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金印紫綬2023年12月12日 00:32

金印紫綬(きんいんしじゅ)は、紫色の紐(綬)付きの金製の印鑑である。

概要

志賀の島で発見された国宝の「漢委奴国王印」には紐を通す孔が開けられている。 中国の印の材料は官職の序列順に①玉、②金、③銀、④銅であった。 後漢の制度では、諸侯王が金爾、緑綟綬、侯・公は金印紫綬、九卿や郡太守が銀印・青綬であった。皇帝印を璽、官印や私印は印、将軍印は章と呼んだ。魏でも制度を概ね踏襲している。 239年の倭の献使に対して魏帝は卑弥呼を「親魏倭王」に封じ、「金印紫綬」を授けた。国外の王は「金印紫綬」がきまりであった。皇帝は難升米を率善中郎将とし、都市牛利を率善校尉とし、銀印靑綬を授けた。西域の烏孫に列侯として金印紫綬を与え、その臣下にも内臣に準じた銀印・銅印が下賜されているので、同等の扱いである。 243年の献使では大夫の掖邪拘らに「率善中郎将」の印綬を授けたが、これは「銀印青綬」と想定される。この「銀印青綬」の文字は、「親魏率善中郎将」と書かれていたことは、内蒙古自治区凉城県から出土した「晋鮮卑率善中郎将」駱駝紐銀印から類推できる。 なお動物の形状は漢から見て北方は羊・馬鈕、西域は駱駝鈕、南方は蛇・蟠蛇鈕・虺(キ)・螭(チ)、東方は亀鈕となる。倭国は漢から見て南方の国と認識されていたことになる。

漢委奴國王印

1784年(天明4年)の春、志賀島から「漢委奴國王」の金印が見つかったが、『後漢書東夷伝』に「倭奴国奉朝貢賀・・・光武賜以印綬」と記されている金印と考えられている。倭の奴国王が後漢の光武帝から授けられた金印である。蛇鈕の金印はその時点で他に出土例がないため、真贋論争が長く続いた。1956年に中国雲南省の漢墓から前漢の武帝が紀元前109年にテン族の王に与えた蛇鈕の金印「テン王之印」が発見されたため真物説が最有力となった。

出土例

参考文献

森将軍塚古墳2023年12月12日 12:35

森将軍塚古墳

森将軍塚古墳(もりしょうぐんつかこふん)は長野県千曲市にある前方後円墳である。

概要

善光寺平の南域を流れる千曲川の右岸にあり、長野県善光寺平の盟主的古墳である。丘陵の頂部に造営された前方後円墳で、墳丘は丘尾を切断し、自然の尾根に若干の盛土を行う。 有明山(標高490m)の平地から比高差130mの尾根上に築かれる。最も古い記録は1883年(明治16年)に「屋代村の将軍塚」として報告されている。 後円部は円より楕円形もしくは隅丸長方形となり、むしろ前方後方墳に近い形である。 平面形は地位の制約を受けてくの字形に曲がっており、後円部の中心線と前方部の中心線とは12度ずれている。葺石は有明山から集めた石英班岩を用いて積み上げる。竪穴式石室の石英閃緑岩は3km離れている倉科地区から運ばれている。石室や古墳に敷かれた玉砂利は約3km離れた千曲川の河川敷から運ばれた。

森将軍とは

森将軍という人物ではなく、森地区にいた有力者という意味である。善光寺平には「将軍塚」と呼ばれる古墳が11基ある。科野の国で最初の王と考えられる。

調査

昭和41、42年の発掘調査では、墓壙の構造、墳丘の築成法などで特異な事実が判明している。後円部のほぼ中央にある割石小口積の竪穴式石室は、二重に築かれた石垣状の墓壙の中に設けられている。石室は全長7.7メートル、幅平均2メートル、深さ2.1メートルを数え、その四隅が丸く作られている。盗掘の残存品として三角縁神獣鏡片、硬玉製勾玉等が出ており、副葬品や石室の構造等からみて古墳時代前期の築造であり、典型的な畿内型古墳の一つである。昭和41年から東京教育大学が発掘調査を行い、盗掘を受けた竪穴式石室と多量の埴輪を検出した。この調査を受け、昭和46年、東日本での古墳時代前期の前方後円墳の様相を知る上で重要であるとして史跡指定された。 更埴市教育委員会は、昭和56年から整備を目的として、古墳の内容を確認するための発掘調査を実施した。また昭和59年から平成2年にかけて復元工事に合わせて古墳の解体調査や13基の小古墳の発掘調査を行った。

最大の竪穴式石室

森将軍塚古墳の石室は床の幅が広く、床面が平坦である。一般的な古墳では、床幅は棺の幅に合わせた1mぜんごであり、床面は棺の形に合わせたU字形に窪んでいる。森将軍塚古墳の棺は幅が広く、そこは平らであったと考えられる。しかし多数回の盗掘により、木棺の痕跡は残っていない。赤い顔料の「ベンガラ」を壁面に塗り、棺の周りには高価な「朱」が まかれていた。

塚堀り六兵衛

通称「塚堀り六兵衛」は北村六左衛門のことで、江戸時代の終わりに生まれ、明治41年(1908年)に72歳で亡くなった人物である。現在の長野県千曲市土口に住んでいた。古墳を盗掘しては掘り出した副葬品を売り、酒を買って飲んでいた。明治38年ごろに森将軍塚を掘りに行ったが「俺より偉い奴がいて先を越された、何も持ち出せなかった」と語ったという。石室の短辺側の壁に穴を開け内部に侵入したという。「米一升10銭の時代に、(盗掘した副葬品の)勾玉一個が15銭」というのでかなりの稼ぎ口であった。六左衛門は近所の子供に飴をやり、穴掘りを手伝わせていたといわれる。

規模

墳丘

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 後円部:2段
  • 墳長99m
  • 後円部 径最小43m 高11m
  • 前方部 幅30m 長41m 高4m

外表施設

  • 円筒埴輪 円筒・朝顔形Ⅰ式
  • 形象埴輪 家、壺形・方形のもの
  • 葺石 あり

主体部

  • 室・槨 ①竪穴式石槨②竪穴式石槨③竪穴式石槨
  • 棺 ①割竹形木棺?③割竹形木棺?

遺物

  • 【鏡】中国:④三角縁神獣鏡(破片)1。
  • 【玉類】硬玉:④勾玉1、碧玉:③管玉12④管玉5、ガラス:③小玉24。
  • 【武器・刀剣類】鉄剣:④3(破片)、鉄刀:④2(破片)、鉄槍:④2(破片)。
  • 【武器・鏃】類銅鏃:④柳葉3。
  • 【その他の武器】④刀子2(破片)。【武器・その他】④刀子2(破片)。
  • 【農工具】農具:④鎌1(破片)。【土師器】④小形坩・壺(破片)。

指定

  • 1971年3月16日(昭和46年3月16日)  史跡名勝天然記念物「埴科古墳群」

展示

アクセス等

  • 名称:森将軍塚古墳
  • 所在地:〒387-0007  長野県千曲市屋代29-1 (科野の里歴史公園内)
  • 交通:しなの鉄道「屋代高校駅」から「森将軍塚古墳」まで 徒歩48分(2.9km)
    • 「屋代高校駅」から森将軍塚古墳館まで徒歩25分(1.8km)
    • 森将軍塚古墳館からはマイクロバスあり。

参考文献

  1. 千曲市教育委員会(2005)『千曲市森将軍塚古墳館ガイドブック』森将軍塚古墳館
  2. 更埴市教育委員会(1981)『森将軍塚古墳_第一次発掘調査概報』
  3. 更埴市教育委員会(1983)『森将軍塚古墳_第二次発掘調査概報』