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斯馬国2023年09月17日 09:52

斯馬国(しまこく)は、魏志倭人伝に記された倭国のひとつである。

概要

日本交通史研究の内藤湖南は斯馬国を志摩国(三重県)に比定したが、丸山雍成は「翰苑」中の「邪届伊都傍連斯馬」という一文があることから、斯馬国は伊都国のそばにあると解釈した。伊都国は、現在の糸島市怡土(いと)付近とされている。斯馬国は、伊都国(怡土郡)に連なっているところであるなら、その近くの「シマ」という音に近い地名の場所として、現在の糸島半島の糸島市志摩町を含む一帯が挙げられる。糸島半島は、糸島市志摩町と福岡市西区の一部からなり、律令時代以来筑前国志摩郡と呼ばれ、「志麻」、「嶋」とも記される。正倉院の日本最古の戸籍とされ、国の重要文化財に指定されている「筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡」(大宝2 年 702 年)に「嶋郡」と書かれる。従って、志摩町付近は斯馬国の有力候補となる。

疑問点

伊都国まで来ているのに、その近くの斯馬国は遠くてわからないと書かれるのは矛盾しているように思われる。音が似ているだけで比定するのはいささか安易に見える。

一の町遺跡

2003年に福岡県志摩町の「一の町遺跡」で、弥生中期後半(1世紀)としては国内最大級の建物を含む大型建物群跡が見つかっている。福岡大学の武末純一教授(考古学)は「中国の史書『魏志倭人伝』などにある『斯馬国』の拠点集落だった可能性が極めて高い。大型の2棟は祭殿か貯蔵関係の管理棟と考えられ、貴重な発見だ」と語る。

内藤説

内藤湖南(1929)は「本居氏は筑前國志摩郡か或は大隅國噌唹郡志摩郷かなるべしといひ、吉田氏も亦以て櫻島とす。余は之を志摩國とす。附て云く、余が地名を考定する方針は和名鈔の郡郷等につきて聲音の類せる者を彙集し、其中に就きて地望に準じて然るべき者を擇び取るに在れど、こゝには唯だ其の擇び取れる結果を示すのみ。以下皆此に倣ふ。」とする。すなわち内藤説では斯馬国を志摩國に比定する。女王国=邪馬台国として、それより東にあると地点と考えれば妥当にみえる。とすると内藤(1929)説では志摩國は現在の三重県現在の三重県鳥羽市の全域と志摩市の大部分となる。ただ鳥羽市や志摩市に3世紀の遺跡がないと比定の根拠がなくなる。鳥羽市には贄遺跡がある。志摩市の付近に奥ノ田頭遺跡があり、津市には納所遺跡がある。時期と規模では納所遺跡が適合する。これらのいずれかは候補地になるだろう。

西谷説

『翰苑』中に「伊都国に届(いた)り、傍(かたわら)、斯馬に連なる」と書かれることから、西谷正(2009)は伊都国と斯馬国は近接していると述べる。樋渡遺跡は三雲南小路遺跡と同時代であり、前漢鏡が出土している。、そこから樋渡遺跡は斯馬国の王墓であるとする。また一の町遺跡は斯馬国の国邑であるとする。一の町遺跡から掘立柱の大型建物が出土しており、竪穴住居跡がみつかっている。

原文(魏志倭人伝)

  • 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳  次有斯馬國

大意

女王国より北は、その戸数、道里の略載を得られるが、その余の旁国は遠いため、詳しく述べることができない。次に斯馬国有り。

参考文献

  1. 丸山雍成(2002)「邪馬台国への道:『翰苑』 所載の斯馬国推定地の発掘資料との関係について」交通史研究/51 巻(大会発表要旨, 第28回大会・2002年度総会報告)」
  2. 塩田泰弘(2016)「魏志倭人伝を考えるー斯馬国について」季刊古代史ネット7号
  3. 最大級の建物遺構発見,四国新聞,2003年2月26日
  4. 内藤湖南(1929)「卑彌呼考」『読史叢録』弘文堂
  5. 西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社

末盧国2023年09月17日 11:24

末盧国(まつろこく/まつらこく)は、『魏志倭人伝』に記載された3世紀中頃の国のひとつである。佐賀県唐津地域にあったとみられる弥生時代の国である。

概要

西谷正(2009)は末盧国は現在の旧唐津市から東松浦郡の範囲(現在の唐津市)であるとする。倭人伝に「濱山海居」と書かれるので海沿いの立地で、山が近くにある。古代の地形を復元すると、現在より海が入り込み、周辺に沼地があり、葦が茂っていた。集落は南にも広がる。最も古い遺跡は菜畑遺跡である。 末盧国は律令制の時代の肥前国松浦郡である。「松浦半島」「松浦郡」などの地名が残る。奴国に比べると戸数は少ない。古代には海が平地に入り込み、沼地が広がり、葦が茂っていた。最古の稲作遺跡の菜畑遺跡がある。 中原遺跡からは3世紀の方形周溝墓群から後漢鏡や素環頭太刀など漢式遺物が発見されているため、末盧国の王墓と考えられている。現在は広い水田が見られるが、古代は海と山に挟まれた狭隘な土地が生活圏であったと判明している。古代の金海と同様である。

比定場所

現在の佐賀県の唐津平野(唐津市周辺)である。末盧国は現在の佐賀県唐津市の菜畑遺跡あたりとみてよいであろう。

王墓と国邑

西谷正(2009)は末盧国の王墓は桜馬場遺跡であるとする。大型の方格規矩四神鏡や巴形銅器、ガラス小玉が出土している。また中原遺跡も別の時代の王墓であったとする。

魏使は上陸したか

鳥越氏は「朝鮮半島から最初に上陸するところは末盧国」とする(鳥越憲三郎(2020),p.85)。 しかし奥野氏は郡使は一度も上陸せず郡の大船で伊都国まで来たと主張する(奥野(1989))。 理由を陸行500里は単に経路を記しただけで、実際に郡使がそこを歩いたとは限らないと指摘する。 しかし、伊都国まで東南に陸行したと読めること、末盧国の狭隘な土地を見事に表現していることから、上陸した可能性はあるのではなかろうか。

魏志倭人伝原文

  • (原文)又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之
  • 大意
    • (壱岐国から)海を千余里渡ると 末盧国につく。戸数は4000戸あまりである。山と海岸の間に住む。草木が茂り、歩くと前が見えない、水深が浅い深いに関わらず、みな潜って魚を獲る。

遺跡

  • 桜馬場遺跡
  • 菜畑遺跡
  • 梅白遺跡
  • 宇木汲田遺跡
  • 柏崎遺跡
  • 千々賀遺跡
  • 中原遺跡
  • 田島遺跡

展示施設

  • 唐津市末盧館

参考文献

  1. 鳥越憲三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA
  2. 奥野正男(1989)『邪馬台国発掘』PHP研究所
  3. 石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
  4. 西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社

弥奴国2023年09月17日 20:02

弥奴国(みぬこく、みなこく)は古代において魏志倭人伝に書かれる国の一つである。

概要

女王国より以北は遠すぎて詳細が分からないとしているが、その中のひとつに弥奴国がある。ただ女王国が邪馬台国だとすると、それより北は分からないという説明は近畿説に有利であり、九州説には不利にみえる。近畿説なら近畿の北は敦賀や京都になるし、九州説では奴国や伊都国になるので、遠すぎてわからないとは言えないからである。

西谷説

西谷正吉野ヶ里遺跡を弥奴国の王都に位置づけている(西谷(2009))。 神崎郡に三根郷があったが、奈良時代に神崎郡一部が分離して三根郡ができた。三根郡は明治9年に養父郡と基肄郡が合併して三養基郡(みやきぐん)が発足する。古墳時代の嶺縣は現在の神崎郡であり、これが弥奴国であった。新井白石が最初に唱えたとされる。

日本書紀

『日本書紀』雄略10年の記事に筑紫嶺縣主が登場する。呉から到来した鵞鳥は、九州についた時に別本に筑紫嶺県主泥麻呂の犬にかまれて死んだという記事がある。和名抄の肥前国には神崎郡と三根郡の2つがある。、三根は古墳時代には嶺だったとの主張である。 ほかに反論もないので、可能性ありということである。

魏志倭人伝

  • (原文) 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
  • (原文) 次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  • (大意)女王国より北は戸数や距離を書くことはできるが、その他の国々は遠すぎて詳しくわからない。次に斯馬國あり、次の百支國あり、次に都支國あり、次に彌奴國あり。

日本書紀 雄略10年

  • (原文)十年秋九月乙酉朔戊子。身狹村主青等將呉所獻二鵝到於筑紫。是鵝爲水間君犬所囓死。〈別本云。是鵝爲筑紫嶺縣主泥麻呂犬所囓死。〉
  • (大意)十年秋九月乙酉を朔として戊子〔四日〕。身狭村主(むさのすぐり)青等、呉(の所献二鵝を将へて、筑紫に到る。是の鵝は、水間君の犬の為に噛み殺したものである。 別本にいう。是の鵝は、筑紫の嶺の県主泥麻呂の犬の為に噛み殺されたものである。

参考文献

  1. 西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社

不弥国2023年09月17日 22:14

不弥国

不弥国 (ふみこく)は、『魏志倭人伝』に記載された倭国の国のひとつである。

概要
魏志倭人伝では奴國から不弥国まで「東行100里」を要すると書かれている。距離や方角は正しいとは限らないが、奴國から近い場所にあったと考えられる。
不弥国の位置には九州説でも近畿説でも諸説があり、定説はない。

不弥国比定の各説

No 比定地 提唱者 文献
1 宇美町 新井白石 古史通或問
2 宇美町 内藤湖南 卑彌呼考
3 宇美町 三宅米吉土
4 宇美町 和歌森太郎
5 太宰府 榎一雄
6 太宰府 白鳥庫吉
7 穂波 菅政友 漢籍倭人考
8 穂波 久米邦武
9 穂波 山尾幸久
10 穂波 鳥越憲三郎 倭人・倭国伝全釈
11 志賀島 田中卓 邪馬台国と稲荷山刀銘
12 宗像郡津屋崎 笠井新也

宇美説
宇美説は「フミ」と「ウミ」の呼称が類似していることが理由であるが、有力な集落遺跡や王墓は少ないが、宇美町の光正寺古墳は王墓の可能性があるが、盗掘が激しいため、位置づけが難しい。しかし高坏、管玉、内光花文鏡、土師器、鉄器、壺が出土している。 西谷正(2009)によれば宇美地方説では律令時代の粕屋郡が該当するが、国邑に比定できる大規模な拠点集落の遺跡は未発見とされる。

嘉穂説
穂波説は遠賀川中流域の穂波郡穂波郷(現飯塚市)である。江辻遺跡は福岡県糟屋郡粕屋町にある縄文時代から平安時代までの複合遺跡である。大型掘立柱建物が見つかっており、さらに銅剣、銅矛、鉄剣、銅弋が出土している。 古賀市の馬渡・束ヶ浦遺跡からは初期の青銅製武器の3点セットとして銅剣、銅矛、銅弋が出土している。旧粕屋郡全体の地域リーダーとの説がある(西谷正(2009))。また香住ヶ古墳からは三角縁神獣鏡が出s土している。二神二獣鏡の優れた作品とされる。本作と同伴の鏡は奈県桜井市からも出ている。王塚古墳は戸塚王塚古墳とも言われるが、粕谷地域にある前方後円墳である。 西谷正(2014)によれば比較的有力な比定地は立岩遺跡のある嘉穂地方説とされる。立岩遺跡では甕棺墓から前漢鏡6面、銅矛1本、鉄鉾を副葬しており、王墓にふさわしい。 糟屋地域では香住ヶ丘古墳をはじめ、3か所の古墳で三角縁神獣鏡を出土しているなど重要な位置にあった。

参考文献
+西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社
+西谷正(2014)『卑弥呼の正体』小学館 +鳥越慶三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA +石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店 +新井白石(1906)「古史通或問」『新井白石全集 第三巻』国書刊行会 +菅政友(1907)「漢籍倭人考」『菅政友全集』国書刊行会