物部守屋の妹と解釈するのが妥当と思える。
史料
- (『日本書紀』原文) 時人相謂曰「蘇我大臣之妻、是物部守屋大連之妹也。大臣妄用妻計而殺大連矣。」
- (『紀氏家牒』原文) 馬子宿祢男、蝦夷宿祢家、葛城県豊浦里。故名曰二豊浦大臣一。亦家多貯二兵器一、俗云二武蔵大臣一。母物部守屋大連亦曰二弓削大連一。之妹、名云二太媛一也。守屋大連家亡之後、太媛為二石上神宮斎神之頭一。
- (『先代旧事本紀』「天孫本紀」)「字は御井夫人。亦は石上夫人と云ふ。此の夫人、崇峻天皇の御世、立ちて夫人と為る。亦朝の政に参て、神宮を斎き奉る。」
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
- 田中卓(1986)『田中卓著作集 2 』(日本国家の成立と諸氏族) ,国書刊行会
常陸大宮市歴史民俗資料館 ― 2025年04月01日 00:40
常陸大宮市歴史民俗資料館(ひたちおおみやしれきしみんぞくしりょうかん)は茨城県常陸大宮市にある歴史系博物館である。大宮館と山方館とがある。
概要
常陸大宮市内には判明しているだけで約360の遺跡がある。旧石器時代の山方遺跡や梶巾遺跡は特に有名である。常陸大宮市歴史民俗資料館では市内で発掘された土器、石器、埴輪、直刀など150点を展示する。旧石器時代、縄文時代、弥生時代では石器(石斧・やじり・ナイフ・石棒・おもり)、縄文土器として甕・浅鉢、深鉢、弥生土器として人面付土器・壺・甕・高坏、土偶、ヒスイの珠・コハクの珠・土製イヤリングなどのアクセサリー、紡錘車などがある。古墳時代では埴輪、鉄剣、鉄鏃、水晶の玉・ガラス玉・コハク玉)、土師器坏、提瓶などがある。太田町役場から民俗資料館としてリニューアルオープンして、2014年に開館した。
主な収蔵品
- 硬玉(ヒスイ)製大珠 坪井上遺跡出土、茨城県
- 人面付壺形土器 泉坂下遺跡出土品、茨城県 、重要文化財
- 鉢形土器 泉坂下遺跡220号土坑、茨城県、弥生時代
- 蓋 泉坂下遺跡220号土坑
指定
アクセス等
- 正式名称: 常陸大宮市歴史民俗資料館
- 開館時間 : 午前9時~午後4時30分
- 入館料 : 無料
- 休館日 :月曜日、祝祭日、年末・年始(12月29日~1月3日)
- 所在地 : 〒319-2265 茨城県常陸大宮市中富町1087-14
- 交通 :JR水郡線常陸大宮駅 徒歩 5分
旧練兵場遺跡 ― 2025年04月02日 00:06
旧練兵場遺跡(きゅうれんぺいいじょういせき)は香川県善通寺市仙遊町を中心とする縄文時代後期から中世にいたる複合遺跡である。かって「旧練兵場遺跡」、「善通寺西遺跡」、「仙遊遺跡」、「彼ノ宗遺跡」、「仲村廃寺」などの遺跡名で呼ばれていた。
概要
旧練兵場遺跡は,丸亀平野の南西部にある。香川県で最大級の規模と内容を有する弥生時代の集落遺跡である。東西約1km、南北約0.5km範囲にある。集落規模は45万m2に及び、吉野ヶ里遺跡にも匹敵する。 笹川龍一(1988)は彼ノ宗遺跡の調査成果から、善通寺市付近で弥生時代後期前後に住居Ⅲ跡廃絶時に銅鏡片、土玉、ガラス玉、管玉などを用いた祭祀が行われた可能性を示唆した。 また他地域から持ち込まれた土器が出土している、土佐、豊後、筑前、河内、阿波の土器もあるが、特に瀬戸内海沿岸(吉備、防長、伊予、安芸)の土器が多い。 弥生時代から古墳時代まで同じ場所で長期に継続して集落が営まれたため、その間の社会の変化を検討できる遺跡である。銅鏃は約80本が出土し、全国最多である。
調査
旧日本陸軍善通寺練兵場用地が戦後開発された際に確認された遺跡である。周辺の遺跡には弥生時代前期段階として甲山北・乾e永井e稲木の各遺跡で土器が出土し、また五条遺跡・中ノ池遺跡では大規模な環濠を伴う集落遺構が確認されている。弥生時代後期段階になると,遺跡の数や規模が大型化し,平成7年度の本遺跡内での発掘調査からも40棟を超える竪穴住居跡が確認されている。1997年調査では弥生時代中期後半頃から後期終末頃までに埋没した竪穴住居跡15基、掘立柱建物跡3棟,土器棺墓2基以外に,相当数の柱穴跡が重複する状態で検出された。 弥生時代中期末から後期初頭では、竪穴住居1 棟、掘立柱建物6 棟が検出された。このうち、掘立柱建物800 は柱の間隔が450 cmを測る1 間×1 間の大型建物です。 掘立柱建物跡の柱穴は大型であり、高層の建物跡の可能性が指摘された。
記号土器
旧練兵場追跡では、今回の調査で記号土器が4点出土した。香川県下の絵画・記号土器資料は15遺跡54点が知られている。前田東・中村遺跡、久米池南遺跡、太田下・須川遺跡、空港跡地遺跡、上天神遺跡、大空遺跡、などである。住居を建てる際に、後世の地鎮めのように意識的に埋置した可能性が考えられている。叉形記号は水鳥の絵画が記号化した土器もある。
遺構
- 竪穴建物
- 掘立柱建物
- 柱穴
- 土坑
- 溝
- 河川
遺物
- 弥生土器
- 土師器
- 須恵器
- 石器
- 磨製石庖丁
- 石杵
- 石臼
- 小玉
- 臼玉
- 管玉
- 勾玉
- 土玉
- 銅鏃
- 耳環
- 鉄釘
- 鉄鎌
- 把手付鉢
- 銭貨(銅銭)
- 支脚
- 匙形土製品
- 船形土製品
- 把手付鉢
- ミニチュア鉢
展示
- 高知県立埋蔵文化財センター蔵
指定
所在地等
- 名称: 旧練兵場遺跡
- 所在地:香川県善通寺市仙遊町
- 交通:
参考文献
- 香川県教育委員会(1997)「旧練兵場遺跡」
- 善通寺市(2001)「旧練兵場遺跡」市営西仙遊町住宅建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書
- 笹川龍一(1988)『九頭神遺跡発掘調査報告書』 九頭神遺跡発掘調査団・善通寺市教育委員会
大神神社 ― 2025年04月03日 00:42
大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市に鎮座する神社である。日本最古の神社の一つと言われる。別名は「三輪明神」「大神大物主神社」である。地元では「三輪さん」と呼ばれる。
概要
一説に日本で最古の神社とされる。三輪山を御神体としており、本殿はなく拝殿だけがあり、拝殿奥の三ツ鳥居を通して三輪山を拝む。ご利益は人間生活全般の守護神とされ、縁結びもあるとされる。拝殿・三ツ鳥居は重要文化財であり、三つ鳥居は明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式である。 祭神は大物主大神。JR三輪駅から参道が続く。
由来
ヤマト朝廷は桜井市の纒向遺跡から始まったとされており、その人々が「国魂」として祀ったのが大神神社である。三輪山の祭祀の全盛時代は3世紀から4世紀であった。5世紀になると司祭者として軍事的指導者の役割が求められるようになり、リーダーは実力制となり、大王家の内紛が続いた。6世紀になると政治安定のため、天照大神を中心とする新たな信仰が作られた。大神神社は王権から距離ができ、国神とされて、高天原の天神より下位に位置づけられた。大三輪氏は三輪山の神の祭司として、疫病の神と位置づけを変更した。古代の大和朝廷では、疫病を避ける鎮花祭と三枝祭が執り行われた。
登拝
三輪の「登山」は「登拝」という。ご神体の「三輪山」は江戸時代まで「お留山(おとめやま)」とされ一般の人は入山できなかった。登山が可能となったのは明治時代からである。現在は入山登拝禁止日以外は「午前9時から正午まで(午前中)」「登拝」を受け付ける。
社伝
社伝によれば神体山三輪山の上に奥津盤座があり、ここに大物主の神が鎮座するという。中腹の中津盤座に大己貴の神が鎮座し、下の方の辺津盤座に少彦名の神が鎮座するとされる。大己貴の神は三諸の山に鎮座するとされ、すなわち三輪の大神とされる。
万葉集
- 味酒を 三輪の祝が 忌ふ杉 手觸し罪か 君に逢ひ難き
古事記
古事記に大物主大神と活玉依毘売の神婚譚が記載される。美しい乙女の活玉依毘売のもとに夜になると麗しい若者が訪ね、恋に落ち姫は身ごもる。姫の両親は若者を怪しみ、若者が訪ねてきた時に赤土を床にまき、糸巻きの麻糸を針に通して若者の衣の裾に刺すよう教えた。翌朝には糸は鍵穴を出て、糸を辿ると三輪山に着いた。これによって若者の正体は大物主大神と判明した。
- 三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣、其容姿麗美。故、美和之大物主神見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登。(古事記 中-1 神武天皇記~開化天皇記)
- (原文)此天皇之御世、伇病多起、人民死爲盡。爾天皇愁歎而、坐神牀之夜、大物主大神、顯於御夢曰「是者我之御心。故以意富多多泥古而、令祭我御前者、神氣不起、國安平。」是以、驛使班 于四方、求謂意富多多泥古人之時、於河內之美努村、見得其人貢進。(崇神天皇)
日本書記
日本書記崇神紀七年二月条に三輪の神が倭迹迹日百襲姫命に憑るといい、大物主の子大田田根子に祭らせたという。タタはタタス、 すなわち神の降臨、 顕現をいう。
- (原文 巻第九 神功皇后九年秋九月)秋九月庚午朔己卯、令諸國、集船舶練兵甲、時軍卒難集、皇后曰「必神心焉。」則立大三輪社以奉刀矛矣、軍衆自聚。
- (大意)兵が集まらなかったときこれは「神の御心」として、大神神社に刀と矛を奉納したところ兵士が集まった。
そうめんの本場
三輪は日本三大そうめんのひとつである、三輪そうめんで知られる。大神神社の参道にはそうめん店が多数ある。毎年2月5日にその年の素麺相場をご神前で占う神事『卜定祭(ぼくじょうさい)』が執り行われる。
アクセス等
- 所在地:〒633-8538 奈良県桜井市三輪1422 大神神社
- 拝観料:無料 ※宝物収蔵庫は有料(大人200円 高校生以下100円)
- 交 通:JR桜井線(万葉まほろば線)三輪駅から徒歩5分
- リンク: 大神神社
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 八田幸雄(1991)「室生、長谷、大神神社の神仏習合の源流」智山学報40 (0), pp.53-67
- 『日本書紀』(日本古典文学大系67)岩波書店,p.239
五斗長垣内遺跡 ― 2025年04月03日 00:44
五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)は弥生時代後期に鉄器づくりを行っていた集落遺跡である。
概要
淡路島北部の西側斜面、海岸より3km、標高200mの丘陵上に位置する。弥生時代後期(1世紀から2世紀)の鍛冶遺跡が中心となる遺跡である。発掘調査では竪穴建物が23棟みつかり、うち12棟で鍛冶炉が確認されている。 五斗長垣内遺跡は弥生時代後期初頭に突然出現した遺跡である。当初は石器作りを行っていたが、1世紀後半に直径約10mの大型竪穴建物が作られ、その中で鉄器生産が始められた。炉で熱した鉄素材を台石に載せ、敲石で伸ばし、裁断を行い、先を砥石で仕上げて鉄鏃などを作った。 大型竪穴建物に複数の炉が作られ、周囲に細かい炭が広がる。台石や敲石(幅8.1cm)などの鍛冶道具が出土した。台石や敲石は使用により表面が潰れた状態でみつかった。高温の熱にさらされて(熱した鉄を叩いた)煤がついて変色しており、鍛冶に使われたことを証明する。弥生時代の掘立柱建物は4棟が見つかった。いずれも梁行1間、桁行2間のSB-204は2.76m×2.49mの規模である。SB-203は梁行1間、桁行4間で、2.77m×5.21mの規模である。柱穴は小規模で直径平均25cm、深さ33cmである。
調査
2007年度から2008年度、水田整備に伴う発掘で計23棟の建物跡が⾒つかった。うち12棟で鉄鍛冶の炉跡や台石、敲石などの道具類、鉄の矢尻、鉄の破片といった遺構や遺物を発見した。大きな板状鉄斧は朝鮮半島から持ち込まれた(輸入した)物とみられ、折れた鉄斧の刃先と共に、大型竪穴建物の壁付近で発見された。SH-302竪穴建物は円形の竪穴建物跡で、少なくとも3回程度の建て直しがあるが、10本柱の時期は直径10.5mである。炉跡は中央付近に10個所ある。鉄製品は19点が出土した。
遺構
- 竪穴建物跡23棟
- 掘立柱建物4
- 溝
- 土坑
- 鍛冶関連遺跡
遺物
- 弥生土器(壺+甕+鉢+高杯+器台+絵画土器+小型土器)
- 石器(敲石+砥石+台石+サヌカイト製石鏃)
- 鉄器(板状鉄斧+鉄鏃+板状鉄+棒状鉄)
- 鉄製品
- 敲石、
- 砥石
- 敲石 ベンガラが付着する
指定
- 平成24年9月19日 国史跡
展示
- 五斗長垣内遺跡活用拠点施設
考察
邪馬台国畿内説では弥生時代末期の近畿で鉄器が出土しないことが難点とされてきたが、五斗長垣内遺跡の発見により難点ではなくなった。淡路島では五斗長垣内遺跡や舟木遺跡などの鉄器生産工房跡が発見されており、弥生時代後期の近畿圏の鉄器生産基地であったと見られる。淡路島が西日本屈指の鉄器生産地であったことが明らかになった。 同じ弥生時代の鉄器生産は舟木遺跡(淡路市)でも行われていた。 五斗長垣内遺跡のあったのは倭国乱の時期である。五斗長垣内遺跡で作られた鉄鏃は倭国乱の戦いでも使われたかもしれない。
指定
- 平成24年9月19日 国指定 史跡名勝天然記念物
所在地等
名称:五斗長垣内遺跡
- 所在地:兵庫県淡路市黒谷1395-3
- 交通: JR神戸線快速「舞子」から(高速バス淡路交通・舞子・福良線「福良行」50分)「北淡IC」下車から徒歩45分
参考文献
- 淡路市教育委員会(2011)「五斗長垣内遺跡発掘調査報告」
縄文時代の炉 ― 2025年04月04日 00:17
縄文時代の炉(じょうもんじだいのろ)は縄文時代の竪穴住居内の火を燃やす場所をいう。
概要
炉は縄文時代に始まり、弥生時代にも使われた。縄文時代の竪穴住居には炉が存在する。 縄文時代の早期では住居の近くの屋外に炉を作っていた。縄文時代中期になり住居の中に炉を作るようになった。縄文時代の炉は多くは円形または四角形である。 弥生時代以降は地床炉になる。遺跡の竪穴住居には、熱により赤くなったり黒くなったりしているのが「炉跡」である。
炉の役割
炉の役割は火を使った調理をするためである。炉で火を燃やしてて食事を作り、家の中を明るくし、寒い時期には暖房の役割もあった。
炉の種類
炉には、地床炉、深鉢形土器を埋め込んだ埋甕炉、河原石をめぐらした石囲炉、土器と石囲を組み合わせた石囲埋甕炉などがある。
複式炉
竪穴住居の中で、火を焚く場所がふたつ並んでいる炉を複式炉という。後藤守一と梅宮茂が命名した。複式炉は、東北地方南部を中心に形成され、縄文中期末の大木 8b式土器の後半に出現し、大木10 式土器の後半に終焉したとされている。複式炉期の年代は、和台遺跡、前山A遺跡、三内丸山遺跡および小林ほか(2003)の縄文時代中期土器の14C年代から、炭素年代で 4300~3950 yrBP、暦年代で 2850~2470 cal BC (4800~4420 cal BP)と推定されている。
参考文献
- 吉川昌伸・吉川純子(2005)「縄文時代中・後期の環境変化」日本考古学協会福島大会
縄文時代の漆 ― 2025年04月05日 00:04
縄文時代の漆(じょうもんじだいのうるし)はウルシの木の樹皮に傷をつけて樹液を採取し、漆液を作り塗料や接着剤としたものである。
概要
漆の木は日本、中国、朝鮮半島にあるウルシ科ウルシ属の落葉高木である。 日本では縄文時代から漆を利用している。縄文時代の漆器は青森県是川遺跡や埼玉県真福寺貝塚における発掘調査によって1920 年代から知られていた(能城修一・吉川昌伸・佐々木由香(2021))。継続的に居住が続いた縄文時代の集落の周辺においてウルシ林が維持され、漆液を採取し、漆液を用いて漆器を製作していたことが明らかにされた。
漆器が出土する遺跡
古くは上久津呂中屋遺跡(富山県)、三引遺跡(石川県)から約7500年から7200年前の 漆塗りの櫛の破片が発見された。三内丸山遺跡からは漆塗りの赤い木皿や赤色顔料発見され、約5500年前のものとされる。縄文時代の漆器の出土状況から、本州の中央部から東北 部では普通にウルシ林が維持されていたと見られる。縄文時代前期の青森県岩渡小谷遺跡縄文時代中期から晩期の東京都下宅部遺跡から漆器の製作とともに、多数のウルシの木材が低地の遺構の構築や容器の製作に使われていた(同前)。下宅部遺跡における漆工作業は堀之内1 式期に始まり,縄文時代晩期初頭にはほぼ終息した(千葉敏朗(2021))。 関東地方ではデーノタメ遺跡(埼玉県)があり、漆塗り土器が出土している。集落でウルシの木を栽培し、管理していたとみられる。ウルシの痕跡は花粉、木材、漆製品、ウルシのパレットで確認されている。現在、ウルシの木の苗木は、岩手、福島、茨城で育成されている。日本一の漆の木の産地は岩手県である。
漆の木材
ウルシの木材は縄文時代草創期に福井県西部の鳥浜貝塚で出土しているが、縄文前期には東北地方の4遺跡、中期には関東地方と北陸地方の6 遺跡、後・晩期には本州中部から東北地方の18 遺跡で確認されている(能城修一・吉川昌伸・佐々木由香(2021))。短期間に使われた集落遺跡では、ウルシ資源の維持はできなかった。下宅部遺跡ではウルシは22 年生の個体が検出されている。ウルシは風通しを良好に保たないとと弱って枯れてしまうため,木が生長して大きくなるにつれ,隣接木との間隔を確保するために人手で間伐を行なう必要がある。下宅部遺跡からは木杭として70本の漆の木が出土した。このうち43本に杭を一周する掻き傷が確認された。下宅部遺跡のウルシ樹液採取の傷を持つ杭は縄文人がウルシ林を意図的に維持管理していた証拠となる。
発祥地
漆器は中国発祥であり(ウルシの原産地は中国の揚子江中・上流域から東北部とされていた)、漆技術は漆の木と共に大陸から日本へ伝わったと考えられていた(山崎敬(1989))。ところが北海道函館市南茅部地区の垣ノ島B遺跡から出土した漆の装飾品6点は米国における放射性炭素年代測定により7400年前の中国の漆器を大幅に遡る約9000年前(縄文時代早期前半)と判明した。
考察
ウルシの木が栽培されていたデーノタメ遺跡では現在、ウルシの木が見られないことから、人手がなければウルシの木を維持できないことは明らかである。ウルシの木は他の樹木よりも生長が遅いので、他の樹木との生育競争で負けてしまい生育できない。維持するには人手が必要である。ウルシの木は埼玉県では自生していないことから、埼玉県の縄文人はウルシの木をどこから手に入れたのであろうか。
参考文献
- 能城修一・吉川昌伸・佐々木由香(2021)「縄文時代の日本列島におけるウルシとクリの植栽と利用」
- 山崎敬(1989)「ウルシ科.『日本の野生植物 木本II』(佐竹義輔・原 寛・亘理俊次・冨成忠夫編)pp.4-6,平凡社,
- 坪井睦美(2001)「遺跡速報 垣ノ島B遺跡の漆製品」考古学ジャーナル (479) (臨増) p.29
- 千葉敏朗(2021)「下宅部遺跡から見た縄文時代の漆工技術」
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