快天山古墳 ― 2026年03月19日 00:10
快天山古墳(かいてんやまこふん)は快天山古墳は讃岐平野西部、土器川の下流域を望む丘陵端部に築かれた古墳で、讃岐地域における古墳時代前期首長墓の代表例とされる。
概要
快天山古墳は後円部を南に向け、前方部を北に向ける。後円部頂は標高75.4mを測る。周囲の水田面との比高はおよそ40mである。墳丘は二段築成とみられ、斜面には葺石が施され、テラス面には約3~4m間隔で円筒埴輪列が巡っていた。位置は琴平電鉄線の栗熊駅と羽床駅とのほぼ中間、線路より約300mの北である。葺石は1951年の調査においても殆んど残っておらず、僅かに所々に見られるに過ぎないとされた。前方部の両側の約半分が開墾された時、そこにあつた葺石は、未だ開墾されていない前方部の松林の中程に相当多数投げこまれ、今畑の南端に添つて積み重ねられた堆積が数個見られた。 古墳背後の丘陵は1970年代の農地整備事業により大きく改変され、前方部の一部も削平された。この際、前方部に接して存在した箱式石棺群が失われたとされる。
年代観
古墳の築造は古墳時代前期前半(4世紀前半頃)と推定される。
調査史
1950年(昭和25年)、地元中学生により露出した石棺が発見されたことを契機に香川県教育委員会が緊急調査を実施し、報告書として和田正夫・松浦正一(1951)が公表された。鳥形の形象埴輪、円筒埴輪を確認している。棺身両端の棒状突起附近の発掘により、北端突起の辺りからは深緑色の碧玉製石釧破片1が発見され、南端突起の西傍らには一面の方格規矩鏡が少量の朱と共に板状安山岩上に置かれ、細片に砕けていた。1号と2号石棺は盗掘されていたが、3号石棺は未盗掘であった。 翌1951年(昭和26年)には梅原末治ら京都大学文学部考古学研究室が追加調査を行い、2002年に報告書刊行による追加調査が行われた。 2004年の綾歌町教育委員による調査で快天山古墳は墳丘長98.8m、後円部は南北68m、東西63.5mのやや楕円形を呈する。前方部は長さ35.6m、くびれ部幅32.5m、最大墳丘高10.8mの前方後円墳と判明した。遺物は円筒埴輪片、壺形埴輪片、須恵器片、石斧片、八稜鏡、が出土した。須恵器片は後世の混入遺物と考えられている
主体部
1950年(昭和25年)の調査で石棺が開けられ、後円部の①第1主体、②第2主体、③第3主体が確認された。遺構は割竹型石棺、遺物は第1号石棺から方格規矩四神鏡、鉄刀・鉄剣・鉄鏃、鉄斧・鉄鑿、刀子、石釧、管玉・勾玉など、第2号石棺からは倭製内行花文鏡片・鉄剣、鉄斧、刀子、管玉、第3号石棺からは倭製内行花文鏡、鉄剣などが出土した。棺身には作り付けの石枕がつけられている。割竹形石棺は畿内や吉備地方の前期古墳にみられる埋葬施設であり、快天山古墳の例は讃岐地域における受容の早い段階を示すものと考えられている。割竹形石棺を採用した古墳の中では最古期に位置付けられている。
破砕鏡の指摘
長谷川達(2001)は「快天山古墳の1号石棺外において、板石と粘土に挟まれた状態で方格規矩四神鏡が出土している。棺外に鉄剣・鉄鏃類もあり、これらは一連の棺外副葬とも受け取れるが、意図的に石で覆い、数十に細片化している状態は単なる粘土、石の重量によるものとするには違和感を覚える」と指摘される。意図的な破砕の可能性が示唆されていた。
快天山古墳の研究的価値
研究的価値は次の3点となる。
- 讃岐最古級の前方後円墳
- 割竹形石棺の早期例
- 畿内系古墳文化の導入
讃岐地域前期古墳の成立
讃岐地域(現在の香川県)における古墳の出現は、弥生時代後期の首長墓の発展を背景として古墳時代前期に始まる。瀬戸内海沿岸という交通上の要地に位置する讃岐では、弥生時代後期には既に地域首長層が成立しており、その政治的基盤の上に前方後円墳を中心とする古墳文化が導入されたと考えられる。
弥生時代後期の讃岐では、丘陵上や微高地に方形周溝墓などの墓制が形成されていた。これらの墓は地域共同体の首長層を葬る施設と考えられ、墳丘墓の規模拡大や副葬品の増加などから社会階層の形成がうかがえる。こうした弥生社会の首長層が、古墳時代の到来とともに前方後円墳を採用することにより、より広域的な政治秩序の中に組み込まれていったとみられる。
讃岐地域で前方後円墳が築造されるのは古墳時代前期前半(4世紀前半頃)と考えられている。その代表例が丸亀市の快天山古墳である。快天山古墳は墳丘長約100mの前方後円墳で、割竹形石棺を主体部とし、銅鏡・鉄器・玉類などを副葬する。このような埋葬施設や副葬品の構成は畿内や吉備地方の前期古墳と共通する特徴を示しており、讃岐の首長層が瀬戸内海を通じた広域交流の中で古墳文化を受容したことを示している。
瀬戸内海は古代における重要な交通路であり、吉備・播磨・讃岐・伊予などの地域を結びつけていた。とくに吉備地方は古墳時代前期において巨大古墳が築かれる政治勢力の中心の一つであり、その文化的影響が瀬戸内沿岸各地に及んだと考えられる。讃岐の前期古墳にみられる割竹形石棺や銅鏡副葬などの要素は、吉備や畿内との政治的・文化的関係を反映する可能性が高い。
また讃岐の古墳は平野中央ではなく、丘陵端部や平野を見下ろす位置に築かれる例が多い。これは農耕地を基盤とする首長権力が、地域社会を視覚的に支配する象徴として古墳を築いたことを示すと考えられる。快天山古墳のように平野を望む丘陵上に立地する古墳は、首長権力の象徴としての性格をよく示している。
古墳時代前期の後半になると、讃岐各地で中小規模の前方後円墳や円墳が増加し、古墳の分布は次第に広がっていく。これは地域首長層が複数化し、古墳を築く社会階層が拡大していったことを示していると考えられる。この段階では、前方後円墳を築く首長層を頂点とし、その下に円墳などを築く地域有力者層が存在する階層構造が形成されていた可能性が高い。
このように讃岐地域の前期古墳は、弥生時代後期の地域首長層を基盤としつつ、瀬戸内海を通じた広域交流の中で成立したものである。快天山古墳に代表される大型前方後円墳の出現は、讃岐の首長層が畿内政権を中心とする広域政治秩序に参加したことを示す考古学的証拠とみることができる。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:1段、後円部:1段
- 墳長 98.8m 東西短軸径63.5m
- 後円部径 径68m 高8m
- 前方部 長35.6m
遺構
- 室・槨 ①②竪穴式石槨
- ③粘土槨
- 棺 ①②③刳抜式割竹形石棺
- テラス
遺物
築造時期
指定
- 2004年9月30日 国の史跡指定
展示保管
アクセス等
- 名称:快天山古墳
- 所在地:香川県丸亀市綾歌町栗熊東若狭807-1
- 交通:
参考文献
- 綾歌町教育委員(2004)「綾歌町遺跡発掘調査報告書」
- 和田正夫・松浦正一(1951)「快天山古墳発掘調査報告書」『香川県史跡名勝天然記念物調査報告』15 香川県(復刻版)
- 長谷川達(2001)「破砕鏡からの予察」『京都府埋蔵文化財論集 第4集』
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