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阿倍仲麻呂2023年12月25日 00:08

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ,701年 - 770年)は奈良時代に遣唐留学生として唐に渡り中国の皇帝に仕え、帰国を果たせず唐で没した人物である。百人一首では「阿倍仲麿」と表記する。唐名を「朝衡」(ちょうこう、晁衡)と名乗った。中国では有名な日本人である。 弟に阿倍帯麻呂がいる。

概要

阿倍仲麻呂は父の中務大輔正五位上・安倍舩守の子として生まれた。母の名は不詳である。 阿倍氏は宣下朝期に阿倍大麻呂が大夫に登用された頃からが確実な記録とされている。

生年の2説

生年に699年(文武3年)説と701年(大宝元年)説の2説がある。『古今和歌集目録』は716年(靈龜2年)8月20日に16歳(数え年齢)で、吉備真備・玄昉、井真成らとともに遣唐留学生として唐に渡った。靈龜2年から逆算すると701年(大宝元年)生まれとなる(年齢は満年齢ではなく、数え年齢であることに留意する)。 略伝によれば、770年(大暦五年)正月に73歳で亡くなったとされるので、ここから逆算すると699年(文武3年)生まれとなる。近年は701年(大宝元年)生まれ説が有力とされる。唐の太学への入学には年齢制限があり十四歳以上、十九歳以下である。(遣唐使選定時16歳、渡海時17歳、入学時18歳とすると整合性がある(参考文献1)。

古今和歌集目録

古今和歌集目録に阿倍仲麻呂の略歴が載る。阿倍仲麻呂を知るための基本資料である。聡明にして読書を好むと書かれる。

  • 中務大輔正五位上船守男。靈龜二年八月廿日乙丑。
  • 爲遣唐學生留學生。従四位上安倍朝臣仲麿。
  • 大唐光祿大夫散騎常侍。兼御史中丞。
  • 北海郡開國公。贈?州大都督朝衡。國史云。
  • 本名仲麿。唐朝賜姓朝氏名衡字仲満。性聴敏。
  • 好讀書。靈龜二年以選爲入唐留學問生。時年十有六。
  • 十九年京兆尹崔日知薦之。不詔褒賞。超拜左補闕。
  • 廿一年以親老上請歸。不許。賦詞曰。慕義名空在。
  • 愉中高不全。報恩無有日。
  • 皈國定何年。至于天寶十二載。與我朝使参議
  • 藤原清河同船溥歸。任風掣曳。漂泊安南。屬祿山構逆羣盗蜂起。
  • 而夷撩放横。刧殺衆類。
  • 同舟遇害者。一百七十餘人。僅遣十餘人。
  • 以大暦五年正月薨。時年七十三。贈?州大都督。
  • 明達律師傳云。有夢松尾明神。
  • 天王寺借住僧等之靈驗也。各委不記可見本傳也。
  • 追至公卿。

安倍家

阿部氏は大和盆地東南部を本拠とする中央氏族である。孝元天皇の皇子大彦命を祖とする。 阿部仲麻呂の父安倍舩守は中務大輔正五位上である。和銅四年(711年)四月の従五位上から正五位下、養老七年正月に正五位上に昇叙された(;続日本紀)。中務大輔は中務省の次官である。

遣唐留学生

阿部仲麻呂は716年(靈龜二年)8月、16歳で遣唐留学生に選ばれた。そのときの遣唐使は総勢557人。主要メンバーは押使(長官)に従四位下・多治比真人県守、大使に従五位下・大伴宿禰山守、副使に正六位下・藤原朝臣馬養(;宇合)である。留学僧に玄昉、留学生に阿部朝臣仲麻呂(16歳)、下道朝臣真備(22歳)、井真成(18歳)。養老元年(717年)10月、入唐し、長安に到着した。

唐での活動

阿部仲麻呂は718年(養老2年)に18歳で唐の太学に入る。721年、東宮司経局校書になる。727年頃に結婚した可能性がある。天平六年(734年)玄宗皇帝は仲麻呂の帰国を不許可とした。 中国側史料の『楊文公談苑』の記載に「開元中、朝衡なるもの有りて、太学に隷きて挙に応じ、仕えて補闕に至る。国に帰らんことを求む。検校秘書監を授けて放ち帰す。王維及び当時の名輩、皆詩序ありて別を送る。後去くを果たさず。官を歴て、右常侍・安南都督に至る」と書かれている。太学に入学したことは、王維の送別の詩文にも書かれている。 阿部仲麻呂は唐では朝衡と名乗っている。東宮司経局校書は正九品下相当、「校書」は書物の誤りを訂正する校正担当である。古典を知っていなければ務まらない役職である(参考文献1)。

帰国の不許可

天平度の遣唐使が来日したとき仲麻呂は老いた父母に孝養をつくしたいからと帰国願を提出したが、玄宗皇帝の許可は得られなかった。略伝に「慕義名空在。愉忠孝不全。報恩無有日。帰國定何年」(義を慕いて名は空しく在り。忠を愉しむも、孝は全からず。報恩は日あることなし。帰國が定まるは何年ならん)とある。皇帝への忠と、親への孝のはざまで苦しむ姿がある。当初の留学計画では帰国の予定であった。

帰国の試み

753年(天宝12年、仲麻呂 53 歳)には「秘書監」(従三品。秘書省の長官、文筆の官としては最高位)に昇進していた。 753年(天平勝宝5年)、藤原清河を大使とする遣唐使の帰国に同乗して帰国することが許可された。第1船は藤原清河・阿倍仲麻呂、第2船に大伴古麻呂・鑑真、第3船に二度目の渡唐をした吉備真備、第4船には布勢人主らが乗船した。53歳になった仲麻呂としては、最後のチャンスと考えた。第1船は最も安全とされていたが、第1船は日本方面まで来たものの漂流し、安南(ベトナム)に漂着したため、帰国することはできなかった。清河と仲麻呂らは755年に長安に帰還し、その後は唐に仕えた。第2船は11月21日に阿児奈波島(沖縄島)に漂着し、12月7日に益救島(屋久島)、20日に薩摩国阿多郡秋津屋浦に上陸した(唐大和上東征伝(779年))。第3船は20日に阿児奈波島(沖縄島)に漂着した。益救島(屋久島)を経て、紀伊国太地に漂着した。第4船は途上で船が火災に遭ったが、舵取の川部酒麻呂などの奮闘により鎮火に成功した。754年4月、薩摩国石籬浦(現鹿児島県揖宿郡頴娃町石垣)に漂着し、帰国できた(参考文献1)。

古今和歌集

『古今和歌集』羇旅歌 406首目に収録されている阿部仲麻呂の和歌は有名である。

  • あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

詞書に「唐土(もろこし)にて月を見て、よみける 安倍仲麿」と記載される。 また注に「この歌は、むかし仲麻呂を唐土にもの習わしに遣わしたりけるに、あまたの年を経てえ帰りまうで来ざりけるを、この国より又使まかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとて出で立ちけるに、めいしうといふ所の海辺にてかの国の人餞別(むまのはなむけ)しけり、夜になりて月のいと面白くさしいでたりけるを見て詠めるとなむ語り伝ふる」 とある。平城京から東方を眺めると、標高498メートルの春日山に隠れて三笠山を見ることはできない。遣唐使の航海安全祈願のための神祭を実施した三笠の山の麓から月をみることになる。『続日本紀』に「遣唐使、神祇を蓋山(みかさやま)の南に祠る(養老元年〔717年〕2月条)と書かれていることがこれを示す。その思い出を歌に込めたのであろう。 唐の明州での送別の宴の際に詠まれた歌で、望郷の想いが語られる。送別の開催は753年(天平勝宝5年)11月15日のことで、この夜は満月であったという。

仲麻呂の影響力

玄宗皇帝は、宮殿の府庫(図書館)を遣唐使の日本使(750年(天平勝宝二年)九月任命)に許可した。案内者は朝衡(仲麻呂)であった。朝衡が玄宗皇帝に願い出て許可を得たと考えられている。君主教殿、老君之経堂、釈典殿宇などくまなく見せ、さらに大使(藤原朝臣清河)、副使(大伴古麻呂)の肖像画を書かせ、送らせた(宮田俊彦1961)『吉備真備』吉川弘文館。これは他の遣唐使にはなかったことであり、相当に異例の厚遇といえる。仲麻呂の皇帝への影響力によるものと考えられる。

阿倍仲麻呂の記念碑

護国寺

東京文京区大塚の護国寺の正式名称は「神齢山悉地院大聖護国寺」である。仲麿塚碑がある。銘文に次が記載される。

-此碑旧在大和国安倍村久没 
-蒿莱無人剥蘚者大正十三年
-甲子仲秋移植斯地題詩于其陰     
-箒庵逸人

「此の碑、旧は大和国安倍邸に在り。久しく蒿莱(こうらい)に没し、人の蘚を剥ぐ者無し。大正十三年甲子仲秋、斯の地に移し置き、詩を其の陰に題す。箒庵逸人(高橋義雄)」

 高橋義雄は実業家で俳人であり数寄者として知られる。箒庵逸人は俳号。著書『箒のあと』下(秋豊園出版部、1836年)で、経緯を書いている。奈良の骨董商の店先で石碑を見つけ購入したという。碑面の文字は温秀高雅で、藤原時代の名家の筆蹟と見た。安倍村は、安倍一族の発祥の地のため、仲麻呂が物故したのち、招魂碑としてこの地に建てたと推測される。東野浩之教授は考古学的見地から7~8百年前のものとは思えず、江戸時代ではないかとする。江戸時代本居宣長が安永三年(1772年)のこの地を訪れたとき、田の中に「あべの仲まろのつか」があることを記している(『菅傘日記』)。18世紀後半には存在していたと推定される(参考文献1)。

国陝西省西安市

興慶宮は陝西省西安市にあり、玄宗皇帝の兄弟五人の王子たちの御殿として造営された。728年に興慶宮で公式の政務を執りはじめ、大明宮に代わる唐代の政治の中心地となった。現在の興慶宮には勤政務本楼の遺跡や沈香亭、花萼相輝楼、長慶軒、湖などがある。阿倍仲麻呂記念碑は唐の柱に似せてつくられた漢白玉製の記念碑で、高さ3.6メートル、市内の興慶宮公園の東南隅にある。西安と奈良は、昔はそれぞれの国の首都であったところから、1974年に友好都市となり、奈良市長の提案で、西安と奈良に阿倍仲麻呂記念碑が建立された。西安の記念碑は1979年7月1日に立てられている。

科挙に合格したか

科挙に合格したという明確な根拠はない。しかし合格説では、高位高官に出世した事実をもって説明する。しかし科挙が出世に決定的に重要であったのは、宋代以降という理解もあるため、唐代における科挙の位置づけが問題となろう。

Wikipedia日本語版の誤り

Wikipedia日本語版にいくつかの誤りがある。

  • 生年月日を「文武天皇2年〈698年〉」の生まれとしているが、これは誤りである。上野誠説(参考文献)に依拠したと思われるが、数え年齢と満年齢とを混同している点で、誤りである。
  • 733年(天平五年)の遣唐使の帰国に同行しなかった理由を「唐での官途を追求するため帰国しなかった」と書いているが、仲麻呂の意思で帰国しなかったわけではない。皇帝の許可がでなかったため帰国できなかったのである。

参考文献

  1. 森公章(2019)『阿倍仲麻呂』吉川弘文館
  2. 上野誠(2013)『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』角川書店

遺構面2023年12月25日 00:15

遺構面(いこうめん)は遺構を検出できたときの切削面の最上面をいう。

概要

遺構が形成された当時の生活面を示すものである。かって遺構が造営された当時の地表面であり、遺構を平面的に捉えることができる調査区内の掘り下げ面である。「古墳時代の遺構面」とは、古墳時代に生活されていた、土地の表面である。 上から第一遺構面、第二遺構面などと新しい順に呼ばれる。 「遺構検出面」ともいう。発掘調査では現在の地表面直下の最上位の土壌を除去し、遺物包含層を表出させるところから始まる。土層面に掘られた遺構の輪郭とその覆土を検出するが、本来の生活面(純粋な遺構面)よりやや深く掘り下げないと、遺構の輪郭を捉えられないことがある。発掘調査の切削の一段階としての遺構としては、「遺構面」はあまり意味がない用語であるとの意見もある。

参考文献

浅鉢形土器2023年12月25日 08:02

浅鉢形土器/長野県立歴史館

浅鉢形土器(あさばちがたどき)は縄文時代の土器で、底部に比べ口縁部が大きく開いた形状の土器である。

概要

鉢形土器のうち器高が低いものを浅鉢形土器という。縄文土器は上下で器の径に大きな差がなく、口縁部が大きく開いた鉢形が主流である。長谷部言人は高さが口径の3分の2以上を深鉢形土器、3分の1以上、2分の1未満を浅鉢形土器として提案した。 最古の縄文土器は深鉢形土器で始まり、深鉢形土器から浅鉢形土器が分岐した。縄文時代中期では東関東地方を中心に東北にも広く分布する。口縁部が華やかに装飾された土器もある。浅鉢は草創期の鹿児島掃除山遺跡に見られるが、その後北海道の貝殻沈線文土器に見られる。一般化するのは中部高地・関東における前期後半の諸磯式土器である。

浅鉢と深鉢

深鉢に対して、浅鉢は少数である。坪井清足は熊本の御陵貝塚、滋賀の滋賀里遺跡から、深鉢と浅鉢の個体比率は7対3であることを明らかにした。しかし、時代差や地域差の変化は今後の研究課題である。

用途

縄文土器の形状で、出土量の多い深鉢型土器は主として煮炊き用に、出土量の少ない浅鉢形土器は煮炊き以外の用途で使用されていたと考えられている。浅鉢形土器はおもに固形物を盛っておくための容器とされている。弥生時代以降の同じ形のものは単に鉢形土器という名称で呼んでいる。多くは口縁部に文様帯をもち、その文様帯はベンガラ(酸化鉄)や水銀朱で赤く塗られている。 縄文時代後期では、中期以降の煮炊用の深鉢に加え、祭祀用や貯蔵用の鉢、浅鉢、台付浅鉢、注口土器、壺などの多彩な器種で構成された土器群が、列島全域に展開する。台付浅鉢土器は丁寧に作られる器であり、神や精霊への捧げものなど、大事なものが盛り付けられたと想定できる。縄文時代後期の東北北部から北海道南西部にかけて出土する土器である。

作例

  • 浅鉢形土器 - 姥山貝塚出土、千葉県市川市、東京国立博物館
  • 浅鉢形土器 - 片野町糠塚遺跡第一号住居跡出土、岐阜県高山市、縄文時代、重要文化財

参考文献

  1. 甲野勇(1953)『縄文土器の話』学生社
  2. 坪井清足(1962)「縄文文化論」『岩波講座日本歴史 第1 (原始および古代)』岩波書店
  3. 戸田 哲也(2011)「縄文土器型式と分布域」月刊考古学ジャーナル,考古学ジャーナル編集委員会 編 (610)pp.34~37

2023年12月25日 18:14

(かめ)は古代では口が大きく底の深い土器である。

概要

考古学では、形の大小にかかわらず、深くて口の大きな深鉢形土器を甕という。昔は甕は焼き物の総称であった。八岐大蛇に酒を提供した八甕や水を汲んだ瓶(へい、神代紀)など古くから「かめ」は水や酒を入れる深く、大きな容器を指していた。本来は火にかける器ではない。縄文土器では、丈の高い広口の器を「かめ」と呼んだが、現在は深鉢と呼ぶ。北部九州では特大の甕を埋葬用の容器として用いる。

壺との違い

口が大きく容量の大きいものを甕とし、口が小さくすぼまり容量が比較的小さいものを壺という。甕は壺より口縁が広いため中身が取り出しやすい。壺は口が狭いため外気に触れにくい利点を持つ一方、出し入れをする際は少しずつしかできない点がある。

甕形土器

  • 甕形土器は弥生時代、古墳時代に見られる土器の形式である。
  • 甕形土器は縄文時代の深鉢形土器がもとになり成立した器種である。
  • 弥生土器では基本的器形は壺形土器、甕形土器、鉢形土器、高坏形土器の四種類である。

埋甕(うめがめ、まいよう)

  • 地面に穴を掘り甕を埋めることである。住居の内部(出入口部)に営まれる住居内埋甕と住居外に営まれる住居外埋甕とがある。縄文時代前期中ごろの、乳幼児の骨の入った深鉢の出土例が最も古いものである。縄文時代中期後半には乳幼児の骨が正立または伏せて埋設された底部穿孔土器中に葬られた。のちに住居入口部に胎盤、へその緒を入れた土器を埋める風習も現れた。子供の健康を願う、まじないの側面もあったとされる。成人遺体の骨だけを土器の中に納める洗骨葬は後期初頭となる。

日本書紀 巻第一 神代上

  • 「汝、可以衆菓釀酒八甕、吾當爲汝殺蛇。」
  • 「素戔嗚尊勅蛇曰「汝、是可畏之神、敢不饗乎。」乃以八甕酒、毎口沃入。」

出土例

  • 甕 - 島根県出雲荻杼古墓出土品、
  • 埋甕 - 古婦毛遺跡、縄文時代の新生児埋葬施設
  • 埋甕 - 黒谷(くろや)貝塚は最古の事例である。

参考文献

  1. 岩永祐貴(2019)『岐阜県における埋甕の様相』奈良大学大学院研究年報
  2. 木下忠(1970)『戸口に胎盤を埋める呪術』日本民族学会第9回研究大会報告要旨,民族學研究