正倉院宝物盗難事件 ― 2025年04月22日 00:18
正倉院宝物盗難事件(しょうそういんほうもつとうなんじけん)は奈良県奈良市の東大寺内の正倉院 に保管されている宝物が盗難にあった歴史的事件である。
概要
正倉院は勅封蔵(勅封倉)制度により、天皇の勅使でなければ宝物倉を開けることが出来ない制度によって、長い間に渡り守られてきた。ところが過去に盗難事件が何回か起きている。それらについてまとめる。そのほか奈良時代などで宝物を借りだして返却しなかったこともある。犯行は大部分が東大寺の僧であった。
判明している盗難事件
長歴三年盗難事件
1039年(長歴三年)3月3日、僧の長久・菅野清延が東大寺北倉に侵入し、銀300両を盗み出したが、同年5月18日に捕らえられた(参考文献4)。高床の下に忍び込み床板の一部を焼いて孔を開け、そこから侵入したと考えられる。
- (参考)長暦三年三月三日夜、盗人焼穿勅封蔵、窃取宝物、
- 長久二年 (中略)十二月廿九日、自検非違使庁、糺反黄金等送之、
- 別当所司五師検校封納印蔵 (「東大寺別当次第」『群書類従』)
寛喜二年盗難事件
1230年(寛喜二年)東大寺の僧「顕識」、「春蜜」等が正倉院中倉に侵入し、鏡八面、銅小壺1個、銅小仏三体を盗み出した(参考文献5)。
- (参考)同年(寛喜二年)十月廿七日降雨 今日終夜、盗人焼開東大寺勅封倉中間、
- 盗取宝物之由、以年預五師状申寺務、廿八日戌剋到来、仍自別当、
- 同廿九日辰刻相具五師状、以公人国貞遣長官家光許了、即大衆令蜂起、
- 郷々求之中門台後戸階置之、盗渡之立彼橋登蔵上、焼穿鏘根一尺余、
- 開門戸入蔵内云々、 (下略)
- 同寛喜二年十月廿七日夜、群盗焼穿正蔵院中倉、盗取宝物了、
- 仍為知紛失物、(中略)
- 十二月七日被遣勅使、実検宝物、 (下略)
- (「東大寺続要録 宝蔵篇」『続々群書類従』)
- (大意) 1230年(寛喜二年)10月27日の雨の夜に盗賊は、中門堂の後戸の階段を持ち出し、これを正倉院の縁側に立ち渡し、蔵の上に登り、中倉の扉の錠の根元を焼き切って門戸を開き、庫内に入って宝物を盗んだ。 中倉に仮納中の北倉の宝物のうち、鏡8面、銅小壺1口、銅小仏3体であった。 主犯は、元東大寺僧の春蜜と顕識らであった。 犯人らは、白銅鏡を銀とみて、これを小さく砕いて京都へ持参し売ろうとした売値が安いため、大仏殿前の五百余所社の社殿に包んで積み置き、そしらぬ体でいた。
ところが、吉野山蔵王堂の前執行の下人が、大和国葛城上郡の僧顕識の挙動に不審をもち、正倉院宝庫破りの犯人らしいと言い出した。同年11月28日、興福寺の衆人が逮捕に向かったところ、顕識が抵抗し、興福寺の僧・延実、弘景の兄弟と斬り合いになった。顕識は弘景に打ち伏せられて縛につき、糾問の結果、首謀者は元東大の僧円詮(春蜜)であること、贓品の隠し場所など一切のことを自供した。円詮は東大寺の五師(5人の執事)の一人であるが、実遍殺害の下手人でもあった。潜伏先を捜索したが、もぬけの殻であった。しかし、居場所が知られて春密も捕縛された。 12月25日、顕識と舎弟法師・春密と共に、佐保山で斬首され、首は奈良坂にさらされた。
盗まれた鏡は1231年(寛喜三年)3月に正倉院に送り返された。四十四片に分かれた一面の鏡(花鳥背八角鏡)は詳細な実況見分図が残されている。図の通り復元すると、「無」と記された4片の破片が足りなかった。明治時代に接合復元され、往時の姿を取り戻した。新片と破片同士をつなぐ鎹に銀が使われた(参考文献6)。
寛喜二年盗難事件
1328年(嘉歴三年)、このときの犯人は特定できなかった(参考文献7)。
安倍友清が占って逃げた方角や、宝物発見の見込みが示され、「東大寺関係者が犯人に交じっている」との占いがでたが、それ以上は判らなかった。
慶長十五年盗難事件
江戸時代の1610年(慶長十五年)7月21日、東大寺塔頭の僧が、北倉の床板を切り破って宝物を盗み出した。 奈良が台風に見舞われ、大仏殿の仮上屋が大風により倒れた。大仏殿は、1567年(永禄10年)、三好・松永の合戦による兵火で焼失し、復興されないまま仮上屋のままであった。散乱した材木の取り片付けに塔頭の福蔵院、北林院、中証院の三人が指揮した。ところが三人は、涼をとる格好で正倉院宝庫の下に集まり、宝庫を破って宝物を盗る相談をはじめ、北倉の床板を切って宝物を奪った。1年半経過した1612年(慶長17年)3月下旬に塔頭の上生院、無量寿院、清涼院3人が、「内々不思議な売り物が方々から出ている」といううわさを耳にする。 宝庫を調べた処、そこではじめて北倉が破られていることが判明した。南都奉行に訴え出て、東大寺僧侶全員を集めた現場検証の結果、福蔵院等3人と僧・学順が捕えられた。その後、京都所司代が嫌疑の者と買い手を対決させると、すべてを白状するに至った。犯人は猿沢の池のほとりに籠詰にされ、さらし者とされた。1613年(慶長18年)、中証院が牢死し、1614年(慶長19年)2月、残りの3人は奈良坂で磔に処せられて、事件は落着した。佐波理の皿や碗などが持ち出されて売却されたとされるが、盗難の全容や、回収品は不明である。
参考文献
- 和田軍一(1967)『正倉院夜話~宝物は語る~』日本経済新聞社
- 中川登史宏(1982)『正倉院物語』向陽書房>
- 和田軍一(1996)『正倉院案内』吉川弘文館>
- 『春日社参記』
- 『東大寺別当次第』『東大寺続要録』『百錬抄』
- 杉本一樹(2008)『正倉院』中央公論新社
- 拾遺古文書中の『佐保山晋円献納文書』『東南院文書』
水精誦数 ― 2025年04月19日 00:29
水精誦数(すいしょうじゅず,Crystal Rosary)は正倉院に保管されている水晶製の数珠である。
概要
数珠は誦数、念珠とも書かれ、一定の数の珠を紐に通して、称名(仏の名を唱える)や陀羅尼(仏教の呪文)などを念誦する際に、その数を数えるために用いる。 念珠を持ち、仏に手を合わせると、煩悩が消滅し功徳を得ることができると考えられている。 数珠の数は、108珠が基本となる。 母珠1枚、咸珠108枚、記子10枚、記子留枚のすべてが水晶製となっている。 正倉院にはほかに琥碧誦数、菩提子誦数がある。 展示回数は少ない。
東大寺献物帳
東大寺献物帳には百済の義慈王が献納した宝物に「純金念珠 一具、白銀 念珠 一具、瑪瑙念珠 一具、水晶念珠 一具、虎魄念珠 一具、真珠念珠 一具、紫瑠璃 一具」との記載がある。そのうちの「水晶念珠 一具」の可能性がある。
水精誦数
正倉院には水精誦数は第15号、第16号、第17号、第18号、第19号の5種類がある。
展示歴
水精誦数 第15号
- 1992年 - 第44回
水精誦数 第16号
- 1954年 - 第8回
- 1977年 - 第30回
水精誦数 第17号
- 1961年 - 第14回
管理
- 名称 :水精誦数 第16号
- 倉番 :南倉 57
- 用途 :仏具
- 技法 :石製品
- 寸法 :周囲長 81.0cm
- 材質: 水晶
参考文献
- 成瀬正和(1986)「石製宝物材質調査」書陵部紀要 第8号 年次報告,p.76
檜和琴 ― 2025年04月11日 00:51
檜和琴(ひのきのわごん, Japanese cypress Wakoto)は正倉院に収蔵されている木製の日本固有の六絃の琴である。
概要
和琴は「大和琴」(やまとごと)、「東琴」(あずまごと)「倭琴」(やまとこと)とも言われる。神社で使用される和琴は弥生時代から檜、杉、高野槙等を使用していたとされる。和琴は六弦の小型の琴である。琴の弦は失われているため音色は不明である。側面や両端に螺鈿が施され、装飾性に溢れる。万葉集では「日本琴」とも書く。弥生中期の琴が出土する。祭礼などで使用したとみられる。
由来
神楽や雅楽などで用いられ楽器であったという。古墳時代の埴輪の弾琴像や埴輪に描かれる琴は、四絃または五絃で、六絃のものは見られない。近畿地方から出土した埴輪の琴も五絃である。和琴がいつから六弦になったかは不明である。
古事記の琴
古事記に「爾握其神之髮、其室毎椽結著而、五百引石取塞其室戸、負其妻須世理毘賣、?取持其大神之生大刀與生弓矢及其天詔琴而、逃出之時、其天詔琴、拂樹而地動鳴。」 (大意)其の妻の須世理毘賣(スセリビメ)を背負うとすぐに、取持其大神の生大刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)と其の天の詔琴(のりごと) を取って、逃げ出す時、其の天の詔琴が樹に触れて、地が鳴動鳴した。 (意訳)大穴牟遅は須佐之男の髪を束ねて部屋の太い柱に結びつけ、巨大な岩で部屋の入口を封鎖し、妻の須勢理毘売を背負い、神宝の大刀・弓矢・天の詔琴を手にして逃げ出そうとしたところ、詔琴が樹に触れ、大地が揺れ動ごき轟音が響いた。須佐之男は気づいて起き出した。 神代の三種の神器は、太刀・弓・琴だったようだ。このような忙しい場面で琴を持ち出そうとしている。
構成
槽に檜材を使用し、上面は金銀泥で麒麟、鹿、尾長鳥、草花などを描く。周縁には金泥・銀泥で模様を描いた玳瑁を張り、竜頭・竜尾にも玳瑁を張る。緑地の玳瑁は後補である。竜頭・竜尾の玳瑁は、予め型を作りはめ込んでいる。側面は彩画を施した玳瑁と金箔を裏から押した玳瑁を交互に貼り付ける。彩画のものは直接、朱・緑などで文様を描く(参考文献1)。
類例
時代は下るが、彦根城博物館の和琴は六弦である(参考文献2)。
材料
槽・磯は檜材である。
展示歴
- 1949年 - 東京国立博物館、御物特別展
- 1952年 - 第6回
- 1967年 - 第20回
- 1984年 - 第35回
- 1997年 - 第49回
- 2013年 - 第65回
管理
- 名称 :檜和琴
- 倉番 :南倉 98
- 用途 :楽器・楽具
- 技法 :木竹工
- 寸法 :全長156.0cm,頭部幅17.0cm,尾部幅13.5cm(注:参考文献1では全長156.0cm,厚さ4cm,尾部幅17cmとなっている。
- 材質:槽・磯は檜 裏板は環孔材 栢形・櫛形は紫檀貼 金銀泥絵 金箔 玳瑁 金銀細線 螺鈿木画(黄楊木・紫檀・黒檀) 象牙
参考文献
- 内田至(1991)「正倉院宝物の海ガメ摂収集調査報告」正倉院紀要13号
- 松本重行作「和琴 銘葵」南北朝時代 永徳元年(1381),井伊家伝来資料
紫檀木画双六局 ― 2024年12月17日 23:56
紫檀木画双六局 (したんもくがのすごろくきょく,Sugoroku Gaming Board)は正倉院に収蔵されている木製の双六盤である。
概要明治時代に双六盤として名付けられた4具のうちの一つとされる。 天板の長辺に木画の三日月形をはさみ各辺に6個の花形を飾る。
由来
中国にシルクロード経由で双六が伝わり、その後、日本には奈良時代に伝わった。国家珍宝帳記載の木画紫檀双六局(北倉37)と、形状、大きさ等が似ている。
概要
日本で現存する最古の双六道具は、朝鮮から渡来した「木画紫檀双六局」である。『鳥獣人物戯画』丙巻に2匹の猿が「盤双六」と小道具を抱えて走る姿が描かれている。
海外における古代のボードゲーム
表記
展示歴
管理
参考文献
紫檀地に木画による装飾を作出する。長側面に2つ、短側面に1つの格狭間を配置する。天板の周囲には双六のサイコロを止めるための立ち上がりを設置する。側面には立ち上がりや脚に花唐草文、鳥、雲、鳥にまたがる人物を描く。木画素材に象牙、黄楊木、緑染鹿角・水牛角・鉄刀木・竹を用いる。
類例
正倉院に下記双六局の類例がある。
No
名称
保管
備考
1
木画紫檀双六局
北倉 37
[[国家珍宝帳]]記載
2
木画螺鈿双六局第1号
中倉 172
弾棊盤の可能性
3
沈香木画双六局第2号
中倉 172
立ち上がりがない
4
紫檀木画双六局 第3号
中倉 172
本品
5
榧双六局 第4号
中倉 172
立ち上がりがない
紀元前にイラク、エジプト等の遺跡から出土された「遊戯盤双六」がある。
増川宏一(1995)によれば、「古代メソポタミア文明時代のウル王朝のボードゲームは、イラク南部のウル第三王朝の王墓から発掘されたものとし、紀元前2600年頃のウルの繁栄と富裕を象徴し、古代世界で最も優美で精巧な細工の遊戯盤として知られている。ロイヤルゲーム・オブ・ウル(Royal Game of Ur)と呼ばれている」とする(参考文献3,pp.16-26)。新彊ウィグル自治区吐魯番のアスターナ墓地206号墓から出土した「螺銅木双陸棋盤」は、長さ28.0cm、高さ7.8cmで〔参考文献2〕、その形状・盤面の装飾が正倉院の「木画紫檀双六局」と似るとしている(参考文献1,p.32)。
すごろくは「双六」のほか「雙六」、「寿語六」、「須語陸」、「須具侶久」、「雙陸」とも書かれる。
+1946年 - 第1回
+1949年 - 東京国立博物館、御物特別展
+1955年 - 第9回
+1964年 - 第17回
+1979年 - 第32回
+1991年 - 第43回
+1995年 - 第47回
+2008年 - 第60回
-名称 :紫檀木画双六局 第3号
-倉番 :中倉 172
-用途 :遊戯具
-技法 :木竹工
-寸法 :縦30.6cm,横54.4cm,高17.8cm
-材質:紫檀 木画(黄楊木・紫檀・象牙・緑染鹿角・水牛角・鉄刀木・竹) 稜角は象牙
1.山本忠尚(2012)「古代の盤上遊戯 数の呪力と考古学(その3)」中国文化研究 (28), pp.21-43
2.新彊維吾爾自治区博物館(1975)『新彊出土文物』文物出版社
3.増川宏一(1995) 『すごろく 1』法政大学出版局
4.game-board of Ul 大英博物館HP
国家珍宝帳 ― 2023年08月05日 14:05
国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう,List of rare tresures of the state )は光明皇后が聖武天皇の遺品を東大寺大仏に献納した際の目録である。
概要
756年(天平勝宝8年)6月21日の聖武天皇の七七忌に法会を営み、勅願寺の東大寺の廬舎那仏に聖武天皇遺愛の品を献納して納めた宝物の目録である。正式名は「天平勝宝八歳六月二十一日献物帳」であるが、「国家珍宝帳」と呼ばれる(参考文献1)。
形状
軸端は白檀の撥形である。本紙部分は白麻紙を用いる。巻末に先帝の追福を願う跋文と「天平勝宝八歳六月二十一日」の日付が記載され、藤原仲麻呂、藤原永手、巨萬福信、賀茂角足、葛城戸主の官人の署名がある。墨界は薄い墨で引いた罫線である。企画立案事務は、皇后宮職を改組した紫微中台が担当した。藤原仲麻呂は紫微中台の長官であり、巨萬福信、賀茂角足、葛城戸主は次官である。藤原永手は侍従であった。 目録に記載された宝物は600点以上にのぼる。白麻紙と称する上質紙十八張を張り付いだ、縦25.8cm、横1474.0cmの長大な巻子である。楷書体で記された墨書の上に、一辺8.7cmの天皇御璽の印が料紙全体に三段ずつ押される。白檀の撥型軸に白麻紙を継いだ本紙に唐風の楷書を丁寧に書き、その上に「天皇御璽」印を489か所に捺印する。
構成
巻頭に皇太后の願文を書き、以下、御袈裟、御帯、牙笏、弓箭、刀剣、書法、楽器など六百数十点を列挙する。現存するものはそのうち百余点である。 通称は願文にある「国家の珍宝等を捨す」に由来している。 巻末に藤原仲麻呂、藤原永手、巨萬福信、賀茂角足、葛城戸主がそれぞれ自書する。
書体
国家珍宝帳に記された文字は端正な楷書体とされている。しかし、堀江知彦は王羲之系統の書体の影響によるものと、特異な右払いを含む楷書体の2通りがあると指摘している。唐において最新の様式であった顔真卿初期の書体の影響を国家珍宝帳が受けていることを指摘されていた。書道史研究者の魚住和晃・神戸大学名誉教授は「国家珍宝帳」は王羲之の書法を極めた欧陽詢から唐代の新派につながる書法で書かれていると指摘する。
管理概要
- 名称 - 国家珍宝帳
- 管理番号:北倉 158
- 形態:紙本 墨書
- 用途 : 書蹟・地図
- 技法 : 紙
- 寸法 : 本紙縦25.9cm 全長1474cm 軸長29.3cm
- 材質・技法 : 本紙白麻紙18張 墨書 朱印 軸端は白檀 軸木は杉
出展歴
- 名称:国家珍宝帳
- 1956年 - 第10回
- 1966年 - 第19回
- 1981年 - 特別展『正倉院宝物』(東京国立博物館)
- 1990年 – 第42回
- 2006年 - 第58回
- 2019年 - 正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―(東京国立博物館)
参考文献・注
- 藤田経世編(1972)『校刊美術史料 寺院篇 中巻』中央公論美術出版
- 奈良国立博物館編(2019)正倉院学術シンポジウム「宝物のはじまりと国家珍宝帳」思文閣
菩提子誦数 ― 2023年06月13日 21:40
菩提子誦数(ぼだいしじゅず,Rosary)は正倉院に保管されている木製の数珠である。
概要
木の実で咸珠108枚が作られている。留め金具は金銅製で、紐は後から補修したものである。菩提子は菩提樹の実である。しかし木の実が実際に菩提子ではなく、シナノキ屬(Tilia)の1種の果実の核である。『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』に菩提樹で作った誦数一貫の記載がある。ボダイジュ、シナノキ、ヘラノキもシナノキ屬である。
展示歴
- 1961年 - 第14回
- 1977年 - 第30回
管理
- 名称 :菩提子誦数 第20号
- 倉番 :南倉 58
- 用途 :仏具
- 技法 :木製品
- 寸法 :周囲長 88.0cm
- 材質:
参考文献
- 奈良国立博物館(1977)『正倉院展目録』奈良国立博物館
- 嶋倉巳三郎,村田源(1981)「正倉院宝物の植物材質調査報告」正倉院紀要第9号,p.8
御袈裟箱袋 ― 2023年06月13日 21:38
‘'御袈裟箱袋''(おんけさのはこのふくろ,Wrapper for a Kesa Box)は正倉院に収蔵されている御袈裟箱を包む布袋である。
概要
臈纈で霞襷・魚鳥文を染めた長方形の袷裂を、筒状に縫いつける。表に霞襷魚鳥文﨟纈絁、裏に浅緑絁を用い、それぞれ二幅ずつ継いで袷にし、風呂敷風に四角にして、対角を折り返して、縫い綴じる。熨斗形の形状であり、両口があいているため、箱を一方の口から差し入れ、両方の開口部をたたむと、袈裟箱を包むことができる。
展示歴
- 御袈裟箱袋
- 1956年 - 第10回
- 1965年 – 第18回
- 1983年 – 第35回
- 2006年 – 第58回
管理
- 名称 :御袈裟箱袋 第1号
- 倉番 :北倉 1
- 用途 :収納具
- 技法 :染織
- 寸法 :縦144cm,幅102cm
- 材質:緑臈纈絁 裏は黄緑絁
参考文献
- 奈良国立博物館(2008)「正倉院展60回のあゆみ」奈良国立博物館
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