物部守屋 ― 2023年07月22日 21:45
物部守屋(もののべ の もりや)は6世紀の豪族である。物部尾輿の子である。
概要
敏達・用明朝の大連であり。母方の姓により弓削守屋ともいう。
堀江棄仏事件
敏達14年3月1日、物部守屋と中臣勝海は「疫病が流行し、国民が死に絶えそうなのは、ひとえに蘇我氏が仏法を広めたことによるものに違いありません」と奏上した。皇は仏法を止めるよう詔した。30日、物部守屋は自ら寺に赴き、その塔を倒し、仏像と仏殿を焼いた。焼け残った仏像を集めて、難波の堀江に捨てさせた。佐伯造御室を遣わして蘇我馬子の供養する善信尼らを呼び集め、海石榴市で尼の法衣剥ぎとって全裸にし、尻や肩を鞭でうつ刑にした. 敏達天皇の崩後、殯宮に誄したとき、馬子と守屋は互いに相手の姿を嘲笑し、二人の間に怨恨を生じたとされる。守屋は天皇の異母弟穴穂部皇子と結び、その擁立を図った。用明が没すると穴穂部の即位を図ったが、まもなく皇子は馬子に殺された。
丁未の乱
馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍と結び、守屋の館へ向かった。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔を作り仏法の興隆を誓った。迹見赤檮は大木に登っている守屋を射殺し、寄せ手は攻めかかり、守屋の軍は敗北した。 乱の後、奴のなかばと宅地とを分けて四天王寺に施入した。
物部系図
- 饒速日命-・・・物部贍咋-物部五十琴-物部伊筥弗-物部目-物部荒山-物部尾輿-物部守屋-
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
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