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乙巳の変2023年08月15日 09:07

乙巳の変(いっしのへん)は645年、「中大兄皇子」と「中臣鎌足」が、大仁の「蘇我入鹿」を宮廷内で暗殺し、蘇我入鹿の父「蘇我蝦夷」を自害させ、蘇我氏を滅ぼした政変である。645年は干支の「乙巳」の年のため「乙巳の変」とされる。

概要

626年(推古34年)に蘇我馬子が亡くなり、息子の「蘇我蝦夷」が大臣職を継承した。 628年(推古36年)、「推古天皇」がなくなったため、有力豪族の間で争いが起きる。有力な皇位継承権者に田村皇子と山背大兄王がいた。蘇我蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼし、田村皇子の即位を強行し、629年2月2日 舒明即位した。 641年(舒明13年)に舒明が亡くなると、舒明天皇の皇后「宝皇女」が「皇極」として即位した。蘇我蝦夷は、息子の蘇我入鹿に政治権力を委譲する。蘇我入鹿は、皇極の次期として、舒明の第1皇子「古人大兄皇子」の擁立を図る。反蘇我勢力は聖徳太子の子の山背大兄王を推し、権力争いが起きる。蘇我入鹿は、政敵の山背大兄王を「斑鳩宮」に襲撃し、聖徳太子の一族・上宮王家を滅ぼした。645年(皇極4年)7月10日、乙巳の変が起きる。

乙巳の変の出来事

645年に中大兄皇子、中臣鎌足、らが宮中で蘇我入鹿を暗殺したクーデターであった。翌日には蘇我蝦夷を自害に追い込み、蘇我本家は滅んだ。 皇極天皇は退位し、その弟で中大兄皇子の叔父にあたる孝徳天皇が即位し、中大兄皇子は皇太子となる。

蘇我氏の専横の内容

以下が日本書紀にみえる。 (1)山背大兄王を殺害したこと、 (2)子の蘇我入鹿に紫冠を授け大臣としたこと、 (3)自らの屋敷を「上の宮門」、子どもを「王子」と呼んだこと (4) 天子だけが舞う八佾の舞を行ったこと (5) 蘇我父子の墓を作らせ、大王の墓と同じ「陵(みささぎ)」と呼ばせた 上記には反論もある。(1) 山背大兄王殺害には孝徳天皇も関わっている。(2)は、蘇我氏内部の族長の継承はあくまで氏族内部の問題であり、大王の許可が不要であったとされる。 (3) 蘇我入鹿は実際に「王子」であった可能性がある。(4)は中国・朝鮮の雅楽に用いられた舞であるが、天子の儀式で演じるので、天子が舞う訳ではない。(5)古墳時代の古墳は大王位外も築造していた。「造山古墳」は巨大な前方後円墳であるが、大王の墓ではないとされる。 「紫冠」は官位12階とは無関係である。

東アジア情勢

乙巳の変には当時の東アジア情勢が反映されているという見解がある。 唐が高句麗へ侵攻し朝鮮半島が軍事的緊張に包まれる中、戦争に備えるため中央集権体制の確立が必要となったとの見解である。 高句麗の将軍である淵蓋蘇文は642年栄留王と180人余りの臣下を殺害し、王弟の子である宝蔵王を王位につけた。百済は義慈王が新羅に侵攻して伽耶地方を制圧する。 643年高句麗と百済の間で和睦が成立する。唐が求める新羅との和解要求を高句麗が拒絶し、 唐が承認する王の栄留王が殺害されたことなどを理由として645年には10万の大軍を高句麗に進軍した。乙巳の変はそのような激動の時代にあった。 唐は高句麗と百済を敵とし、新羅の側についた。高句麗を攻めるため、先に百済を攻めようとする背後戦略をたてている。

入鹿の本名は

蘇我入鹿は、『藤氏家伝』に「宗我太郎」、『上宮聖徳法王帝説』に「林太郎」と書かれることから、入鹿の姓だったのか疑問がある。また「林」は姓なのか不明である。

参考文献

  1. 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 仁藤敦史()『東アジアからみた「大化の改新」』吉川弘文館

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