段築成 ― 2023年09月14日 00:02
段築成(だんちくせい)は古墳の墳丘の段、あるいはその数をいう。 略して「段築」ともいう。
概要
古墳をつくる方法で、墳丘の大きさを階段状に小さくしながら積み重ねていく方法であ る。古墳の墳丘斜面は、25度前後の勾配の斜面と水平面を組み合わせ、2段ないし3段に築かれる。2段の古墳の場合は2段築成、3段の古墳を3段築成という。
参考文献
奴国 ― 2023年09月14日 16:19
奴国(なこく、ぬこく)は、『魏志倭人伝』に記載された倭国の国のひとつである。
概要
『魏志倭人伝』によれば伊都国から東南に奴国があり、距離は100里である。 長官は兕馬觚(シバコ)といい、副官は卑奴母離(ヒナモリ)という。戸数は2万戸である。 魏志倭人伝』だけでなく、1世紀から3世紀前半にかけて、『後漢書東夷伝』『梁書倭伝』『北史倭国伝』にも登場する。
後漢への遣使
57年(建武中元二年)、倭の奴国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。奴国は倭国の最南端にある。光武帝は印綬を賜った。107年(安帝永初元年、倭国王の帥升等が百六十人の生口(奴隷)を献じ、参内して天子に謁見できるよう願い出た。この遣使は光武帝崩御の約1ヵ月前であった(後漢書)。
比定場所
奴国 ⇒ 儺県(なのあがた) → 那珂郡(律令時代) と変遷したと考えられている。 とすれば現代の福岡平野一帯が奴国である。 西谷正は奴国は弥生時代中期後半に形成されたとする。 奴国の中で須玖岡本遺跡群は、王墓や王族墓があることや、青銅器工房が密集していることなどから、奴国の中枢部であったと考えられている。 また安徳台遺跡には奴国王の住居があったと考えられている。 国邑は奴国の首都とも言うべき場所で、比恵・那珂遺跡が相当する。ここでは人工的な運河が作られていた。
日本書紀
『日本書紀』仲哀天皇8年の条に「儺県 (なのあがた) 」、宣化天皇1年の条には「那津 (なのつ) 」が登場する。いずれも奴国の領域と考えられている。
金印
江戸時代に筑前国那珂郡志賀島村叶崎で出土した金印には印文「漢委奴國王」と刻印されており、『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「倭奴國」と考えられている。
- 『後漢書』
- 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
原文
- 魏志倭人伝
- (原文)東南至奴國 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
- 後漢書東夷伝
- (原文) 建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也
- 光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
関連遺跡
- 須玖岡本遺跡
- 安徳台遺跡
- 那珂遺跡
- 比恵遺跡
参考文献
- 鳥越慶三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA
- 石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
- 西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社
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