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久宝寺遺跡2023年10月22日 22:03

久宝寺遺跡(きゅうほうじいせき)は大阪府八尾市にある縄文時代晩期から弥生・古墳時代、中世、近世の集落・河川・生産遺跡を含む複合遺跡である。

概要

久宝寺遺跡は、物部氏の本拠地の一つであった可能性が高い。また南九州の隼人が居住したと記録される萱振保(八尾市萱振付近と推定)に近いことから、成川式土器は南九州から近畿への移住を示すものと推定されている。古墳時代後期から飛鳥時代の遺構は、掘立柱建物6棟・土坑7基・溝8条・小穴 158 個などで、調査地の西側で行われた第 68 次調査を含めて、古墳時代後期(6世紀)を中心とする建物群が集中している。

調査

八尾市文化財調査研究会が1998年、1999年に調査した資料のうち、古墳時代中期(5世紀)中ころの住居跡から出土した高杯・壺などの土器は形や胎土の特色から、南九州で製作した成川式土器であることが明らかにされている。古墳時代後期から飛鳥時代の遺構は、掘立柱建物6棟・土坑7基・溝8条・小穴 158 個などで、 調査地の西側で行われた第 68 次調査を含めて、古墳時代後期(6C)を中心とした建物群が集中している。 平成23年から平成26年の調査で古墳時代前期に属する水田畦畔を発見した。古墳時代前期には、この周辺で広く水田耕作を行っていたことが明らかになっている。また古墳時代前期の水田は、その後の洪水による土砂の氾濫によって堆積した厚い砂に覆われている。 発掘調査では古墳時代の準構造船や韓式系土器が出土しており、古代の運搬や交易の様子が明らかにされた。

物部氏

物部氏は古代の有力氏族の一つで、大和政権の軍事と祭司を司っていた。奈良盆地東部が本拠地であるが、海外との通行の必要性から、河内平野にも拠点を置いた。 古代にあった河内湖南岸の久宝寺遺跡付近が中河内における物部氏の本拠地と考えられる。 久宝寺遺跡には古墳時代後期の大型掘立柱建物群があり、建物の存続時期から物部氏の居館と考えられている。この時期の物部氏は全国に勢力を拡大しており、渡来人や他地域からの移住者を統括していた。 蘇我馬子などの崇仏派と物部守屋と中臣鎌子を中心とした排仏派との宗教対立があった。戦闘の際に物部守屋は「渋川の家」にいたと日本書紀に記録されるが、その場所は久宝寺遺跡とそこから近い渋川廃寺付近と考えられている。

宗教対立か

物部氏の本拠の渋川に寺の跡(渋川廃寺)が残っているため、物部氏は廃仏派ではなかったという説がある。 山本昭(1986)は、廃寺跡から出土した瓦を豊浦寺の瓦と比べると、推古11年(603)頃に当たるとた。このあたりは四天王寺領となっている土地が多いため、守屋の田や奴の一部が渋川寺建立にあてられたと推定する。つまり、山本昭(1986)は渋川廃寺を物部本家の滅亡後に建てられたと判定し、物部氏は廃仏派ではないとする根拠にはならないと考えている。

遺構

  • 堰 - 古墳時代中期頃に比定される
  • 土坑
  • 護岸施設
  • 周溝墓 - 古墳前期
  • 水田 飛鳥以前
  • 土器棺墓
  • 木製品 古墳後期
  • 石製品 古墳後期
  • 畝間溝群 弥生末から古墳初頭
  • 水路 弥生末から古墳初頭
  • 竪穴建物 古墳初
  • 方形周溝墓 古墳初
  • 堰の部材 古墳中期

出土

  • 土師器
  • 土師器(布留式など) 古墳前期
  • 古式土師器 - 古墳初頭
  • 須恵器
  • 船材 - 久宝寺遺跡の南地区で三世紀末から四世紀初めの船材が出土した。
  • 銅鏃 古墳初
  • 木製品 古墳前期
  • 鋤先 古墳中期

日本書紀 巻第廿一 用明二年 

  • (原文)秋七月、蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子・竹田皇子・廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀?夫・葛城臣烏那羅、倶率軍旅、進討大連。大伴連・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣闕名字倶率軍兵、從志紀郡到澁河家。大連、親率子弟與奴軍、築稻城而戰。於是、大連昇衣揩朴枝間、臨射如雨、其軍強盛、填家溢野。皇子等軍與群臣衆、怯弱恐怖、三却還。
  • (大意)7月、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼそうと諸皇子と群臣にはかった。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率い、志紀郡(現大阪府八尾市)から河内国(志紀郡)渋川の守屋の館へ向かった。守屋は子弟と奴軍を族を集めて稲城を築いた。物部軍は強盛で家や野にあふれた。守屋は朴の木の枝の間によじ登り、雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は恐怖に怖じ気づき、三度も退却した。

指定

なし

アクセス

  • 名称:久宝寺遺跡
  • 所在地:大阪市八尾市西久宝寺/八尾市久宝寺2丁目2-33(久宝寺小学校内・正門横)
  • 交通:近鉄「久宝寺口」駅 徒歩約10分

参考文献

  1. 文化庁(2023)『発掘された日本列島2023』共同通信社
  2. 山本昭(1986)「河内国渋川寺について」(『帝塚山考古学』No.6