埴輪の起原 ― 2025年04月21日 00:47
埴輪の起原(はにわのきげん)は2025年、国学院大学で開催された古代史の講演会である。
概要
- タイトル 「埴輪の起原」
- 講師 春成秀爾(国立歴史民俗博物館 名誉教授)
- 会場 国学院大学 常盤松ホール
- 主催 国学院大学学術資料センター 古墳時代研究会
- 日時 2025年(令和7年4月12日(土) 14:00~15:30)
要旨
開催趣旨
都月坂1号墳の発掘から60年、「埴輪の起原」の論文はすでに古典となったが、筆者による再検証を行う。国学院大学には図書や資料を寄贈いただいたので、博物館にコーナーを設け展示している。講演では本邦初公開の図面も紹介される。
講演 春成秀爾名誉教授
国学院大学との縁はあまりないのだが、1982年小林達雄(名誉)教授が海外カナダでの研究活動を行った際に、国学院大学での授業を代講したのが縁であり、その後国学院大学「院友」にさせていただいた。
1963年から考古学の世界に入った。1955年の中学校から古生物学を研究していた。1963年に宮山遺跡で高橋守が特殊器台を発見した。円筒埴輪であるが、ひらめきがあり、調査団長の近藤義郎先生と3回見た。弥生時代の終わりの時期であるが、それまで埴輪は近畿地方に突然に現れたと説明していた。大学では明治大学も考えたが、学費の関係で岡山大学に進学した。まだ考古学講座はなく、日本史専攻なので、大正政治史を卒論として秋には遺跡実測医の手助けをしていた。1966年に岡山大学を卒業し、九州大学大学院に進学した。
その後、岡山大学に考古学研究室ができることになり、近藤義郎先生だけでは考古学教室ができないので、大学院に行って2ヵ月で岡山大学助手になった。 1967年に論文「埴輪の起源」(考古学研究会)を近藤先生と共著で発表した。論文では弥生後期の吉備地方の特殊器台とその上に載せる特殊壺が円筒埴輪と壺形埴輪の起原であり、その後、両者を結合した朝顔型円筒埴輪が出現した。その意義は古墳被葬者に飲食物を提供する象徴的な器物である。論文では、立坂型→向木見型→宮山型→都月型の変遷を示した。
論文には誰も反論できず、画期的な論文となった。小林達雄先生は埴輪のあるなしだけに関心があった。私は埴輪の形式学的研究と埴輪の起原に関心があった。そのため全国の埴輪を回ろうとしたが1人では回れない。群馬、近畿、岡山だけで断念した。 その後、1976年に宮内庁は箸墓古墳にトレンチを入れ、都月型埴輪を発見した。列島最古の古墳には埴輪は伴わないと考えられていたが、最古の古墳にも埴輪があることが判明した。 当初は「特殊な器台」と呼んでいたが、いつの間にか「な」がとれて、特殊器台となった。 特殊器台は8m間隔で置かれていた。元は前方部にあり、のちに棺桶として流用された。
特殊器台は墓だけから見つかる。 なぜ最古の古墳に特殊器台があるかは、もっとしっかり考えなければならない。 箸墓古墳では埴輪が配列されていたかは不明である。検討材料が少ない。本来立てるものであるが、箸墓で立てていたかは不明である。西殿塚古墳でも都月型がでている。 3世紀の第三、第四四半期であろう。円筒埴輪は伽耶からも出土している。調整半島南部に倭人がいた可能性がある。
質疑応答:(1) 箸墓の特殊器台発見と、論文「埴輪の起原」との関係はどうか。 → 箸墓での円筒埴輪の発見は公表より早かった。1976年に公表されたが、発見は1968年頃である。
質疑応答:(2)埴輪の辟邪思想はあったか。 → 元は葬祭が終われば、器台は片付けていた。最初は1セットだったが、後代に意味が変化し、肥大化して多数の埴輪を並べるようになった。被葬者を守るため現場に残すようになったのではないか。辟邪は邪悪な霊から防ぐ意味であろう。
参考文献
- 春成秀爾(2025)『埴輪の起原』講演資料
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