末盧国 ― 2023年09月17日 11:24
末盧国(まつろこく/まつらこく)は、『魏志倭人伝』に記載された3世紀中頃の国のひとつである。佐賀県唐津地域にあったとみられる弥生時代の国である。
概要
西谷正(2009)は末盧国は現在の旧唐津市から東松浦郡の範囲(現在の唐津市)であるとする。倭人伝に「濱山海居」と書かれるので海沿いの立地で、山が近くにある。古代の地形を復元すると、現在より海が入り込み、周辺に沼地があり、葦が茂っていた。集落は南にも広がる。最も古い遺跡は菜畑遺跡である。 末盧国は律令制の時代の肥前国松浦郡である。「松浦半島」「松浦郡」などの地名が残る。奴国に比べると戸数は少ない。古代には海が平地に入り込み、沼地が広がり、葦が茂っていた。最古の稲作遺跡の菜畑遺跡がある。 中原遺跡からは3世紀の方形周溝墓群から後漢鏡や素環頭太刀など漢式遺物が発見されているため、末盧国の王墓と考えられている。現在は広い水田が見られるが、古代は海と山に挟まれた狭隘な土地が生活圏であったと判明している。古代の金海と同様である。
比定場所
現在の佐賀県の唐津平野(唐津市周辺)である。末盧国は現在の佐賀県唐津市の菜畑遺跡あたりとみてよいであろう。
王墓と国邑
西谷正(2009)は末盧国の王墓は桜馬場遺跡であるとする。大型の方格規矩四神鏡や巴形銅器、ガラス小玉が出土している。また中原遺跡も別の時代の王墓であったとする。
魏使は上陸したか
鳥越氏は「朝鮮半島から最初に上陸するところは末盧国」とする(鳥越憲三郎(2020),p.85)。 しかし奥野氏は郡使は一度も上陸せず郡の大船で伊都国まで来たと主張する(奥野(1989))。 理由を陸行500里は単に経路を記しただけで、実際に郡使がそこを歩いたとは限らないと指摘する。 しかし、伊都国まで東南に陸行したと読めること、末盧国の狭隘な土地を見事に表現していることから、上陸した可能性はあるのではなかろうか。
魏志倭人伝原文
- (原文)又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之
- 大意
- (壱岐国から)海を千余里渡ると 末盧国につく。戸数は4000戸あまりである。山と海岸の間に住む。草木が茂り、歩くと前が見えない、水深が浅い深いに関わらず、みな潜って魚を獲る。
遺跡
- 桜馬場遺跡
- 菜畑遺跡
- 梅白遺跡
- 宇木汲田遺跡
- 柏崎遺跡
- 千々賀遺跡
- 中原遺跡
- 田島遺跡
展示施設
- 唐津市末盧館
参考文献
- 鳥越憲三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA
- 奥野正男(1989)『邪馬台国発掘』PHP研究所
- 石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
- 西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/09/17/9618377/tb
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。