百済 ― 2026年04月11日 21:55
百済(くだら, 백제,ペクチェ)は朝鮮半島の三国時代における国家の一つで、半島南西部を中心に発展した古代国家である。高句麗・新羅と並び、東アジア史上重要な役割を果たした。
成立と漢城時代
百済は、三韓の一つである馬韓諸国の中から成長した国家である。『魏志倭人伝』の時代、馬韓は約50の小国に分立しており、その一つとされる「伯済国」が百済の前身と考えられている。
4世紀前半には勢力を拡大し、314年に高句麗と協力して帯方郡を滅ぼしたとされる。また、4世紀中頃までに馬韓諸国を統合し、国家としての基盤を確立した。
この時期の都は漢城(現在のソウル周辺)であり、具体的には風納土城・夢村土城(現オリンピック公園周辺)が王都の遺跡と考えられている。
近肖古王(在位346頃~375頃)の時代には国家体制が整備され、中国文化の影響を受けて文字の使用や記録の作成が開始された。また、384年には東晋から仏教が伝来し、国家文化の重要な要素となった。
熊津遷都と王権の動揺
475年、高句麗の長寿王の侵攻により漢城が陥落し、第21代蓋鹵王は戦死した。これにより百済は大きな打撃を受ける。
その後、王子の文周王は都を熊津(現在の公州)遷すが、王は478年に暗殺され、王権は不安定となる。『三国史記』によれば、この時期の動員兵力は約2,500人とされ、国力の低下が指摘されている。
しかし、第24代東城王(在位479–501)は新羅や倭との関係改善や伽耶地域への進出を進め、王権の再建を図った。
泗沘時代と対外関係
第25代武寧王(在位501–523)の時代には王権が回復し、続く第26代聖王は538年に都を熊津から泗沘(現在の扶余)へ遷都した。また、このとき国号を「南扶余」と改めた。
551年、百済は新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧都漢城地域を一時奪回する。しかし翌552年、新羅に裏切られて同地を奪われ、両国は対立関係に転じる。聖王は554年の戦いで戦死した。
滅亡
7世紀に入ると、百済は高句麗と結び新羅と対抗したが、情勢は不利となる。新羅は唐と同盟を結び、百済討伐に踏み切った。
660年、唐(約13万)と新羅(約5万)の連合軍が侵攻し、百済軍は黄山の戦いで敗北する。王都泗沘も陥落し、第31代義慈王は降伏し、百済は滅亡した。
国名「百済」の語源
「百済(くだら)」の語源については複数の説がある。
- 地名説:馬韓地域の「居陀(コダ)」という地名に由来する説
- 大村説:「ク(大)」+「タラ(村)」で「大きな村」を意味するという説
- 大国説:「クンナラ(大きな国)」が転訛したとする説
- 百家渡海説:『隋書』に見える、百家が海を渡ったことに由来するという説
参考文献
- 日本国語大辞典第二版編集委員会(2001)『日本国語大辞典第4巻』小学館
- 伊藤亜人監修(2000)『朝鮮を知る事典』平凡社
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/04/11/9847846/tb
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。