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装身具研究の現状・課題2025年02月17日 00:29

装身具研究の現状・課題(そうしんぐけんきゅうのげんじょう・かだい)は、明治大学黒曜石センターと日本玉文化協会が共催した2025年2月2日のシンポジウムである。

概要

  • テーマ:装身具研究の現状・課題
  • 主催:明治大学黒曜石センター
  • 共催:日本玉文化協会
  • 会場:明治大学 グルーバルフロント多目的ホール
  • 期日:2025年2月2日(日)
  • 趣旨:今回は、製作技術や組成、代替石材の開発など、多様なテーマを取り上げ、装身具からどのような考古学的議論が可能かを検討する。

講演

縄文時代早期から前期の装身具

  • 五十嵐 睦氏 (平塚市教育委員会)
  • 縄文時代早期から前期の装身具の出土例として著名な神奈川県海老名市上浜田遺跡の玦飾6点について、観察所見を延べ、再評価した。これらは土坑墓から出土したもので、出土状態が明瞭である。主として補修孔を観察した。6点はすべて滑石製の玦飾であり、土坑毎に色調が異なる。緑色に黒色の斑点が見られる。これは南関東に多い。サイズ形状は3cmから4cmの環状で1個所に切れ目があり、環に穿孔がされている。摩耗の度合いから紐のすれ跡と見られ、痕跡は両面に見られることから、紐をピンと張った状態で垂下されて使用したと見られる。腰飾りの用途であろう。

翡翠輝石岩製磨製石斧の生産・流通

  • 野島 泉 (東京航業)
  • 埼玉県塚越向山遺跡の10点の翡翠輝石を理化学分析(X線回析分析)した。その結果、在地の石材ではなく、翡翠輝石と判明した。翡翠輝石岩は緑色で不透明である。翡翠輝石の関東地方における産地としては、群馬県下仁田町、埼玉県寄居町周辺、が知られている。10点の比重は平均3.2(最小3.1、最大3.3)であり、これは群馬県下仁田町の下鎌田遺跡と完全に一致する。雲母が含まれる翡翠輝石岩は下仁田町産のみである。

縄文時代後晩期の玉類製作とその特質

  • 長田友也 (中部大学)
  • 縄文時代では後期と晩期とでは、文化が多様であり、ひとくくりでは語れない。玉類は後期まで大珠が継続するが後期中葉以降は丸玉や子玉を連ねてネックレスや垂飾などに用いた連珠が発達した。原産地での玉類製作地として新潟県糸魚川市の寺地遺跡が知られる。原産地以外での玉類製作地としては新潟県新発田市中野遺跡、佐倉市宮内井戸作遺跡、川崎市宮添遺跡などが知られる。連珠として利用する例は北海道道央部に初源が求められる。千歳市の美々4遺跡などに見られる。玉製作では磨製石器を用いて、剥離、叩打、研磨により完成させる。縄文後期は小型が多い。変色部分があることから、加熱処理による軟質化を図った可能性がある。

参考文献

  1. 明治大学黒曜石センター(2024)『装身具研究の現状・課題』シンポジウム資料

発掘と発見の考古学2025年02月12日 00:03

明治大学博物館

発掘と発見の考古学(はっけんとはっくつのこうこがく)は、明治大学博物館の企画展である。

概要

  • テーマ:発掘と発見の考古学 -明大考古学の75年-
  • 主催:明治大学博物館
  • 共催:明治大学文学部史学地理学科考古学専攻
  • 会場:明治大学博物館 特別展示室
  • 期日:2025年1月11日(土)から同年3月15日(土)
  • 趣旨:明治大学では1950年(昭和25年)に文学部考古学専攻が発足してから、旧石器時代から古墳時代までの各時代の遺跡を調査してきた。明治大学博物館ではその成果を公開する。群馬県岩宿遺跡や神奈川県夏島貝塚などの国指定重要文化財5件を中心とした考古資料から、戦後の日本考古学研究を牽引した同学の調査と研究の歩みを振り返る。

旧石器時代

岩宿遺跡(群馬県みどり市)1949年、1950年発掘

  • 日本列島に旧石器時代があることを日本で初めて証明した遺跡である。
  • 岩宿Ⅰ石器文化 基部加工石羽石器 国指定重要文化財 

砂川遺跡(埼玉県所沢市)1966年、1973年発掘

  • 砂川遺跡F地点 彫器 国指定重要文化財 
  • 砂川遺跡F地点 刃器状剥片 国指定重要文化財 

縄文時代

  • 明治大学では縄文早期、晩期の土器編年、製塩遺跡、黒曜石採掘などの研究を推進した。 夏島貝塚では条痕文系土器と撚糸文系土器とが古い層から新しい層へと順に出土した。 当時、論争の種であった土器編年研究に重要な成果を提供した。

夏島貝塚 1950年、1955年発掘

  • 尖底深鉢形土器 夏島Ⅱ式

弥生時代

板付遺跡 1951年から1954年発掘

  • 板付Ⅰ式土器 最古の弥生土器 

出流原遺跡 1964年、1965年発掘

  • 顔面壺形土器

古墳時代

三昧塚古墳 1955年発掘

  • 横板鋲留短甲 重要文化財 

舟塚古墳 1965年から1968年発掘

  • 武人埴輪 矛を構える武人 
  • 馬形埴輪 鞍に短冊形水平板が付く  

参考文献

倭国の時代2025年01月25日 00:27

倭国の時代(わこくのじだい)は2024年12月21日に行われた古代史講演会のテーマである。

概要

  • タイトル  第27回古代史講演会「倭国の時代」
  • 会場    オンライン
  • 講師    古市 晃氏(神戸大学大学院人文学研究科 教授)
  • 日時    2024年12月21日(土)14時00分から15時30分

要旨

倭国はどのように成り立ったか。研究成果によれば5、6世紀は倭王中心の王族による専制的倭王権であった。5世紀段階は血縁継承とはいえず、血統による王権継承は6世紀からである。 倭王のグループから倭王がどのように選ばれるか。5世紀後半から倭王の権力が強まった。 470年代では倭王による専制支配であった。6世紀前半の欽明以後は血縁継承と認められている通説をどのように考えるか。諸伝承の排除は理由がある。記紀伝承は後からの造作があることが明らかにされている。作られた物語からは歴史を構成できない。しかし、まったくのゼロではない。記紀の基礎的な部分には歴史的事実があるだろう。出土文字資料は同時代資料であるから、造作の心配が無い。5世紀後半に「大王」の出土文字資料があり、稲荷山古墳の鉄剣に書かれる。当時は複数の王統があった。記紀と宋書を見比べれば、「珍」と「斉」は血縁関係は無い。中国の史書においては、諸外国の王朝についても、継承関係は可能な限り正確に書くのが原則であるから、血縁が記されないのは、重みがある。藤間生大は「珍」と「斉」は血縁がないと書いている。すなわち当時は少なくとも2つの王統があったことになる。5世紀の倭王の王権は不安定であったといえる。

考察

参考文献

  1. 古市 晃(2021)「倭国 古代国家への道」講談社

縄文時代の陥し穴2025年01月21日 00:27

縄文時代の陥し穴(じょうもんじだいのおとしあな)は2025年1月18日に行われた古代史講演会のテーマである。

概要

  • タイトル 「縄文時代の陥し穴」
  • 会場    東京都埋蔵文化財センター 会議室
  • 講師    齋藤由美子氏(東京都埋蔵文化財センター調査研究員)
  • 日時    2025年1月18日(土)13時30分から15時30分

要旨

陥し穴とは

陥し穴は地面に穴を掘り、その底面に逆茂木を埋め込み、穴の上面に草や土を敷き詰めてカモフラージュし、そこを通過した動物を穴に落下させて捕獲する狩猟装置の一つである。陥し穴は丘陵や台地の斜面などの傾斜地に多く作られる。陥し穴と判断できるのは、断ち割りすれば底面に逆茂木が見つかるからである。上部に敷き詰めた草や土の痕跡が残る場合もある。 穴の形は円形又は楕円形である。陥し穴はほぼ日本全国でみつかっている。陥し穴を日本で始めて報告したのは、神奈川県の横浜市緑区霧ヶ丘遺跡の報告書であった。それによれば、最も深いもので1.7mを超える穴の深さがあり、底面に向かうにつれて径が狭くなる形状である。底面には竹や木の穴を刺した跡が見られ、落ちた動物が身動きがとれないようにするためのものと判断された。

江戸時代の動物との攻防

江戸時代の東北八戸藩では、18世紀中頃に猪の食害で、「猪飢渇」が生じたという。冷害に猪害が加わって生じた飢饉であったという。当地の方言で「いのししけかち」(いのししけがち)と読む。猪垣(ししがき)は害獣の侵入を防ぐために山と農地との間に築かれる垣根、石垣、土塁である。石垣は1.5mの高さである。この高さを猪は乗り越えられない。

陥し穴の分類による分析

講演者は陥し穴を底面長軸の長さと長短軸比の組み合わせにより20種類に分類し、地域的特性を調べた。南関東では、丘陵部と台地部とでは形状が異なることを発見した。南関東の丘陵部では長短軸比の中央値が0.315であったが、台地部では0.138と非常に細長くなっている。楕円形の陥し穴は北部九州と南関東の台地部で多い傾向がある。円形は中国地方の中国山地沿いの標高の高い処で多い傾向が見られた。旧石器時代の陥し穴は1遺跡で1基から2基が多い。

考察

縄文時代の土坑は陥し穴、お墓、貯蔵穴など様々な種類がある。それらは土坑の形状や出土遺物、堆積土の状況から区別する。墓では副葬品の有無、埋葬に伴うと考えられる遺物が出土すること、穴のサイズ形状が人間を格納できる寸法であるかどうかにより判断できる。貯蔵穴は断面の形が袋状であり、掘り込みは浅めのものが多い。直径・深さともに1m内外の土坑である。集落内の一定の場所に設けられ、その内部からはドングリ・クルミ・クリなどが発見される。 貯蔵穴と墓は集落内や集落の近くにある程度まとまって検出される特徴がある。 陥し穴は多くの場合、山の傾斜部などでみつかるが、集落内で見つかることもある。 平面形状が円形や方形は陥し穴、であるが貯蔵穴にも円形や方形は見られる形状であるから穴の形状は決定要因にはならない。陥し穴は列状に並ぶ場合もある。 陥し穴は坑底(土坑の底面)に逆茂木などの施設があることが多い。 船久保遺跡(横須賀市、旧石器時代)では穴は1m×50cmの長方形の穴で、深さは2メートルほど。調査範囲だけで13基あり100mにわたって等間隔に並んでいた。深くなるに従って幅が狭くなるとの狭い部分に鹿の足が入り込むと鹿は動けなくなる。シカは後ろ足の力は強いが、前足が落ちると脱出できないという。船久保遺跡では四角い穴が、谷筋に沿って列になっている。

参考文献

  1. 齋藤由美子(2025)「縄文時代の陥し穴」講演資料
  2. 佐藤 宏之(2009)「日本列島旧石器時代の陥し穴猟」国立民族学博物館調査報告33
  3. 足立 拓朗(2018)「石川県内の縄文時代陥し穴猟」

卑弥呼と大和王権2024年12月17日 01:11

卑弥呼と大和王権(ひみことやまとおうけん)は2024年12月07日に開催された古墳時代の大和に関する講演会である。

概要

  • タイトル 「卑弥呼と大和王権-古墳時代の大和を考える-」
  • 主催    大和文化会
  • 会場    銀座ブロッサム 中央会館(東京都中央区銀座2-15-6)
  • 定員 900名(申込先着順)
  • 日時    2024年12月08日(日) 14時00分から16時00分

講演1 12時50分~14時10分

「倭王のイメージ -古墳と王権-」

奈良県立橿原考古学研究所 学術アドバイザー 岡林孝作先生

倭王のイメージは『魏志倭人伝』に記載されている。最初の前方後円墳は250年頃に築かれたから、『魏志倭人伝』は同時代史料であり、貴重である。「大王」の初出は埼玉稲荷山鉄剣の銘文と江田山古墳の鉄剣銘である。倭王朝は中国の王朝と交流があった。262年に伊与を告諭しており、266年張政の帰国を送ったとされる。

桜井茶臼山古墳に見られるように倭王は産業を支配する王であった。当時の朱は非常に高価であった。それを多量に使用する王墓を作っていることは、倭王が強大な財力を持っていたことを示す。当時の倭は豪族連合の国家であったが、その中で倭王の前方後円墳は、同時期で最大の規模の古墳であり、その時代の階層的構成(秩序)の頂点にある。

講演2 14時30分~16時00分

「纒向遺跡とヤマト王権-私の邪馬台国論-」

桜井市纒向学研究センター 所長 寺沢薫先生

卑弥呼は巫女のイメージと弥生中国のイメージとがある。弥生時代は「白鷺=神」であったから、白鷺の扇を持ち、絹傘を差し掛けている。服は白ではなく、トキ色、すなわち黄色ものある白である。ところで纏向遺跡は発見されてからすでに50年を経過する。

『日本書紀』によれば、崇神の王統は三輪山西南麓の磯城・纒向に宮を構えたとされている。垂仁は纏向に都を定めたと書かれる。纏向の名前は古くからある。纏向遺跡は2世紀では集落は何もなく、3世紀になって突然に出現した都市である。農業を行った痕跡は極めて薄い。一方、唐古・鍵遺跡からは農具が多く出土するので、大きな違いがある。

唐古・鍵遺跡から纏向遺跡に移住したとは考えにくい。唐古・鍵遺跡では伐採用斧の柄、竪杵、一木鋤、平鍬 鎌、杵などの木製農耕具が出土する。一方、纏向遺跡からは鎌や鍬が出土しない。95%は鋤などの土木用具である。当時の纏向遺跡は物流・交通の要衝であった。纏向に登場した前方後円墳は倭国の全国に広がった。纏向遺跡に祭祀の象徴として最も古い段階の導水遺構がある。さらに大型の王宮が発見されている。前方後円墳は、初期型の石塚古墳、矢塚古墳、ホケノヤマ古墳が定型化されて勝山古墳と東田大塚古墳が登場した。それらから最初の定型的前方後円墳の箸墓古墳が登場した。最古の希少品として、倭の天蚕で作られた絹製品が出土し、紅花やバジルの花粉が見つかっている。西アジアから中国経由で齎された貴重品である。纏向遺跡からは北部九州から南関東までの各地の土器が出土している。

弥生時代200年頃までに紀元前の北部九州で「国家」が登場した。橋口氏が弥生時代の戦死者リストを作成しているが、ほとんどの使者は北部九州であった。最初の倭国王帥升は伊都国王であり北部九州にいた。

その後に倭国乱があり、卑弥呼共立の時期のAD204年以後は、纏向遺跡に政権が移動した。新生倭国は女王を王とした。纏向遺跡は邪馬台国の王都ではない。倭国の首都である。卑弥呼は大和政権の最初の王(大王)である。王国と呼んで良いだろう。ここから飛鳥時代の明日香に繋がる。

参考文献

  1. 「卑弥呼と大和王権-古墳時代の大和を考える-」講演資料、大和文化会
  2. 岡林孝作(2018)『古墳時代棺槨の構造と系譜』同成社
  3. 寺沢薫(2008)『王権誕生』講談社
  4. 寺沢薫(2023)『卑弥呼とヤマト王権』中央公論新社

古代の交通ルール2024年12月09日 00:20

講演会フライヤー

'古代の交通ルール(こだいのこうつうるーる)は2024年12月08日に開催された古代の交通ル-ルに関する講演会である。

概要

  • タイトル 「古代の交通ルール」
  • 主催    国分寺市教育委員会
  • 会場    いずみホール
  • 講師    近江俊秀(文化庁主任文化財調査官)
  • 日時    2024年12月08日(日曜日)14時00分から16時00分

要旨

講演は主として時代の逆順で行われたが、ここでは時代順で説明する。

弥生時代

弥生時代にすでに道路交通ルールがあった。『魏志倭人伝』に道で偉い人に出くわしたら、身分が下位のものが道を譲ると書かれる。道を譲る行為は身分の上下関係の可視化とみられる。

飛鳥時代

670年(天智9年)、天智大王が「行路の相避ることを宣ふ」(『日本書紀』第廿七 天智九年春正月条、宣朝庭之禮儀與行路之相避)と勅したと日本書紀に書かれる。道路で出会ったら互いに避けるという意味である。弥生時代と同様の交通ルールである。

奈良時代

奈良時代の太宰府の条坊から奈良時代の柵の跡、道路と側溝が発見された(大宰府条坊跡第 357 次調査)。路面幅は約3m、東側溝は幅約2m、深さ0.5m、西側溝は幅約2.5m、深さ0.5mの直線道路であった。路面に幅5cmの筋状の溝(轍の跡)が残り、また牛の足跡も残る。「荷物を運ぶ車両は道路を通り、それ以外の人や牛は側溝を歩いていたのではないか。車両と歩行者を分離していたとも考えられる」とされるので、歩車分離の交通と見られる。牛の蹄の跡から左側通行と推定されている。

平安時代

公家の礼法では牛車がすれ違うとき、左に避けるルールがあった。しかし平安京の発掘調査では車の轍は道の中央を通っていた。

鎌倉時代

『宇治拾遺物語』では左側に避けている(大膳の大夫以長、前駆の間の事)。『極楽寺殿御消息』(北条重時、1198年~1261年)では相手が高貴なら左に避けると書かれる。公家社会のルールであったと想定される。

戦国時代・安土桃山時代

『石山寺縁起絵巻』(巻1)で人は左側を通行している。『中島摂津守宗次気』(1558)は路地でで輿に出会ったら右に退き、左を輿に通す。

江戸時代

平和の時代 右側によける戦国時代のルールは変化する。理由は敵意がないことを示すため(刀を使えない)自分から見て左側に避けるようになった。身分を示す刀が相手に当たらないようにする意味がある。『海陸行程細見記』(増補:1836年)は右に除けると無礼になると示している。武士のルールが庶民まで広がったと見られる。

考察

右側または左側の通行は「礼」と密接に関係する。何らかの社会的な合意がないと、無用な衝突が起こる。江戸時代の生麦事件も交通のお約束(ルール)を知らなかったために起きた歴史的事件である。

参考文献

  1. 近江俊秀(2024)『「人は右、車は左」 往来の日本史』朝日新聞出版
  2. 近江俊秀(2024)「古代の交通ルール」講演資料

富雄丸山古墳の蛇行剣と保存科学2024年12月04日 00:13

富雄丸山古墳の蛇行剣と保存科学(しょくとちょうりのこうこがく)は2014年11月23日に開催された古代史と保存科学に関する講演会のタイトルである。

概要

  • イベント名 第14回奈良県立橿原考古学研究所 東京講演会
  • タイトル 「富雄丸山古墳の蛇行剣と保存科学」
  • 主催 奈良県立橿原考古学研究所、由良大和古代文化研究協会、朝日新聞社
  • 会場    有楽町朝日ホール
  • 日時    2024年11月23日(土曜日)13時00分から15時55分

要旨

保存科学の歴史と富雄丸山古墳の蛇行剣に適用された保存科学を解説する。

講演1「富雄丸山古墳と保存科学」

奥山誠義氏 橿原考古学研究所 総括研究員

保存科学は文化財の医者である。保存科学の役割は、今の文化財の姿を後世に残すことである。1989年に橿原考古学研究所保存科学研究室ができた。1992年に保存科学棟ができた。 研究員は現在4名である。2022年に国内最大の蛇行剣が発掘された。下にある銅板(当時の認識、距離も不明であった)や遺構を傷つけないように取り上げる必要があった。アクリル樹脂を塗布し土と剣を補強し、ガーゼを当てて竹串で周囲の土を掘り下げ、10人かかりで取り上げた。研究所に搬入後は透過X線撮影を行い、三次元形状計測を行った。当初は剣が1本か2本か分からなかったが、最終的に1本と確認した。木材の痕跡が見つかり、鞘はホオノキ製と判明した。中央部に織物の痕跡があった。慎重に剣のクリーニングを行って公開にこぎ着けた。

講演2「蛇行剣-富雄丸山古墳出土品の理解に寄せて-」

北山峰生氏  橿原考古学研究所 調査第1係長

蛇行剣は全国で約80本出土しており、茶すり山古墳(兵庫県)、宇陀北原古墳、花の木古墳群、豊中大塚古墳(大阪府)、フネ古墳(長野)、七観古墳(大阪府)などがある。韓国でも金城里古墳など数例がある。蛇行剣の年代はまだ確定しない。鉄生産は5世紀に大型利ができ、長い剣の国産化が出きている。蛇行剣は5世紀に登場し、Aタイプ、Bタイプ、Cタイプに分かれる。蛇行剣以外の剣は何度も折り返して鍛錬するが、蛇行剣はブロック状の素材がついているだけで鍛えられていない。武器としては実用では無く、儀礼用の剣ではないか。

講演3「保存科学と考古学」

今津節生氏 奈良大学学長

1989年に橿原考古学研究所入所した。藤ノ木古墳では玄室内の泥のように見えた塊が、持ち帰って分析すると実は布の塊であることが分かった。1996年の下池山古墳では地下2mの空洞から鏡と織物を発見した。繊維を剥ぎ取り、毛織物を顕微鏡で調べると兎の毛であることが分かった。鏡袋の存在を明らかにできた。目に見えない有機物の残片から様々なことが分かるようになった。出土繊維の調査が全国で行われることを期待する。

考察

考古学の発掘現場には保存科学が必須であることがよく分かった。見逃しがちなゴミに見える塊が実は、貴重な研究素材を提供する。今回はだ龍鏡の分析は未完了のため蛇行剣に焦点が当たった。

参考文献

  1. 第14回奈良県立橿原考古学研究所 東京講演会 資料