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丸山眞男2023年05月28日 14:37

丸山眞男(まるやままさお、1914年3月22日 - 1996年8月15日)は日本の政治学者、思想家である。東京大学名誉教授。

概要

専門は日本政治思想史。マックス・ヴェーバーの影響を強く受けた。 初期の代表作は『日本政治思想史研究』。江戸時代の政治思想、朱子学の展開を論じる古典である。近代とは何かを論じた。 1972年に発表した「歴史意識の「古層」」(丸山眞男集第10巻)で歴史意識の古層を論じた。さらに英文原稿から翻訳された「日本における倫理意識の執拗低音-そのいくつかの側面」(別集第3巻)で倫理意識の古層を論じた。政治意識の古層は「原型・古層・執拗低音―日本思想史方法論についての私の歩み」(丸山眞男集第12巻)で論じた。

経歴

  • 1914年、大阪に生まれる。大阪府東成郡天王寺村(現在の大阪市阿倍野区)で丸山幹治(侃堂)・セイの第二子として生まれた。丸山幹治は東京専門学校卒業後、日本新聞、京城日報などを経て、1909年大阪朝日新聞社に入社したジャーナリストであった。
  • 1931年(昭和6年)、第一高等学校文科乙類に入学。
  • 1934年、東京帝国大学法学部政治学科に入学
  • 1937年、東京帝国代学法学部政治学科を卒業。同学部助手となる。
  • 1940年、東京帝国大学法学部助教授。
  • 1942年、東京帝国大学東洋文化研究所所員を兼任。
  • 1944年、陸軍二等兵として教育召集を受ける。二等兵のまま朝鮮半島の平壌へ送られる。脚気のため内地送還となり召集解除。
  • 1945年、3月、広島市宇品町の陸軍船舶司令部に二等兵として再応召。4月、参謀部情報班に転属。6月に一等兵に昇進。8月6日、朝礼点呼の時間に原子爆弾が投下されたが、丸山は司令部棟の建物の影で爆風には晒されなかった。9月に幅員。
  • 1946年、『世界』5月号に「超国家主義の論理と心理」を掲載。三島大社境内に設けられた庶民大学三島教室に参加、全国を巡る。東京帝国大学憲法研究委員会委員。
  • 1950年、東京大学教授。
  • 1951年、肺結核のため入院。自宅療養。
  • 1952年、『日本政治思想史研究』刊行。
  • 1961年、ハーバード大学特別客員教授(62年まで)。『日本の思想』を刊行。
  • 1962年、オックスフォード・セント・アントニーズ・カレッジ客員教授。63年まで。
  • 1968年、東京大学全学共闘会議学生が法学部研究室を封鎖する。明治新聞雑誌文庫所蔵の文書類を守るため文庫に泊まる。健康悪化の要因となる。
  • 1970年、肝炎のため入院。自宅療養。
  • 1971年、東京大学退官。早期退職
  • 1972年、「歴史意識の「古層」」を発表。
  • 1973年、ハーバード大学名誉博士、プリンストン大学名誉博士。
  • 1974年、東京大学名誉教授。
  • 1975年、プリンストン高等学術研究所員。76年まで
  • 1977年、国際基督教大学大学院比較文化研究科非常勤講師。
  • 1978年、日本学士院第1部(人文)会員。
  • 1980年、早稲田大学大隈講堂で行われた大山郁夫生誕百年記念講演会で「あいさつ」と題して講演。
  • 1985年、朝日賞を受賞。日本政治思想史研究における多大な業績による。
  • 1994年、80歳、肝臓ガンのために入退院を繰り返す。
  • 1996年8月15日、進行性肝臓ガンのため死去、享年82歳。

著書

単著

  • 丸山眞男(1961)『日本の思想』岩波書店
  • 丸山眞男(1986)『「文明論之概略」を読む』岩波書店
  • 丸山眞男(1976)『戦中と戦後の間』みすず書房
  • 丸山眞男(1952)『日本政治思想史研究』東京大学出版会
  • 丸山眞男(1952) 『政治の世界』東京大学出版会
  • 丸山眞男(1964)『現代政治の思想と行動』未来社
  • 丸山眞男(1998)『自己内対話―3冊のノートから』みすず書房
  • 丸山眞男(2001)『福沢諭吉の哲学―他六篇』岩波書店
  • 丸山眞男(1982)『後衛の位置から: 『現代政治の思想と行動』追補』未来社
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第1巻』(政治学に於ける国家の概念)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第2巻』(近世日本政治思想における「自然」と「作為」)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第3巻』(超国家主義の論理と心理)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第4巻』(近代日本思想史における国家理性の問題)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第5巻』(日本におけるナショナリズム-その思想的背景と展望)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第6巻』(明治時代の思想)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第7巻』(政治的判断)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第8巻』(「である」ことと「する」こと)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第9巻』(近代日本における思想史的方法の形成)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第10巻』(歴史意識の「古層」)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第11巻』(日本思想史における「古層」の問題)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第12巻』(原型・古層・執拗低音―日本思想史方法論についての私の歩み)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第13巻』(「文明論之概略」を読む1)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第14巻』(日本には政府ありて国民なし)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第15巻』(福沢諭吉の人と思想)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 第16巻』(デモクラシーと人間性)岩波書店
  • 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 別巻』(年譜、著作目録)岩波書店
  • 丸山眞男(2014)『丸山眞男集 別集第1巻』(明治政府の秩禄処分とその影響)岩波書店
  • 丸山眞男(2015)『丸山眞男集 別集第2巻』(戦争責任をめぐって-支配層の場合)岩波書店
  • 丸山眞男(2015)『丸山眞男集 別集第3巻』(日本における倫理意識の執拗低音-そのいくつかの側面)岩波書店
  • 丸山眞男(2018)『丸山眞男集 別集第4巻』(日本思想史研究における問題の所在〈正統と異端〉)岩波書店

参考文献

  1. 丸山眞男(1996)『丸山眞男集 別巻』(年譜、著作目録)岩波書店

平田篤胤2023年05月28日 14:36

平田篤胤(ひらた あつたね、1776年 – 1843年)は江戸時代の国学者である。

概要

安永5年(1776年)8月24日、秋田藩士・大和田清兵衛祚胤の家に生まれる。20歳で脱藩して江戸に出て、備中松山藩士の兵学者である平田篤穏の養子となる。 26歳の時、駿河沼津藩士石橋常房の娘・織瀬と結婚した。 独学で本居派国学を学び、本居宣長の生前に入門したと自称し、宣長の学問を古道学と規定し、その後継者をもって自任した。享和3年(1803年)、宣長学の立場から太宰春台の『弁道書』を批判する処女作『呵妄書』を執筆して注目される。門人を集め講筵を開き、また旺盛に著作を執筆した。1811年(文化8年)に代表作『古史徴』の草稿ができ、819年(文政2年)に刊行する。 文化9年(1812年)、妻織瀬が亡くなる。1812年(文化9年)代表作『古史伝』を著す。 各史書のあいだで内容に差異があるのは何故かを考究し、『古事記』上巻、『日本書紀』、『古史成文』を執筆した。文政元年(1818年)11月18日、43歳となった篤胤は門人山崎篤利の養女と再婚した。文政6年(1823)上京し、著書を朝廷に献じ、また和歌山に大平を訪い、松坂に春庭を訪ね奥墓に参詣する。尾張藩や水戸藩に接近したが、天保12年(1841)年、江戸幕府の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版したが、幕府の忌むところとなり、著述差し止め、国元帰還を命じられた。国では秋田藩に仕官するが、失意の内に天保14年(1843年)9月11日、久保田城下亀ノ丁で病没した。

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 吉田麻子(2016)『平田篤胤-交響する死者・生者・神々-』平凡社

藤井千尋2023年05月28日 14:36

藤井千尋(ふじい ちひろ,1837年- 1900年3月15日)は、幕末勤王の志士、明治期の内務官僚である。

概要

上野国群馬郡出身。明治2年6月4日(1869年7月12日)、徴士弾正台大巡察に任官。幼名は弘助、明治3年(1870年)に「千尋」と改名。 1873年11月、奈良県権令に就任する。 1876年(明治9年)4月、奈良県が廃止され、堺県に合併され廃官となる。 1886年11月、大阪府の生國魂神社宮司に就任した。

就任のいきさつ

廃藩置県後、最初の県令であった四条隆平の退任後、青山貞が奈良県権令に就任する予定であったが、赴任しないまま他の任務につき、代わって堺県参事であった藤井が明治6年11月19日に奈良県権令に就任した。

第一次奈良博覧会

1874年(明治7年)8月、奈良県権令藤井千尋のすすめで、植村久道・鳥居武平ら奈良町の有力者が中心となって奈良博覧会社を設立し、翌1875年(明治8年)4月1日から6月19日までの80日間、東大寺大仏殿と廻廊を会場に第一次奈良博覧会が開かれた。書画、古器古物、動植物標本、機械類が展示された。東大寺・法隆寺・春日大社など大和の有力な社寺や諸家が所蔵する什宝や書画などが、多数出品され、また明治5年の壬申検査で開封された正倉院御物が出陳された。正倉院から鳥毛立女屏風、紅染象牙尺、黄熟香、紫壇碁局、金銅投壷、木製黒漆水瓶などの超名品が出品された。 1875年(明治8年)の奈良博覧会で赤漆文欟木御厨子の1枚の扉が紛失した。博覧会の関係者で奈良県権令の藤井千尋の自宅で発見され、返却された(由水常雄(2006))。

奈良県での業績

奈良在任期間中の業績ととしては、大区会議所の整備・大区小区の組み替えなど、大区小区制の整備、地租改正事業の実施、「学制」以後の小学校の整備、小学教員伝授(伝習)所以降の教員養成機関の設立などである。

参考文献

  1. 奈良国立博物館(2008)『正倉院展60回の歩み』奈良国立博物館
  2. 東京国立博物館(1981)『特別展 正倉院宝物』東京国立博物館
  3. 由水常雄(2006)『天皇のものさし』、麗澤大学出版会
  4. 奈良県(1987)『青山四方にめぐれる国 : 奈良県誕生物語』奈良県
  5. 和田萃,幡鎌一弘,谷山正道,山上豊,安田 次郎(2010)『奈良県の歴史』(県史29)山川出版社

蜷川式胤2023年05月28日 14:35

蜷川式胤(にながわのりたね,1835年6月18日 - 1882年8月21日)は、明治初期の官僚、内務省博物館掛である。

概要

京都東寺の坊官・蜷川子賢の長男として京都八条大宮に生まれる。幼名与三郎。明治2年5月、太政官制度調査掛となる。7月制度局調査係を拝命。同月18日、権少史。9月29日少史となる。1871年(明治4年)外務省の外務大録として編輯課付となる。1872年、文部省博物局御用兼務を兼務して、八等出仕。同年11月、御用書類下調掛。 明治4年7月・8月には「町田久成、内田正雄らと常設の博物館を建議するも、時期尚早とされた。9月田中芳男と図り、九段坂上招魂社で小博覧会を開き、大学南校の博物標本、理科機械などを陳列した。」「博物館を常設にする上申を上げて認められ、東京博物館として実現した。」 明治5年、近畿地方の社寺宝物検査に従事した。その際正倉院宝物調査の記録を残した。壬申検査は、文部省から派遣された町田久成を総責任者として、内田正雄、蜷川式胤らの太政官職員、町田らが自費で随行させた絵師・柏木貨一郎や写真師・横山松三郎らとともにと宝物の記録を作成した。1877年1月、病を理由に退職し、1882年(明治15年)8月21日、没した。享年47歳。

宝物盗難

「壬申検査古器物目録」は東京国立博物館に原本が所蔵されている。記録では次があった。 紅牙撥鏤尺8枚 紺牙撥鏤尺2枚(緑も青も区別が明確ではない) 白牙尺2枚 未造了白牙尺2枚 染牙撥鏤尺1枚(色不明) 牙尺4枚 白木尺1枚 水牛尺1枚 明治15年にも正倉院の御物が調査され、その時の公式目録である「正倉院棚別目録」には 紅牙撥鏤尺6枚(2枚減) 緑(紺)牙撥鏤尺2枚 白牙尺4枚(未造了のものと牙尺を含めて8枚から4枚減) 染牙撥鏤尺0枚(1枚減) とあり、6枚が失われていた。 明治5年、町田久成を団長とする全国社寺調査団が正倉院を調査した。蜷川式胤は1875年(明治8年)の奈良博覧会のために、再び正倉院へ出張した折、蜷川式胤は紅牙撥鏤尺2枚、緑牙撥鏤尺1枚、白牙尺4枚の合計7枚を無断で持ち出し、自宅の蔵に隠したとされる。蜷川式胤の死後の売立て目録に正倉院の宝物が見つかり、しかも2000年には蜷川家の人物から「蜷川家の蔵に撥鏤尺があり、正倉院にお返ししたい」と申し出があったという。 蜷川式胤は、明治15年8月にコレラで急死したとされるが、これは正倉院の宝物が再調査された年であり、撥鏤尺が紛失したことが判明している。明治15年の調査で宝物の亡失の事実が知られ、その責任をとって蜷川は自殺し、町田は仏門に入ったと由水常雄は考えている。

蜷川式胤調査資料

いずれも東京国立博物館蔵である。

  • 重要文化財 壬申検査社寺宝物図集 町田久成・内田正雄・蜷川式胤等調成 明治5年(1872)
  • 東大寺献物帳(模本) 蜷川式胤写 明治8年(1875)
  • 重要文化財 旧江戸城写真帖 蜷川式胤編 明治4年(1871)

参考文献

  1. 奈良国立博物館(2008)『正倉院展60回の歩み』奈良国立博物館
  2. 東京国立博物館(1981)『特別展 正倉院宝物』東京国立博物館
  3. 由水常雄(2006)『天皇のものさし』、麗澤大学出版会
  4. 奈良県(1987)『青山四方にめぐれる国 : 奈良県誕生物語』奈良県
  5. 和田萃,幡鎌一弘,谷山正道,山上豊,安田 次郎(2010)『奈良県の歴史』(県史29)山川出版社

町田久成2023年05月28日 14:35

町田久成(まちだひさなり, 天保9年1月27日- 明治30年9月15日)は、旧薩摩藩士、初代の帝国博物館館長である。

概要

薩摩の島津氏門族で薩摩国(鹿児島県)石谷城主町田久長の長男である。1856年(安政3年)19歳で江戸に出て「昌平坂学問所」で学ぶ。帰藩後1863年、大目付、藩開成所掛。「薩英戦争」に本陣警護隊長として参戦する。部下に東郷平八郎。1865年(慶応1年),森有礼ら藩留学生を率いて渡英する。滞欧中は博物館事業に注目する。帰国後は参与,外国官判事,外務大丞などを歴任する。古器物(文化財)の保護、複製(模写)を建議し、 1872年、3月湯島聖堂にて「湯島聖堂博覧会」を開催する。1872年(明治5年)、蜷川式胤、内田正雄や画家高橋由一、写真家横山松三郎らとともに、正倉院をはじめとする社寺の宝物調査のため約4か月間出張する。

1882年、3月 東京帝室博物館(後の東京国立博物館)初代館長に就任。同年10月 東京帝室博物館長を辞職。1883年10月農商省博物局勤務。1885年3月元老院議官となる。1889年、12月元老院議官を辞職 1890年(明治23年)、園城寺法明院住職桜井敬徳阿闍梨によって仏門に入り、園城寺(三井寺)末光浄院の住職になった。1896年(明治29年)病にかかり上京、寛永寺の子院である明王院(現在は廃絶)で療養していたが、翌年9月病が悪化し60歳で没した。 墓は、津梁院墓地(上野桜木1)。

参考文献

  1. 奈良国立博物館(2008)『正倉院展60回の歩み』奈良国立博物館
  2. 東京国立博物館(1981)『特別展 正倉院宝物』東京国立博物館
  3. 由水常雄(2006)『天皇のものさし』、麗澤大学出版会

古田武彦2023年05月28日 14:34

古田武彦(ふるたたけひこ、1928年7月17日 - 2013年8月6日)は日本の考古代史家、元昭和薬科大学教授である。専門は中世思想史。

概要

1926年(大正15)年、福島県生まれ。1945年、東北帝国大学(現東北大学)法文学部入学。大学卒業後は高校の教員として、長野県松本市や神戸市、京都市の高校で国語、社会を教えた。1984年~1996年、昭和薬科大学教授。

経歴

  • 1926年 福島県喜多方市に生まれる。
  • 1948年3月、東北帝国大学(現東北大学)法文学部日本思想史学科卒業。
  • 1948年4月、長野県松本深志高等学校教諭。
  • 1980年、龍谷大学講師
  • 1984年(昭和59年)4月、昭和薬科大学教授。
  • 1996年(平成8年)3月、昭和薬科大学を定年退職。
  • 2015年10月14日、死去。享年89。

邪馬壱国の主張

魏志倭人伝の写本を絶対視し、その文字を勝手に文字を変得てしまうことは間違いであると主張した。「邪馬台国」の「台」は「臺」ではなく「壹」であるから「邪馬壱国」であるという主張を「邪馬台国はなかった」(古田武彦(1977))とセンセーショナルに主張し、素人受けした。しかし文献考証の基本である「原典批判」を全く無視した議論は問題が多い。「魏志倭人伝」の古いものに12世紀の宋代に作成された版本「紹熙本」があるが、慶応義塾大学の尾崎康教授による文献考証によれば間違いが非常に多く、呉の宰相の「歩隲」を「歩隙」としたり、「司馬文王」を「司鳶文王」と記載ミスをするなどがある。よって「臺」を「壹」と間違えても不思議でないとされている。「紹熙本」以前の古い書である魏書から引用した思われる歴史書には、すべて「臺」であることから「邪馬壹国」は誤りとするのが定説である。古田氏は具体的な根拠を上げず、「紹熙本」を絶対視するところは問題がある。

第三者評価

Yahoo掲示板2013年6月6日に「古代史研究家の古田武彦さんは信用ある研究家なんでしょうか」という質問に対して以下の回答があった。

  • (回答)学界では全く相手にされてません。
  • 日本史学界は極めて開放的な場で、学歴が無かったり閥に入ってなくても相手にしてもらえますが、
  • 史料的根拠無しにコジツケで論文を書いたら無視されます。
  • ですから、彼はマトモな研究者とは見なされていません。
  • しかし、トンデモにはトンデモなりに熱烈な支持者はいますから、彼と彼の信者は学界とは別に行動しています。
  • 彼と彼の信者が書いた「論文」は、歴史屋から見たら「お笑いネタ帳」ですが、
  • 素人が読む分には面白いと思い(ます)。 Yahoo掲示板の別の質問回答2019年11月20日「古田武彦さんの著書が学者に評判が悪いのは何故ですか」に対して以下の回答があった。
  • (回答)江戸時代から邪馬壹国を邪馬台国に改竄して使っている事を、正面から否定したから
  • 単里、長里の論争不要は、他の学者も分かりそうな指摘
  • (別回答)古田説は「AだからBである。BだからCである。CだからXである。よってXである」という論証が演繹的で「全てが繋がっている」のが納得しやすい、というのだ。これは構造としてはキレイだけれど、仮にAが否定されると、その後の全てが否定されることになる。(@woody_susumu) Yahoo掲示板の別の質問回答に2021年7月8日の質問に「日古代史家 故古田武彦氏の現在の評価を教えてください。」に対して、以下の回答あり。
  • 卑弥呼比定地、後年の九州王朝説が、古田氏自身が非難する近畿説と同じ手法で導き出されている。
  • 九州王朝説は3世紀の王の国程度で小説レベル。王権レベルの遺跡は皆無。
  • 世紀の距離を積算して辻褄合わせに終始してる。漢時代の星基準の測距儀使用した前提なら長距離程正確になる。一切検討されていない。 Yahoo掲示板の2021年4月15日の質問「古田武彦さんの著作はなぜ学会から無視されているのですか。なぜトンデモ扱いされるのですか。」に対して、以下の回答あり。
  • (回答:cel*****さん)トンデモの典型的特徴を幾つか備えている。・・・トンデモ説の特徴とは、史料の『ユニーク』な解釈で自分の中でそれっぽい理屈を積み上げる、当然その「論理」の中に限れば一応辻褄はあっているが、個々のパーツを見ると、「いやぁ、それはそういう意味じゃないでしょう…」みたいなものがボロボロあり、全体の結果も「え~っ、そこまで言っちゃうの?」みたいなものになる、にもかかわらず結論がやたら断定的で、それが他の学者に受け容れられないと、そもそも「学者の目が歪んでいるのだ」、あるいは「自己の立場を守る為に、都合の悪い主張は無視しているのだ」みたいな主張をする、そういうものがあります。 Yahoo掲示板2021年2月12日の質問「古田武彦の古代史観、いわゆる古田史学(九州王朝説)の問題点を教えてください。」に対して、以下の回答あり。
  • (回答:ail****さん)相当する遺跡が九州王朝と呼ぶ規模ではない事。奈良連合政権に属さない地方豪族に分類される。

これが学会や研究者の一般的な評価であろう。古田氏に熱心な支持者がいるという意味では、「古田邪馬台国教」の宗教指導者といえるかもしれない。研究者ではなく、素人が読むには著作を面白く読めるし、分かりやすいのでそのまま信じてしまう。

安本美典との関係

ある識者の評価は以下の通りである。

  • (安本美典は)当初は古田武彦の方法論に好意的だったが、後に最も苛烈な批判者となった安本美典は、一見、論理的な古田説は細部にごまかしがあり「理系的」なのは外見だけにすぎず、その本質は詭弁的なものだと主張していた。二人の論争は、日本古代史学の歴史に残る激しいものだった。(@woody_susumu)
  • 『「邪馬壹国」はなかった 古田武彦説の崩壊』安本美典は三国志の古写本に基づき「邪馬壹国」説を主張し一大旋風を巻き起こした古田武彦の説への徹底批判の書とされる。古田・安本論争の出発点となった。

著書

  1. 古田武彦(1977)『邪馬壹国の論理―古代に真実を求めて』朝日新聞社
  2. 古田武彦(1977)『「邪馬台国」はなかった』KADOKAWA
  3. 古田武彦(1979)『失われた九州王朝』角川書店
  4. 古田武彦(1984)『古代は輝いていた 1 『風土記』にいた卑弥呼』朝日新聞社出版局
  5. 古田武彦(1985)『古代の霧の中から―出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店
  6. 古田武彦(1988)『法隆寺の中の九州王朝』朝日新聞社
  7. 古田武彦(1992)『よみがえる卑弥呼』朝日新聞
  8. 古田武彦(1998)『失われた日本―「古代史」以来の封印を解く』原書房
  9. 古田武彦(1998)『古代史の未来』明石書店
  10. 古田武彦(2002)『姥捨て伝説」はなかった』新風書房
  11. 古田武彦(2003)『まぼろしの祝詞誕生―古代史の実像を追う』新泉社
  12. 古田武彦(2003)『関東に大王あり―稲荷山鉄剣の密室』新泉社
  13. 古田武彦(2008)『奪われた国歌「君が代」』情報センター出版局
  14. 古田武彦(2011)『俾弥呼: 鬼道に事へ、見る有る者少なし』ミネルヴァ書房
  15. 古田武彦(2012)『わたしひとりの親鸞』明石書店

参考文献

  1. 安本美典(1980)『「邪馬壱国」はなかった―古田武彦説の崩壊』新人物往来社

万年好奇心少年2023年05月28日 14:31

万年好奇心少年は、本名不明であるが「古代史の散歩道 など」ブログの筆者である。誤読・誤解に基づいて、諸説を批判している。匿名のため、以下ではブログのプロフィールに「1行紹介 70代入りした万年好奇心少年です。」と書かれていることから(参考文献1)、「万年好奇心少年」と呼ばせて頂く。

「鳥越 憲三郎」批判について

  • 『「三国志」観~いびつな裁断』(参考文献2)と題して、「前提不明の断定で、用語不明瞭で学術書として大変不適当」(参考文献2)と書いているが、前提不明の断定とする根拠は示されていない。「(裴松之は)目方や山勘で補注行数を決めたのでは」ないというが、鳥越氏は「目方や山勘で補注行数を決めた」とはどこにも書いていない。書いてもいないことによって批判することは当を得ておらず、批判の根拠にはならない。「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したというのは、間違っているわけではない。裴松之の注によって、『三国志』は名著になったとする評価もあるくらいである。学術的批判であるなら、どの書の何ページに書かれているなど、最低限の書き方が必要であるが、それも欠けている。
  • (引用)『南朝劉宋時代に裴松之が補注し「三国志」が成立した」との不可解な論断に続き、「今はそれも散佚した」という趣旨が、余りに唐突で、混乱しています。写本継承の過程で異同が生じたとしても、史書「三国志」は、「散佚」せず健全に継承されたとするのが妥当な見方』(引用ここまで)(参考文献3)と万年好奇心少年は批判する。ところが原文は「宋の429年に成った『三国志』であるが、今はそれも散逸した」(鳥越(2020),p.74)である。原文通りの引用をせずに書き換えて批判するのはルールに反する。裴松之が429年(元嘉6年)に執筆し、皇帝に提出した『裴松之補注版三国志』は残されていないので、散逸したと言って間違いではない。現存する最古の『三国志』(裴松之補注版)底本は 紹興年間(1131年-1162年)の刻本であって、429年の手書き原本ではない。万年好奇心少年のいう「余りに唐突で、混乱」はまったく事実に反する。万年好奇心少年の書きぶりは、世の中を惑わす批判であり、有害無益なブログといえる。
  • 「史官裴松之の注釈が「大量」追加された時点で、はじめて「三国志」となったという解釈は、大変な見当違いです。」(参考文献3)と万年好奇心少年は書くが、鳥越氏はそのようなことは書いていないので、捏造した引用である。鳥越氏は解説の冒頭で「『三国志』は陳寿が・・・合計65巻として完成させたものである」(参考文献7,p.76)と書いているので、裴松之の注釈が書かれる前に『三国志』が成立していることは、説明している。その後半に「裴松之が数倍の分量にして補注し、それが宋の429年に成った『三国志』である」と、『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』とは区別して書いているのである。つまり補注により『三国志』が初めて作られたわけではない。さらに『原本三国志』はそもそも残されていないので、裴松之が補注を入れる前の状態は誰も確認できないのである。
  • 万年好奇心少年は「現存最古の「三国志」の最有力な巻本は、宮内庁書陵部が管理している南宋刊本ですが、第一巻から第三巻が逸失しているものの、それ以外の全巻は、健全に継承されているので、とても、散佚とは言えない」(参考文献3)と書くが、宮内庁書陵部にあるのは、「晋 陳寿、宋 裴松之註」の百衲本(紹興年間(1131年-1162年))であるから、陳寿の原本は失われている。原本にどのように書かれているかを知る方法はないという意味で、「散佚」と言って差し支えない。万年好奇心少年の主張は単なる言いがかりである。
  • 「どのような「新しい」陳寿が知らなかった史料が発見されたのか根拠不明です。むしろ、陳寿がそれらの史料を審議した上で、採用せず割愛、ゴミ箱入りにしたと見えます。実地に判断すべきなのです。」(参考文献4)と万年好奇心少年は書く。その陳寿の知らない史料とは、たとえば王粲他編『漢末英雄記』、習鑿歯著『漢晋春秋』」、『魏武故事』、虞溥著『江表伝』などが挙げられよう。「陳寿がそれらの史料を審議した上で、採用せず割愛、ゴミ箱入りにした」(参考文献4)と万年好奇心少年が書くのは根拠がない断定である。
  • 「道里記事の「水行」、「陸行」の日数、月数を、「延喜式」の旅費規定に示された旅程日数から考察して、九州北部から大和に至る道里として、おおむね妥当としています。論証不備は、素人目にも明らかで、子供じみた書き飛ばしです。」(参考文献6)と万年好奇心少年は書く。鳥越氏は説明に「延喜式」を使っているが、古代の移動のための日数の推定に「延喜式」を使うことは許されると考える(参考文献7,p.93,105)。当時は歩くか、海路を取るしか手段のない時代であるから、交通手段を定めれば、要する移動日数に大きな違いはないと考えることは可能であろう。鳥越氏は「延喜式」は論証のために出したのではなく、疑問点を解釈するために、提示しているのである。万年好奇心少年はそれを曲解して批判している。
  • 鳥越氏の記述にもいくつか問題点がある。(1)鳥越氏は三角縁神獣鏡が出土するのは、4世紀以降と書くが(参考文献7,p.133)、実際は愛知県犬山市東之宮古墳出土の三角縁三神二獣鏡(京都国立博物館蔵)は3世紀である(参考文献8)。また造営時期は3世紀後半頃と推定されている前期前方後円墳の黒塚古墳からは33面の三角縁神獣鏡が出土し(参考文献9)、これらは成分分析により中国鏡と推定されている(参考文献10)。したがって三角縁神獣鏡を否定するのは事実誤認である。(2)卑弥呼の時点では「当時はまだ古墳時代に入ってないから(墓は)方形周溝墓であったとみてよい」(参考文献3,p.138)と鳥越氏は書くが、西暦250年前後に箸墓古墳は築造されている。これはほぼ証明されている。しがって、卑弥呼の墓は前方後円墳ではないという断定はできない。『卑弥呼の墓を「前方後円墳」と勝手に決めつける一部の意見』と万年好奇心少年は書く(参考文献7)が、これも正確ではない。

大作冢

万年好奇心少年は「念のため、子供に言うような念押しをすると、「大作冢」とは、大勢が寄っての意であり、「大冢」と言う意味では「全く」ない」と書く(参考文献14)。この部分の解釈は「大勢が寄って」と人数と解釈するものではない。石原道博は「大いに冢を作る」と大規模を示唆する(参考文献11)。小南一郎は「大規模に冢が築かれた」として、サイズが大きいと示す(参考文献12)。藤堂明保は「大規模に直径百余歩の塚を作っていた」とする(参考文献13)。つまり工事に従事した人数と解釈するのは誤りで、結果として作られた冢のサイズをいうのである。万年好奇心少年のいう「盛り土は、高くもなければ、石積みしていないので堅固でもない」(参考文献14)は解釈として誤りである。

徇葬

万年好奇心少年は「狥葬者奴碑百餘人」(三国志原文)について、『字義に忠実に、「素直に」、「普通に」、「するりと」解釈する』と、「徇」とは葬儀に「従う」、つまり、葬礼に参列した者の意と解すべきと思われる』と書く(参考文献14)。この解釈は誤りであるからその理由を書く。第一に、三国志夫餘伝に「其死、夏月皆用冰。殺人徇葬、多者百數」と書かれる。はっきり「殺」と書かれている。第二に小南一郎は「奴婢百人以上が殉葬された」と解釈している(参考文献12)。石原道博は「殉死する者は奴婢百余人」と明快である(参考文献11)。藤堂明保は「殉葬した男女の奴隷は、百余人であった」と少し踏み込んでいる(参考文献13)。つまり、原文は殉葬があったとしか解釈できないのである。万年好奇心少年の解釈は誤りといえる。

万年好奇心少年による白石太一郎氏批判

万年好奇心少年は、白石太一郎氏の講演「考古学からみた邪馬台国と狗奴国」を一部引用して、批判を行っている(参考文献15)。当該講演を筆者は聞いていないので、ブログに提示された引用が正確かどうかは定かではない。また講演自体は刊行や公表もされていないので、内容を確認できない。そこで引用が正確なものと仮定して、内容に問題がないか以下に検討する。

  • 邪馬台国の所在地論争について まず「(白石氏の)専門外の文献史学に対するご指摘」(参考文献15)についてであるが、「基本的には文献史学上の問題である。ただ『魏志』倭人伝の記載には大きな限界があり、邪馬台国の所在地問題一つを取り上げても、長年の多くの研究者の努力にもかかわらず解決に至っていない」と白石氏が語ったとされる。この発言は白石氏としては不思議なものではない。その証拠に白石氏は著書で「(魏志倭人伝)史料だけでは邪馬台国の九州説と近畿説の決着がつかない」(参考文献16,p.70)と書いている。 万年好奇心少年は「文献史学による合理的で単純明快な『問題』解明が妨げられ、世人の疑惑を招いている」と書いているが、文献史学だけで言われるような合理的な解明は誰にもなされていない。故に白石氏が「問題」解明を妨げていると書くのは不当である。白石氏はむしろ考古学の助けにより、文献史学の限界を突破しようとしているのである。
  • 大型前方後円墳の出現年代 大型前方後円墳の出現年代が3世紀中葉に遡るというのは、現代の考古学研究者の過半に及ぶ共通認識となっている。したがって、白石氏の説明は誤りとは言えない。万年好奇心少年は「力まかせに無根拠の幻想を捏ね上げ、思い込みを正当化するべきではない」と書くが、この大型前方後円墳とは箸墓古墳以後の古墳をいうので、批判する場合はまずそれらが3世紀中葉ではないことを証明しなければならない。それなくして「無根拠の幻想」と書くべきではない。批判するなら、まず自分の主張が正当であることを証明しなければならない。
  • 考古学的な研究の成果にもとづき、邪馬台国と狗奴国の問題を考える 万年好奇心少年は「手前勝手などんぶり勘定」と評するが、その主張の根拠は示されていない。万年好奇心少年は考古学的研究の内容を知らずして、不合理な批判だけを声高に言っているだけである。なお白石氏の講演の論拠は白石太一郎(2013)に詳しく語られているから、そこに記載されている根拠自体に正当に反論しなければ、正当に批判したことにはならない。

参考文献

  1. 古代史の散歩道 など」ブログ、,2023-01-09参照
  2. 私の本棚 9 鳥越 憲三郎「中国正史 倭人・倭国伝全釈」増改1/5」,2023-01-09参照
  3. 私の本棚 9 鳥越 憲三郎「中国正史 倭人・倭国伝全釈増改2/5」,2023-01-09参照
  4. 私の本棚 9 鳥越 憲三郎「中国正史 倭人・倭国伝全釈増改3/5」」,2023-01-09参照
  5. 私の本棚 9 鳥越 憲三郎「中国正史 倭人・倭国伝全釈」増改4/5」,2023-01-09参照
  6. 私の本棚 9 鳥越 憲三郎「中国正史 倭人・倭国伝全釈」増改5/5」,2023-01-09参照
  7. 鳥越憲三郎(2020)『倭人・倭国伝全釈』KADOKAWA
  8. 重要文化財・三角縁三神二獣鏡,愛知県犬山市東之宮古墳出土,京都国立博物館蔵
  9. 黒塚古墳出土画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡,天理市
  10. 三角縁神獣鏡の成分分析,大阪大学
  11. 石原道博編訳(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店
  12. (訳)今鷹真,小南一郎 (1993),陳寿(原作)裴松之(補注)『正史 三国志』筑摩書房
  13. 藤堂明保,竹田晃, 影山輝國(2010)『倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本』講談社
  14. 私の本棚 9 追補 鳥越 憲三郎 「 中国正史 倭人・倭国伝全釈」+1/2 追補」ブログ、,2023-01-14参照
  15. 新・私の本棚 番外 白石 太一郎 「考古学からみた邪馬台国と狗奴国」 再掲 1/1』,2023-01-28参照
  16. 白石太一郎(2013)『古墳から見た倭国の形成と展開』敬文社