独鈷石 ― 2023年12月27日 08:08
独鈷石(どっこいし)は両端が刃または刃に近い形状の磨製石器である。
概要
縄文時代の後期・晩期および弥生時代前半期の東日本で発達する鶴嘴の頭部状の祭祀具である。断面楕円形に近い真っ直ぐまたは弓なりの棒状で、身の両端を刃状、あるいは鈍端、尖端に成形する。中央に間隔を空け、身に直行して隆起する二つの帯を巡らせたものが多い。隆起帯が無く、中央が細くなるものがある。中央部に身に直交する柄を付けたものと推定されている。中央に穴を空けたものもある。 仏具の独鈷を連想させるもので、石鈷の名前もあった。初期の頃のものは刃がついた実用的な斧であったと考えられる実用具であったが、やがて呪術や祭司に用いたと見られる。使用方法には諸説がある。
分布
東日本に多いが西日本にはまれである。独鈷石は東日本各地で1,000点ほど出土している。 九州には細身で刃部が尖るものがある。実用的な斧の名残を残している。弥生時代になっても、縄文時代以来の祭祀は各地で続けられてており、その代表例が東日本の独鈷石、近畿・四国の石棒、北部九州の刻みや長軸方向の穿孔を有する翡翠製玉類である。
出土例
- 独鈷石 - 秋田県羽後町西馬音内出土、縄文時代晩期(前1000~前400年)
- 独鈷石 - 地入道遺跡、広島県世羅町川尻、縄文時代後期から弥生時代中期
- 独鈷石 - 祖師谷大道北遺跡、東京都世田谷区上祖師谷、縄文時代
参考文献
飛鳥皇女 ― 2023年12月27日 13:44
飛鳥皇女(あすかのひめみこ、?-700年)は天智天皇の皇女である。万葉集では明日香皇女とかく。日本書記の表記は「飛鳥皇女」である。
概要
生年は不詳。父は天智天皇、母は阿倍倉梯麻呂の娘の橘娘(たちばなのいらつめ)である。 『紹運録』に忍壁皇子の妃とあるが確証はないものの、その可能性は高い。理由は柿本人麻呂の詠んだ歌に夫を「君」と呼んでいること、持統天皇が飛鳥皇女の別荘に行幸していることは、親密な関係が推察される。ともに天智天皇の娘であるが、生母は異なる。持統は吉野にたびたび行幸しているが、個人の家を訪問したのは飛鳥皇女だけである。御名部皇女など他の天智天皇皇女に比べると異例の扱いである。忍壁皇子の妃であったとすれば、持統天皇の息子である忍壁皇子の嫁の別荘を訪問することは不思議ではないと考えられる。持統6年8月17日に持統天皇が飛鳥皇女の別荘に行幸した記事があり、持統8年(694年)8月17日、飛鳥皇女のために沙門104口を得度させた。異例の数となる。このとき飛鳥皇女は長らく病床に臥していたと思われる。 『続日本紀』文武4年(700年)4月4日の死亡記事がある。新田部皇女の同母姉である。 浄広肆(諸王十二階の12番目)であった。
宮
柿本人麻呂が詠んだ歌にも木缻(城上)の殯宮と書かれるが、殯宮は宮と近い場所に設定されるので、おそらく近い場所であったであろう。城上(きのへ)は奈良県北葛城郡広陵町あたりとされる。 柿本人麻呂は「朝鳥のようにいつも通っていらした君(忍壁皇子)」と書かれるので、忍壁皇子は飛鳥皇女と「通婚」であったと解釈される。
挽歌
万葉集第二巻0196番(挽歌)として逝去時に、柿本人麻呂が詠んだ歌が収録されている。
原文
- 『日本書紀』天智七年、二月丙辰朔戊寅記事「次有阿倍倉梯麻呂大臣女曰橘娘、生飛鳥皇女與新田部皇女。」
- 『日本書紀』持統六年、「八月癸亥朔乙丑、赦罪。己卯、幸飛鳥皇女田莊、卽日還宮。」
- 『日本書紀』持統八年、「八月壬子朔戊辰、爲皇女飛鳥、度沙門一百四口。」
- 『万葉集』第二巻、196「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひなびける玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひをゐれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる なにしかも 我が大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥やせば 川藻のごとく 靡かひの 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へには 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし しきたへの 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いや愛づらしみ 思ほしし 君と時どき出でまして 遊びたまひし 御食向かふ 城上の宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ しかれかも あやに哀しみ ぬえ鳥の 片恋づま 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰もる 心もあらず そこ故に せむすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ 御名にかかせる 明日香川 万代までに はしきやし 我が大君の 形見にここを」
- 『万葉集』第二巻、197「明日香川しがらみ渡し塞かませば 流るる水ものどかにあらまし」柿本人麻呂
- 『万葉集』第二巻、198「明日香川明日だに見むと思へやも わが大君のみ名忘れせぬ」柿本人麻呂
参考文献
- 佐竹昭広、山田英雄他(2013)『万葉集 第2巻』岩波書店
- 坂本太郎、井上光貞他(1995)『日本書紀』岩波書店
- 洞院満季編(不明)『本朝皇胤紹運録』
千葉市立加曽利貝塚博物館 ― 2023年12月27日 21:25
千葉市立加曽利貝塚博物館(ちばしりつかそりかいづかはくぶつかん)は千葉県千葉市に所在する環状の北貝塚と馬蹄形の南貝塚が連結し、めずらしい8字形をした日本最大級の貝塚の出土等を展示する博物館である
概要
1966年(昭和41年)に加曽利貝塚の遺跡の中に開館した。曽利貝塚からみつかった縄文土器、石器、動物・魚・人の骨等を中心に展示し、東京湾周辺に住んでいた縄文時代の人々の生活の様子を解説する。「加曽利E式土器」「加曽利B式土器」も展示する。
千葉の貝塚
全国に約2400カ所の貝塚が確認されているが、その約6割は千葉県で発見されており、千葉市には約120カ所の貝塚がある。東京湾は遠浅の海岸ができやすい地形である。縄文時代の人々は丸木舟で川を下って海岸で貝を採取したので、海岸線の近く住んでいたとは限らない。当時の人々は主にイボカサゴという、大きくても2cm程の巻き貝を採取していた。
展示
縄文土器、石器、動物・魚・人の骨等を中心に展示し、東京湾周辺に住んでいた縄文時代の人々の生活の様子を解説する。貝塚が発掘した当時のままに保存する。
- 常設展示1 「貝塚を知る」
- 常設展示2 「発掘された加曽利貝塚」
- 常設展示3 「加曽利貝塚の歴史」
- 貝塚断面観察施設
- 2個所あり、北貝塚では発掘されたそのままの断面、南貝塚では剥ぎ取った断面を観察できる
- 復元集落 竪穴住居跡、木の実を貯蔵した穴を展示する
アクセス等
- 名称:千葉市立加曽利貝塚博物館
- 開館時間:9時00分から17時00分(入館は16時30分まで)
- 休館日:月曜日(月曜日が国民の祝日にあたる場合は開館し、翌日以降の国民の祝日でない日は休館)、年末・年始(12月29日から1月3日)
- 所在地:〒264-0028 千葉県千葉市若葉区桜木8-33-
- 観覧料:無料
- 交通: 千葉モノレールで桜木駅下車、徒歩15分
- 開館時間:開館:9:00~17:00
- 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)・祝日・年末年始(12月28日~1月4日)
参考文献
- 加曽利貝塚博物館、新築移転へ。東京新聞, 2022年2月4日
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