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伊都国2023年08月29日 22:23

伊都国(いとこく)は、『魏志倭人伝』に記載された弥生時代の倭国の国のひとつである。

概要

『魏志倭人伝』に「東南に陸行すること五百里にして伊都国に到る。官を爾支(ニキ)といい、副は泄謨觚(シマコ、セボコ)、柄渠觚(ヘキコ)という。千余戸有り。世、王有りて、皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所なり。」と書かれる。すなわち『魏志倭人伝』によると伊都国は末盧国から陸を東南に500里進んだ場所にあるとされる。

末廬国と伊都国の距離

末廬国から伊都国に至る経路は、海岸沿いは岬の断崖があり荒波のため当時は通行できなかったとみられている。そこで陸路なら山道を通ることになる。経路には鏡山(かがみやま,284n)、夕日山(ゆうひやま、272m)がある。山道を歩く場合は高低差があるため、平地より通行距離は伸びる。末廬国から伊都国まで漢代の1里を400 mとすると、500里は200kmである。実際と合わないことは歴然である。末廬国から伊都国まで平地の経路距離なら、測定すると30.6kmである。山道を考慮しても45km程度であるから、距離は1桁異なる。魏志倭人伝に記載された距離はあまり信用できないことになる。

伊都国の位置づけ

伊都国については『魏志倭人伝』において、111文字を割いており、その重要性が指摘されている。伊都国には一大率があり、諸国を監督する役割をもっている。戸数は千余戸と記されるが、『魏略』には万余戸とあるので、これが正しいとみられる。万余戸に比較して戸数が少なすぎるからである。なお一大率の発掘は今後の課題である。

比定場所と方位

糸島平野に伊都国があったとされるのが通説とされる。伊都国は福岡県糸島市の三雲・井原遺跡に弥生時代の拠点集落があったとみられる。前漢の鏡を52枚と多量に出土しているからである。さらに弥生時代後半に平原遺跡には王墓があったと見られている。長い時間の間に三雲・井原遺跡から平原遺跡に王の所在地が移動したと考えられる。 、三雲・井原遺跡は伊都国の王墓であったとされる。弥生時代の拠点集落である。なお平原遺跡も王墓とされる。 これらの比定が正しければ、末盧國から伊都国には現在の地理で東または東北方向に向かうことになる。つまり魏志倭人伝は方角を間違えていることになる。鳥越氏は「当時の漢族は地理感を間違えていた。つまり日本列島が中国大陸の東方海上で南北に連なってみていたことになる」(鳥越憲三郎(2020))と書かれる。

  • (原文1)東南陸行五百里到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐
  • (原文2)自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史  王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯   下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭說事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾 

参考文献

  1. 鳥越憲三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA
  2. 石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
  3. 西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社

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