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日本書紀での卑弥呼問題2026年08月10日 00:11

日本書紀での卑弥呼問題(にほんしょきでのひみこもんだい)は日本書紀に卑弥呼が書かれているかどうかの問題である。

概要

『日本書紀』本文には『卑弥呼』という名(文字)は現れないが、神功皇后紀には『魏志』から引用された卑弥呼に対応する記事が存在する。すなわち、

  • ①『日本書紀』は『魏志』を引用している。
  • ②引用中で『日本書紀』は「景初三年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣わす」と記す。
  • ③『魏志』の被引用部分には「親魏倭王卑弥呼」と書かれている。
  • ④したがって『日本書紀』記載の「倭の女王」は卑弥呼と理解できる。

という構造である。

文献の確認

『日本書紀』巻第九 神功三十九年条に「『魏志』に曰く、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣はして、郡に至りて、天子に語らむことを求めて朝献す」と書かれている。ここには「卑弥呼」とは書かれていない。 対応する『魏志倭人伝』には「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし、郡に詣らしめ、天子に詣りて朝献せんことを求む。」「其の年十二月、詔書して倭の女王に報て曰く、親魏倭王卑弥呼に制詔す」と記す。つまり、『日本書紀』は「卑弥呼=神功皇后と明記」している訳ではないが、倭の女王は卑弥呼以外では考えられない。 なお、『日本書紀』は『魏志』を引用しつつも、景初三年・難斗米という異なる表記を伝えている。景初三年と景初二年の問題は本サイト別記事の「景初二年・景初三年問題」で詳しく説明している。難斗米については、後半で説明する。なお『日本書紀』編纂時に参照された『魏志』が、現在伝わる『魏志倭人伝』と同一の本文であったとは限らず、異本・異伝の存在を想定する余地がある点を指摘しておく。

『日本書紀』が直接「卑弥呼」と書かない理由

なぜ「卑弥呼」を書かなかったのか、理由を推察する。論点がいくつかある。

神功皇后のモデルとした可能性

『日本書紀』の神功皇后の巻(条)の注釈に、中国の『魏志倭人伝』の記述が引用されており、編者たちは神功皇后を3世紀の巫女的な女王・卑弥呼と同一人物、あるいは神功皇后のモデルとして意識していた可能性が指摘されている(若井敏明(2014))。

伝承がなかった可能性

  • ①3世紀の有力首長でも人物伝承が残っていない例がある
    • 『日本書紀』の編纂時(8世紀初頭)には、3世紀の倭国の出来事について、国内にどの程度の伝承が残されていたかは明らかではない。3世紀後半頃の大型前方後円墳である桜井茶臼山古墳は、大量の銅鏡などの副葬品や墳丘規模から大王級の首長墓と評価されることがあるが、被葬者の個人名や具体的な人物伝承は『日本書紀』に伝わっていない。このことからも、3世紀の有力首長であっても、後世まで8世紀の『日本書紀』編纂時まで個人名や事績が伝承されなかった可能性があるため、『日本書紀』『古事記』に書かれなかったことは想定できる。
  • ②卑弥呼についても、国内に個人名・事績の伝承が残っていなかった可能性は否定できない。
    • 卑弥呼の事績や個人名は文字のない期間があった中では、400年もの間に世代が変わり、人々の記憶や伝承として残らなくとも不思議ではない。3世紀当時に倭国で広く知られた人物であったとしても、国内の人物伝承が後世に残っていなかった可能性は考えられる。ただし、実際に卑弥呼の国内伝承が存在しなかったことを直接証明する史料はなく、あくまで可能性の一つである。
  • ③『日本書紀』編纂時に、国内伝承として卑弥呼を記載できなかった可能性がある
    • 『日本書紀』の編纂時(8世紀初頭)には、すでに倭国国内の古い伝承と中国の3世紀の記録との間で年代観や事実関係が大きく乖離しており、そのまま正史に組み込むことが全体の統一性の観点から、記載が難しかったことは想定できる。
  • ④『魏志』には卑弥呼の記事が写本として残っていたため、日本書紀編者はそれを神功皇后紀に引用できた。
    • 『日本書紀』神功皇后紀には『魏志』の記事が引用されており、編纂者が中国史書に記された卑弥呼とその外交記事を認識していたことは確認できる。

政治的理由

『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼は魏に使者を送り、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号と金印紫綬を受けた。これは中国皇帝との君臣関係、すなわち冊封関係に入ったことを意味する。冊封体制論を提唱した西嶋定生によれば、冊封とは中国皇帝が周辺諸国の君主に王・侯などの爵位を授け、その統治者としての地位を公認するとともに、君臣関係を成立させる制度であった。

したがって、卑弥呼が魏から冊封を受けたという事実は、後世の日本から見れば、倭国の女王が中国皇帝の権威の下でその地位を公認されたことを意味する。律令国家として独自の皇統と国家秩序を形成した8世紀の日本にとって、このような中国皇帝との君臣関係を自国の正史で強調することは、国家の独立性や天皇の権威を示す『日本書紀』の歴史叙述とは緊張関係(齟齬)を生じる可能性がある。

ただし、これを理由として『日本書紀』が意図的に卑弥呼を歴史から削除したと断定するわけではない。『日本書紀』は卑弥呼の名を直接記さない一方、神功皇后紀に『魏志』の卑弥呼関連記事を引用しているため、卑弥呼の存在そのものを隠したとは言い切れない。むしろ、卑弥呼に関する中国側の記録を認識しながら、それを神功皇后紀の年代に組み込んだこと自体が、『日本書紀』編纂者の歴史認識を考える重要な問題となる。

万世一系との矛盾

「卑弥呼」を登場させると「万世一系」という基本骨格の物語と矛盾を来すので、大和朝廷による日本支配を正当化できなくなると考えたという推測も成り立つ。 『日本書紀』は神武天皇以来の皇統を「一系として」連続的に叙述する構成をとっているため、卑弥呼を独立した倭王として位置づけることには、皇統中心の歴史叙述との矛盾が生じ、調整が必要だったと考えられる。中国の史書(魏志倭人伝)に「3世紀の倭国に卑弥呼という独立した女王が倭国を統治していた」と書かれているため、そのまま引用すると大和朝廷による「神武天皇から一系の血筋で日本を統治してきた」という万世一系の骨格となる物語が崩れてしまうからである。 中国の思想(辛酉革命説)に基づいて紀元前660年を初代・神武天皇の即位年に大幅に引き延ばしたため、卑弥呼の生きた3世紀は、大和朝廷の歴史では「第10代・崇神天皇」や「第14代・仲哀天皇」の時代に相当することになる。

朝鮮半島への優位性誇示

『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼は魏に朝貢し、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号を受けた。これは倭王が中国皇帝との冊封関係に入り、その権威によって王としての地位を公認されたことを意味する。

これに対して、『日本書紀』の神功皇后紀では、神功皇后が新羅を征討し、百済・高句麗を含む朝鮮半島諸国との関係において倭が優位に立つという物語が構成されている。これらの征討・服属記事については、仁藤敦史(2024)の研究などから、4世紀の倭による朝鮮半島支配の史実を記録したものとは認めがたく、『日本書紀』において構成された虚構の対外関係物語と考えられている。

このような朝鮮半島に対する優位性の主張は、神功皇后紀に限られない。5世紀の倭の五王による中国南朝への遣使でも確認できる。『宋書』倭国伝に収められた倭王武の上表文では、倭王の祖先が東方の毛人、西方の衆夷を征服し、さらに「海北」を平定したと主張している。この「海北」は一般に朝鮮半島方面を指すと理解され、倭王が中国皇帝に対して朝鮮半島方面への軍事的支配を主張していたことを示している。

このように、3世紀の卑弥呼が魏から冊封を受けたという記憶とは対照的に、後世の倭王権の対外関係を記す史料では、倭が朝鮮半島に対して軍事的・政治的に優位に立つという主張が繰り返し現れる。『日本書紀』における神功皇后の征討・服属記事も、このような倭王権の対外的優位性を強調する歴史認識の中で理解することができる。

ただし、倭王武の上表文における征服範囲の主張も、そのまま実際の領域支配を意味すると断定することはできない。中国皇帝への上表における外交的・政治的主張としての側面を考慮する必要がある。

  • ① 神功皇后の対外征討記事が史実か
    • 仁藤敦の研究によって、従来の「4世紀の倭による任那支配」の歴史的根拠として使うことには大きな問題がある。
  • ②『日本書紀』の神功紀の対外的な征討・服属という虚構的な歴史叙述が構成されているか
    • これは「虚構の物語」「伝承・歴史叙述として構成されたもの」と評価してよい。
  • ③なぜその虚構を作ったのか
    • 神功皇后を強大な対外征服者として描くことは、朝鮮半島に対する優位性を誇示する目的があったとみられる。証拠として倭の五王が朝鮮半島に対する支配権を度々要求している事実がある。

難升米について

『日本書紀』では『魏志』での難升米を難斗米と表記する。「升」と「斗」の漢字の形が手書きの楷書や行書、あるいは文字が潰れた古い写本と酷似していることによるとする「誤写説」は最有力である。

『日本書紀』の編纂者が参照した『三国志(魏志)』のテキスト、あるいは後世に『日本書紀』を書き写した人物が、「升」という文字を「斗」と見間違えてそのまま記録してしまった可能性が想定できる。

次に「大和言葉(訓読み)」の音(おん)への適合説がある。言語的なアプローチでは『魏志倭人伝』の「難升米」は、大和言葉で「なしめ」と読まれていたと推測され、「なしめ」から「なとめ」へ変化したとの推測説がある。

「難升米=田道間守」説

内藤湖南(1969)は「難升米」を田道間守(たじまもり)とする。田道間守は日本神話(『古事記』や『日本書紀』)に登場する伝説的人物で、垂仁天皇の命を受け、不老長寿の果実とされる「非時香菓(のちに橘(たちばな)の実といわれる)」を求めて「常世国(とこよのくに)」へ遣わされた。橘良平の「日本紀元考概略」で「難升米は田道間守が訛ったものである」としたことを内藤湖南(1969)は「從ふべし」とし、「使者の境遇は略ぼ相似たり」としている。 しかし「なしめ」と「たじま」とでは音の関連性が薄い。

参考文献

  1. 石原道博編(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店
  2. 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 内藤湖南(1969)「卑彌呼考」『内藤湖南全集 第七巻』筑摩書房
  4. 仁藤敦(2024)『加耶/任那―古代朝鮮に倭の拠点はあったか』中央公論新社
  5. 若井敏明(2014)「神功皇后説 同一人物説を唱えた『日本書紀』の編者たち」歴史読本59号7巻