観音松古墳 ― 2026年08月19日 00:07
観音松古墳(かんのんまつこふん)は神奈川県横浜市港北区にかつて所在した古墳時代前期後半(4世紀後半頃)の前方後円墳である。
概要
慶応義塾大学矢上キャンパスのある矢上台と呼ばれる台地の東端部に所在した前方後円墳である。 現在は横浜市立矢上小学校の敷地となっている。。 1938年、土取り工事に伴って発掘調査が行われ、後円部から2基の埋葬施設が確認された。当時の詳細な調査記録は長く十分に公開されなかったが、その後、慶應義塾大学に保管されていた写真や図面などが再発見され、墳丘や主体部の再検討が進められた。
古墳の規模
従来は墳丘長72m~90m程度と考えられていたが、安藤広道(2009)は、1941年の地形図や新たに確認された写真・図面などを再検討し、墳丘長を「約100m」あるいは「約101m」、後円部径約55m、後円部高さ10m、前方部長45m、前方部高さ5mの大型前方後円墳に復元した。 安藤は復元墳丘から盛土量を推計し、1万m3を大きく超える規模になるとしている。
それまで、清水潤三(1955)は長径86mとし、その後、甘粕健・和島誠一(1958)「古墳時代」は長径90mと記載した。甘粕健・久保哲三(1966)では墳丘長72mと数字を訂正した。
後円部には主軸とほぼ平行して2基の埋葬施設が設けられていた。いずれも粘土槨で、中央に位置する主体部が規模・構造ともに優れ、主要な埋葬施設と考えられている。 副葬品として内行花文鏡(長宜子孫)、銅鏃、鉄刀、鉄斧、ヒスイ製勾玉・碧玉製管玉・ガラス小玉、硬玉算盤玉などの玉類、紡錘車形石製品などが出土している。
埴輪は確認されていない。
古墳は1938年の土取り工事によって墳丘は大きく破壊されたが、その後も墳丘の一部が残存していた。安藤広道は、1941年の地形図や写真などを検討し、最終的に1970年前後に完全に削平されたと推定している。
調査
遺構
- 前方後円墳
遺物
- 内行花文鏡
- 袋状鉄斧
- 鉄刀
- 銅製の矢じり(銅鏃)
- 硬玉製勾玉
- ヒスイ製勾玉
- 碧玉製管玉、
築造時期
- 安藤広道(2009)は観音松古墳の築造時期を古墳時代前期後葉から末葉とした。
被葬者
展示
アクセス等
- 名称:観音松古墳
- 所在地 :神奈川県横浜市港北区日吉町下の町/日吉3丁目14
- 交 通 :
参考文献
- 赤星直忠(1979)「観音松古墳」『神奈川県史』資料編20 考古資料
- 甘粕健・久保哲三(1966)『日本の考古学Ⅳ』河出書房新社
- 安藤広道(2009)「観音松古墳の研究1」三田史学会
- 清水潤三(1955)「日吉における考古学研究史」Arceology21号
- 甘粕健・和島誠一(1958)「古墳時代」『横浜市史』1
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