銅鐸 ― 2023年08月11日 21:50
銅鐸(どうたく)は弥生時代に使われた釣鐘形の青銅器である。
概要
古代では鐸は長い柄をつけ、合図のために振り鳴らした鈴状・鐘状のものとされる。銅または青銅で鋳造した大型の鈴である。鉄製のものは、「鉄鐸」という。扁平な鐘の中に舌があり、上部の柄を持って振り鳴らす。古代中国で教令を伝えるときに用いた。 日本書紀と古事記とでは、鐸を誰が鳴らすか、使用目的が異なっている。日本書紀では宮殿に参上した者が鳴らす、古事記では大王が鳴らす。
銅鐸の用途
実用の道具としてではなく、鏡や銅鐸のような宝器や儀式用の品物に使われた。国立歴史民俗博物館の春成秀爾は豊作を祈願する祭りに祖先の霊を招くために鳴らしたものとした。 小林行雄は、香川県出土と伝えられる銅鐸の両面に描かれた12カットの絵画から「弱肉強食の狩猟生活から、脱穀と高床倉庫に象徴される農耕生活へと移ったことを回想したもので、銅鐸は秋の収穫祭のときに祖先をたたえるために鳴らしたもの」と判断した。
銅鐸文化圏
哲学者の和辻哲郎は銅鐸が多く分布する近畿と、銅矛・銅剣が多く分布する九州を、相対立する文化圏と定義した。しかし、1970年(昭和55年)、鳥栖市の安永田遺跡で銅鐸の鋳型が発見された。九州に銅鐸の文化が確実に存在することが明らかになった。1974年(昭和59年)に島根県出雲市の荒神谷遺跡で銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が発見された。続いて同県の加茂岩倉遺跡からも銅鐸39個が出土した。1980年、佐賀県鳥栖市安永田遺跡で、九州で初めて銅鐸の鋳型が発見された。1998年(平成10年)には吉野ヶ里の北墳丘墓の北約500mから、銅鐸が発見された。大分県宇佐市別府遺跡では、朝鮮半島製の小銅鐸が出土している。近畿だけに銅鐸が出土するわけではない。しかも九州製の銅鐸を詳しく調べると、近畿の銅鐸と、九州の銅矛の両方に共通する製作技法が用いられていことが判明している。両分布圏を明瞭に区分することは今では不可能となっている。
文献の鐸
- 日本書紀 巻第十五 弘計天皇 顯宗天皇
- (大意) 繩の端に鐸(ぬりて)をつけて、取次のものに手間を取らせないようにせよ。参上したときは鐸を鳴らせば、汝がきたことを知るだろう。
- (原文) 繩端懸鐸、無勞謁者、入則鳴之、朕知汝到。於是、老嫗奉詔、嗚鐸而進、天皇遙聞鐸聲、歌曰、
- 『扶桑略記』天智天皇7年(668)条
- 滋賀県大津市に崇福寺を建立する際、宝鐸が発見されたと書かれる。
- 古事記 下巻 顯宗天皇
- (大意) 鐸(ぬりて)を大きな戸にかけて老婆を呼びたいときは鐸を鳴らした。
- (原文)故鐸懸大殿戸 欲召其老媼之時必引鳴其鐸
事例
- 銅鐸 - 林昌寺出土。大阪府泉南市
- 銅鐸 -高塚遺跡出土 岡山市高塚。岡山県古代吉備文化財センター
- 銅鐸 - 奈良市山町出土、弥生時代 2~3世紀。奈良国立博物館。
- 銅鐸 - 加茂岩倉遺跡出土。島根県雲南市加茂町岩倉
東京国立博物館 ― 2023年08月11日 23:08
東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん.)は、日本における人文系の総合的な博物館である。日本を中心として中国・朝鮮・ガンダーラを含むアジア諸地域にわたる文化財の収集、保存、管理、展示、調査研究、教育普及事業等を行う。独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。
歴史
1872年(明治5年)3月10日、文部省博物局により湯島聖堂大成殿を会場として日本で最初の博覧会が開かれた。会期は20日間で、午前9時から午後4時までの開館時間であった。この博覧会の陳列品は、広く全国に出品を呼びかけて収集した。博覧会に観覧者が多くかったため入場制限し、会期を4月末日まで延長した。博覧会の入場者総数は15万人、1日平均約3,000人の観覧者であった。当時の広告や入場券には「文部省博物館」と明記されていた。政府によるわが国最初の博覧会の開催であり、東京国立博物館はこの年を創立・開館の時としている。8月、湯島旧聖堂内の大講堂において現在の図書館にあたる書籍館が開館する。
1873年(明治6年)、オーストリア皇帝・フランツ・ヨーゼフ1世の冶世25周年を記念して、ウィーン万国博覧会が開催された。万国博覧会への公式参加要請を受けた日本政府は、博覧会事務局を設置し、大隈重信・佐野常民を中心に陳列品収集などの準備を明治4年から開始していた。
ウィーン万国博覧会は、5月1日から11月2日までの約半年間に渡り開催された。日本から官員・通訳41名、建築庭園関係者など25名、外国人6名、合計72名のほか、西洋の優れた機械技術伝習のため、24名の技術者がウィーンへ派遣された。1875年(明治8年)、佐野常民は16部96巻のウィーン万国博覧会報告書を政府に提出した。
1877年(明治10年)、上野の寛永寺本坊跡地で第1回内国勧業博覧会が開催された。
1873年(明治6年)3月、博物館と博覧会事務局・書籍館等とが合併して、内山下町に移転した。これ以後、上野公園に移転する1881年(明治14年)まで博物館はこの地にあった。古器物・動物・植物・鉱物・農業・舶来品など7棟で、ほかに動物飼養所・熊室・温室などが陳列された。
1877年(明治10年)、太政官より上野移転の裁可を得て、コンドル設計の本館は1881年(明治14年)1月に竣工した。現在の本館とほぼ同位置である。煉瓦造、2階建、正面左右に小ドームの屋根飾りをつけている。1882年(明治15年)、新館(旧本館)が開館した。法隆寺献納宝物を収蔵。旧十輪院宝蔵(校倉)を移築した。 付属館として第1回内国勧業博覧会の美術館がそのまま利用された。1886年(明治19年)に宮内省に移管され、明治21年(1898年)に宮内省図書寮の付属となり、1889年(明治22年)には帝国博物館となった。総長に九鬼隆一、美術部長に明治時代の美術界をリードした岡倉天心が就任した。アメリカ美術史家のアーネスト・フェノロサも美術部理事となっていた。帝国博物館は1900年(明治33年)、東京帝室博物館と改称した。大正14年(1925年)には長年の懸案であった動・植・鉱物標本を主とする天産部関係資料の東京博物館(現国立科学博物館)等へ譲渡し、東京帝室博物館は美術博物館としての性格を鮮明にした。 1917年(大正6年)森鴎外が総長に就任する。1938年、帝室博物館復興翼賛会より献上された現在の本館が開館する。1941年、戦争被害を避けるため美術品を疎開させる。 新憲法である日本国憲法が公布された1947年(昭和22年)5月3日に帝室博物館は皇室から国に移管され、再び文部省所管の博物館となり、名称は「国立博物館」と改められた。1952年(昭和27年)3月には「東京国立博物館」と改称された。1954年、因州池田屋敷表門(黒門)を移築する。1964年、法隆寺宝物館(旧館)収蔵庫兼展示施設として開館する。
1968年(昭和43年)には東洋館が開館し、日本以外のアジアの美術品が集められた。平成11年(1999年)7月、法隆寺宝物館(新館)開館。同年10月皇太子殿下御成婚を記念して平成館が開館した。2015年(平成27)年、黒田記念館オープンする。 現在、展示館は計6館である。本館は日本美術、平成館は日本の考古と特別展、東洋館では東洋美術、法隆寺宝物館では法隆寺献納宝物を展示するほか、表慶館は特別展や催し物会場として利用され、黒田記念館では洋画家・黒田清輝の作品を展示する。
国立文化財機構
平成13年(2001年)、東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館の3館を統合した独立行政法人国立博物館を設立した。平成19年(2007年)、独立行政法人国立博物館と独立行政法人文化財研究所が統合され「独立行政法人国立文化財機構」が発足した。
建築
- 本館(重要文化財) - 昭和13年(1938) 開館
- 東洋館 - 2013年1月リニューアルオープン。
- 表慶館(重要文化財) - 1909年(明治42年) 開館
- 黒門(重要文化財) - 江戸末期 建築 旧因州池田屋敷表門。
- 法隆寺宝物館 - 平成11年(1999) 開館
- 旧十輪院宝蔵(校倉)(重要文化財) - 明治15年(1882) 移築
- 応挙館 - 尾張国(現の愛知県大治町)の天台宗寺院、明眼院の書院として1742年(寛保2年)に建てられ、後に東京品川の益田孝(鈍翁)邸内に移築、昭和8年(1933)に寄贈
- 転合庵 - 小堀遠州が八条宮から茶入「於大名」を賜った際に、その披露のために京都伏見の六地蔵に建てた
- 九条館 - 都御所内の九条邸にあったものを東京赤坂の九条邸に移した建築
- 六窓庵 - 慶安年間(17世紀中頃)に奈良の興福寺慈眼院に建てられた金森宗和好みの茶室。大和の三茶室。
参考文献
東京国立博物館編(2005)『とんぼの本 こんなに面白い東京国立博物館』新潮社
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