韓半島南部の倭(その2) ― 2024年05月15日 00:04
韓半島南部の倭(その2)(かんはんとうなんぶのわ)は3世紀の朝鮮半島南部に倭があったという説の疑問点その2である。
問題提起
古代(3世紀)の韓半島に倭の領域があったとする説が出されている。倭の領域があったということは倭人が大量に住んでいたということでなければ、意味をなさない。仮にそこに10人程度が住んでいたとしても、倭という領域があったとは言えない。 1000人以上、あるいは1万人という規模でなければ、「倭の領域があった」とはいえないであろう。では、そういえるだけの証拠はあるのだろうか。
仮説の提示
古代(3世紀)の韓半島に倭人が1000人以上居住しており、一定の政治力があった。
仮説への反論
上記仮説は検証されていないが、これに対して有力な反論がいくつか考えられる。これらをすべて明快にクリアしなければ、仮説は採用されない。
'(1)なぜ『魏志倭人伝』はスルーしているのか。'
古代(3世紀)の韓半島に倭の領域があったなら、『魏志倭人伝』はなぜ対馬から始まるのだろうかという疑問がある。韓半島に倭人が大量に住んでいたなら、そこから記述を始めるはずだが、『魏志倭人伝』は何も書かず完全にスルーしている。 つまり、韓半島に倭の領域がなかったから書かなかったと推察できる。
(2)場所はどこなのか
倭の領域があったというなら、いったいどこがそうだというのか。 「倭の領域があった」と主張する論者は、そこを曖昧にして皆逃げている。 場所を探るため『魏志倭人伝』記載の「倭と接する」と書かれるところを検証すると、 『魏志韓伝』の弁辰条に「弁辰、與辰韓雜居。其瀆盧國、與倭接界」と書かれる。すなわち弁辰の瀆盧が倭と境を接するとの記述がめにつく。また「南は倭と接す」と合わせれば、瀆盧の南に倭の領域があったと解釈できる。 弁辰は12国と12の諸小別邑があると書かれる。すなわち有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁樂奴國、軍彌國、弁軍彌國、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國、馬延國、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國、馬延國、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國の24ヵ国である。 それでは、瀆盧國とはどこかといえば、図1の『韓国古代地図』が参考となる。 瀆盧は現在の釜山あたりである。もちろん付近に「倭」は書かれない。 瀆盧の西は弁辰狗邪國(狗邪韓国)すなわち後の金官国である。 東は新羅なので斯盧國である。『魏志韓伝』に「南は倭と接する」とあるが、瀆盧國の南は海であり、対岸には倭の対馬がある。つまり、接する相手は対馬であるとしか思えない。
(3)「接する」という意味
『魏志韓伝』に「南は倭と接する」と書かれており、これを韓半島に倭地があった証拠と考える向きもある。しかしこの「接する」の意味は間に別の国がないという意味である。つまり「韓」と「倭」の間には(狭い海峡を挟んでいるだけで)「他の国」 が挟まっていないという意味である。「陸続き」とは書かれていない。 「接する」の事例では「魏志」に国と国の間に山があっても、「接する」という用語が使用されている例がある。 たとえば、『魏志高句麗伝』に「東沃沮、在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。其地形東北狹、西南長、可千里。北與挹婁夫餘、南與濊貊接。」と書かれている。 ここでは、「高句麗」は「東沃沮」と接していると書かれるが、実際は蓋馬大山(長白山脈)があるため、平地での地続きではない。1000mから2000m級の山である。 高い山を挟んで(容易に行けないところを)「接する」と表現するなら、海を挟んでも「接する」と表現することは十分ありえる。
(4)考古学的証拠はあるか
半島南部に「倭」の集団がいたとするなら、それなりの考古学的証拠がなければならないが、そのような証拠は見当たらない。散発的に、倭の文物がでるといっても、それだけでは証拠にはならない。倭の文物は持ち運びができるからであり、韓人が倭に行って持ち帰ったことも考えられる。考古学的証拠とは、倭式の多数の人数の住居跡(唐古・鍵遺跡のような)や大量に倭の縄文土器や倭式の弥生土器が出るとか、そのような証拠である。
- 参考
- 「半島南部の倭」も参照されたい。
参考文献
- 井上秀雄(2004)『古代朝鮮』講談社
- 山尾幸久(1986)『新版 魏志倭人伝』講談社
- 佐藤信編(2023)『古代史講義 海外交流編』
- 藤堂明保・竹田晃他(2017)『倭国伝』講談社
- 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店
- 韓国教員大学歴史教育科, 吉田光男訳(2006)『韓国歴史地図』平凡社
貫頭衣 ― 2024年05月10日 00:04

貫頭衣(かんとうい)は弥生時代から古墳時代の倭人の衣服のひとつである。
概要
『魏志倭人伝』原文では「婦人被髮屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。」(読み下し:婦人は被髪屈紒し、衣を作ること単被の如く、其の中央を穿ち、頭を貫きて之を衣る)と書かれる。袈裟衣と対比される。 身体の体部ほどの長く幅広い布を中央で折り、折り目の中央に穴をうがち、頭を挿入し、前後に垂らす。
考古学からの見解
佐原真(1997)は弥生時代の織機の部品のサイズから弥生時代の布は30cmから40cmの幅が限度であるという。とすれば、1枚の布から作れる貫頭衣は幼児用しか作れない。大人のサイズの貫頭衣を作ろうとすると、70cmから80cmは必要となると述べる。竹田佐知子の方法を紹介し、体の前になる部分の左半分を先に体に付け、右半分を後ろから重ねる方法を提案した。魏志倭人伝に男は横幅衣、女は貫頭衣とされているが、布の取り方と衣の使い方が違うだけでどちらも同じ物であるという。『三国史』五三巻呉書にその使い方を見いだした。
後藤守一
後藤守一が『魏志倭人伝』の記述から命名した。後藤守一(1955)は埴輪の人物の衣服も これから発達したとする。労働着、齋服、祭服になり、近世まで民間で行われたと述べた。
猪熊兼繁
猪熊兼繁は「貫頭衣」は横幅の布の中央に経に沿って緯を一直線に裁断したものではないか、とする。伝香川県出土袈裟襷絵画文銅鐸の男の裏姿の衣服の背筋に一直線がみえるので、見頃二枚を合わせた横幅衣にみえるとする。三人の女性は前と後ろに三角形が見えるので、同様の「貫頭衣」になるとする(『邪馬台国研究総覧』)。
鳥越憲三郎
鳥越憲三郎(2020)は「貫頭衣は我が国古代女性が着用した上衣である」とし、「中国南部、東南アジアに関する中国の史書に記されている」。作り方は「小幅の布2枚を頭と腕の部分を残して縫い合わせ、下に腰巻きを付ける。現在も貫頭衣を着用するのは中国では雲南省のワ族、タイ・ミャンマーではカレン族である」とする。海南島の黎族は貫頭衣を着用し、稲を植えるという。
参考文献
- 石原道博(1951)『新訂 魏志倭人伝』岩波書店
- 藤堂明保(2010)『倭国伝』講談社
- 佐原真(1997)『魏志倭人伝の考古学』歴史民俗博物館振興会
- 三品彰英(1970)『邪馬台国研究総覧』創元社
- 後藤守一(1955)『衣服の歴史』河出書房
- 鳥越憲三郎(2020)『倭人・倭国伝全釈』角川書店
籩豆 ― 2024年05月01日 08:42
籩豆(へんとう)は高坏の意味である。
概要
魏志倭人伝に「食飲用籩豆 手食」「すなわち飲食には籩豆を用い、手で食べると記述する。 『漢辞海』によれば、「籩」(へん)は食物を盛るために竹を細かく編んだ容器、祭祀や宴会に用いたとされる。「豆」(とう、ず)はたかつき、食器、祭礼器としても用いた。「籩豆」で木、竹や土器でできた高坏を表す。 高坏の材質は土、木、竹、ガラス、金属などがある。
文献
論語に「籩豆之事、則有司存(包曰子忽大務小、故又戒之以此。籩豆、禮器)」と書かれる。 金泰虎(2007)は「籩豆とは,中国で祭祀・宴会に用いる器で,籩は竹製で果実類,豆は木製で魚介・禽獣の肉を盛る」とする。つまり、籩と豆は素材と盛り付けるものが異なる。
考察
木製の高坏は唐古・鍵遺跡、青谷上寺地遺跡で出土している。
参考例
- 高坏 - 唐古・鍵遺跡、奈良県磯城郡田原本町、木製蓋付高杯、弥生時代
- 高坏 - 青谷上寺地遺跡、花弁文様高坏、弥生時代
- 土器高坏 - 東野遺跡、岐阜県加茂郡坂祝町黒岩・大針、弥生時代後期
参考文献
- 佐藤進・濱口富士雄(2011)『漢辞海』三省堂
- 金泰虎(2007)「日韓の食事作法」言語と文化 11 pp.99-116
- 門田誠一(2018)「魏志倭人伝の籩豆をめぐる史的環境」佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 14,pp. 1-21
半島南部の倭 ― 2024年04月29日 00:23
半島南部の倭(はんとうなんぶのわ)は3世紀の朝鮮半島南部に倭があったという説である。
概要
半島南部の倭を図で描く井上説を紹介する。 井上秀雄(2004)は「東夷伝による諸民族の地理的位置」(p.64)として、半島南部に倭の領域を描いている(図1:左図)。図の理由となる史料を以下に求めている。
- 魏志韓伝(馬韓)「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接」(韓は帯方郡の南あり、東西は海で、南は倭に接する)
- 魏志韓伝(弁辰)「其瀆盧国與倭接界」(弁辰の瀆盧国は倭と界を接する)
- 魏志倭人伝「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里。始度一海千餘里、至對馬國」(帯方郡から倭国に行くには、海岸沿いに韓を南に東に進み、北岸の狗邪韓國まで7千里、海を渡り対馬国に至る)
つまり韓の南は倭に接し、弁辰の中の瀆盧国は倭に接していると記述されている。 しかし井上は『三国史』の記述を分かりやすく図に示しただけであり、井上秀雄(2004)自身が主張する図ではない。「接する」とは必ずしも地続きを意味するわけではない。 井上秀雄(2004)は「『百済本紀』の記事を読めば分かるように、任那日本府と大和朝廷とは何の関係もない」(p.107)「『百済記』では近肖古王から始まる任那諸国との国交を大和朝廷との国交にすりかえた。『百済記』のように史実をかえて政治的意図に迎合する歴史書」(p.109)と書いている。つまり井上は半島南部に倭の政治的な領域があったとは断定していないのである。任那日本府を大和朝廷の機関であったという説も否定している。
魏志倭人伝
山尾幸久(1986)は「断片的な記載を根拠に「3世紀後半の中国の史官は朝鮮半島南部を「倭」と称していたとまで言って良いかとなると、私ははっきり否と答えざるを得ない」(p.19)と否定的である。「(南部朝鮮=倭とするのは)史料の拡張解釈である」(p.20)とする。山尾による3世紀の朝鮮半島南部の勢力図を図2に示す。
魏志韓伝
『三国史』中で倭人伝以外での「倭」の登場個所を調べる。
三國志卷四/魏書四/三少帝紀第四
- 正始四年春正月帝加元服、賜羣臣各有差。
- 冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻。
三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十
- 韓、在帶方之南。東西以海爲限、南與倭接。
- 桓靈之末、韓濊彊盛。郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康、分屯有縣以南荒地、爲帶方郡。遣公孫模張敞等、收集遺民、興兵伐韓濊。舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。
- 弁辰、亦十二國。(略)國出鐵。韓、濊、倭皆從取之。(略)今辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身。
- 弁辰、與辰韓雜居。其瀆盧國、與倭接界。
この中で韓は南で倭と接する、瀆盧國は倭と接すると書かれる。この「接する」の解釈 難しい。倭と韓が地続きという解釈と倭と韓とは海を隔て界を接するという解釈である。 『韓国歴史地図(日本語版)』(韓国教員大学歴史教育科)によれば、弁辰瀆盧國は現在の釜山に位置する。釜山の対岸に対馬があるから、まさに界を接しているといえる。倭の北岸に狗邪韓国があると書かれるから、この倭は対馬(から列島にかけて)を指していることが分かる。
三国史記
『三国史記」新羅本紀(295年春条)に「海に浮かび、入りてその国(倭)を撃たんと欲す」と書かれる。つまりこの時点で、海の向こうに倭国があるという認識があるので、倭国が半島の南にあったら海は渡らない。新唐書百済伝に「西界越州。南倭、北高麗。皆踰海之至」と書かれる。百済の南に倭があるが、海を越えると書かれる。ただし百済と高句麗の間に海はないと思われる。
任那日本府
任那日本府が倭国の代表的な現地の政治的な組織であったとするのは誤解である。佐藤信編(2023)は「任那日本府は「在安羅諸倭臣」であり、倭国の使節団を指すというのが有力な見解となっている。それを何らかの機関であったと主張するのは問題であった」(P.79)「特定の問題のために派遣された使節団であった」「倭国から派遣された使節団は安羅に居住する倭系安羅人たちに主導されて、安羅国に意向に沿って、百済を詰問したり、新羅と通行したりした」(P.81)とされる。すなわち任那日本府は恒常的な政治的統治機構ではなかったというのが実態とされている。佐藤信編(2023)による3世紀の中国と朝鮮半島南部の勢力図を図3に示す。
半島南部「倭」説への反論
- 半島南部に「倭」の集団がいたとするなら、『魏志倭人伝』の倭人の記述がなぜ対馬から始まるのであろうか。半島南部に「倭」がいたなら、そこから記述を始めることになるはずである。合理的に説明できないのではないか。
- 半島南部に「倭」の集団がいたとするなら、考古学的証拠がなければならないが、そのような証拠は見当たらない。
考察
「南部朝鮮=倭」という説は史料上の根拠がない空説といえる。井上秀雄(2004)はそのような主張をしていないが、不用意な図(「東夷伝による諸民族の地理的位置」(p.64))が誤解を与えている。南部朝鮮に倭がいたという主張は、「任那日本府」という幻想につながる。倭から来た倭人が侵攻などで一時的に滞在したことはありえるが、政治権力や支配権をもった勢力ではなかった。なお百済王権に倭系官人・武人が勤務していたことはあるが、南部朝鮮の政治勢力ではなかった。 当時の正しい南部朝鮮の勢力図は藤堂明保・竹田晃他(2017)のp.24に掲載されている図(図4)である。そこには当然ながら南部朝鮮に「倭」の勢力は描かれていない。
参考文献
- 井上秀雄(2004)『古代朝鮮』講談社
- 山尾幸久(1986)『新版 魏志倭人伝』講談社
- 佐藤信編(2023)『古代史講義 海外交流編』
- 藤堂明保・竹田晃他(2017)『倭国伝』講談社
- 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店
- 韓国教員大学歴史教育科, 吉田光男(訳)『韓国歴史地図』平凡社
木緜 ― 2024年04月28日 00:07
木緜(ゆう)は樹皮をはいで水にさらしたり蒸したりして繊維状にし糸を織って布にしたものである。
概要
木綿(もめん)とは異なる。木綿は15,16世紀に日本にもたらされたもので、3世紀にはまだない(石川欣造(1998))。楮(コウゾ)や梶(カジ)などの樹皮を剥がし、水にさらしたり蒸したり、細かく裂いて糸にしたものとされる。その糸で布を作る。佐原真(1997)は布の鉢巻きでは無く、繊維状の糸を頭にまいていたとする。
魏志倭人伝
『魏志倭人伝』に「其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連 略無縫」と書かれる。大意は、風俗は淫らでは無く、男子の髪はみなみずらである。木緜を頭にかける。鳥越(2020)は「木緜は木綿に同じ」(p.111)としているが、いわゆる木綿とは同じではないので、誤りである。招頭とは鉢巻きにするという意味である。
吉野ヶ里遺跡の木緜
吉野ヶ里遺跡SJ0367 甕棺墓から、毛髪様のものから毛髄質が確認され、7層の層状構造の各層が毛小皮を形成する小皮に一致し、内部に小皮細胞特有の層構造がみられ、さらに髄示数(0.20~0.30 前後)、空胞の配列(一列に長軸方向)などからヒトの頭毛であろうと推測された。頭毛の束に付着していた紐状のものはパルプの繊維に似ていることから木緜と考えられている。『魏志倭人伝』の記述が裏付けられたといえる。
考察
木綿の布を鉢巻きにしたとの誤解もあるが、実際はゴワゴワした硬めの糸で織った布を巻いていたのであろうか。ターバン状にして頭に巻いたものは、梁職貢図に現れる。倭の使者は、頭に布を巻いており、上衣をはおり、腰に布を巻き、手甲に脚絆だが裸足である。鬚が濃く腰回りはたくましく、リアリティがある。
参考例
- 木綿 - 森本遺跡、京都府向日市、弥生時代
参考文献
- 佐原真(1997)『魏志倭人伝の考古学』歴史民族博物館振興会
- 鳥越憲三郎(2020)『倭人・倭国伝全釈』角川書店
- 石川欣造(1998)『第三訂版 繊維』 東京電機大学出版局1-4
- 奥山誠義(2017)「考古資料からみた植物性繊維の利用実態の解明」作物研究62:pp.57-63
- 塩田 泰弘(2023)『「魏志倭人伝」を考える ―髪型と衣服形態についてー』季刊『古代史ネット』10号
横幅 ― 2024年04月16日 00:57
横幅(よこはば)は『魏志倭人伝』に書かれる倭国の男子の服装である。
概要
『魏志倭人伝』の記述に男子の服装が書かれる、すなわち「男子は皆露、木緜を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし」(男子皆露紛、以木県招頭、其衣横幅、但結束相連、略無)とされる。男子は冠や頭巾をつけることなく、木綿で鉢巻きをして。衣は横幅で、結んだだけで連結し、裁縫はほぼしない、とされている。 『古事記』、『日本書紀』には同様の記述はないから、弥生時代に独特の服装であろう。
横幅の解釈
大林太良(1977)によれば、2通りの解釈がされている。一つは長い布を腰巻きとして使う方法である。倭国の使節の姿に梁代(6世紀)の「職貢図巻」に描かれている。すなわち横に長い布を肩掛けから、腹のあたりまで巻き付け、腰付近でくくり合わせるものである。百済の使節とはかなり異なり、貧弱な服装になっている。『晋書』卷九十七・林邑伝に「女嫁之時,著迦盤衣,橫幅合縫如井欄,首戴寶花」と書かれる。林邑とはベトナム中部から南部でチャム人が2世紀末に建設した国家をいう。『隋書』卷八十二列傳第四十七 南蠻林邑伝に「俗皆徒跣,以幅布纏身」(風俗は皆裸足で、横幅に衣服をまとう)と書かれる。 二番目の解釈では肩から掛けた布をさすという。三品彰英は袈裟式の服装と解釈した。斎藤忠も同様の解釈である。サリーはインド・ネパール・スリランカ・バングラデシュ・パキスタンにおいて、細長い布を様々なスタイルで体を包み込んで使用する。
考察
どちらの解釈によっても、横に長い布を身にまとう衣服であり、これは東南アジアで広く見られる衣装である。南アジアから東南アジアにかけて広く分布している腰巻文化圏がある。名称はサロン,サルン(マレーシア,インドネシア),シン(ラオス),ルンギー(インド,バングラデシュ)、ロンジー(ミャンマー)があるが、いずれも布を腰巻きとして使用する。 現代でも、インドネシアでは輪にした布を衣料に用い,裁断や縫製をしないまま身体を包む布として使う。とすれば、魏志倭人伝に記述される服装は東南アジア系統の服装なのだろうか。そうだとすると、どのような経路を渡ってきたのであろうか。
参考文献
- 三品彰英(1971)『神話と文化史』平凡社
- 斎藤忠(1958)『日本全史1 原始』東京大学出版会
- 吉本忍(2005)『アジアにおける「包むJ文化』日本衣服学会誌 Vol.49 No.l
- 大林太良(1977)『邪馬台国』中央公論社
丸木弓 ― 2024年04月14日 00:18
丸木弓(まるきゆみ)は古代日本の石器時代から古墳時代まで使われた原始的な弓である。
概要
単体弓は丸木弓と割材を用いる木弓に大別される。枝を材として用いる丸木弓は心持ち材が多いとされる。縄文・弥生時代の弓は大半が丸木弓である。丸木弓の材料は「梓」(あずさ)「桑」(くわ)「櫨」(はぜ)などの木を用いた。 丸木弓は武器として使用されるほか、神事にも使用された。弓の弦は植物性の繊維や動物の筋などが使用されたと考えられている(片岡生悟(2020))。
魏志倭人伝
『魏志倭人伝』に「兵用矛楯木弓、木弓短下長上」(兵は矛・楯・木弓を用いる。木弓は下を短く、上を長く持つ)と書かれる。そのような使い方の証拠がある。袈裟襷文銅鐸(伝香川県出土、弥生時代・前2~前1世紀)に見られる。鹿を射る人の弓は中心より下側を持っている。桜ヶ丘遺跡出土4号「銅鐸」(扁平鈕2式 四区袈裟襷文銅鐸)においても弓の持ち方は同様である。
弥生時代の弓
六反ケ丸遺跡(鹿児島県出水市)で、弥生時代中期(約2200~2300年前)の鹿児島県内最古となる木製の弓4張が出土した。最大のものは長さ87.9cm、小さなものは長さ46.1cm、幅は2.2cmから2.7cmである。堅くて重い素材のイスノキ製であった。森本遺跡の丸木は木を丹念に削り断面を円形にした精巧な丸木弓である。先端は丸く加工され、その下にくびれをつけて弦を巻き付けて固定する。
考察
縄文時代や弥生時代の弓の使用法は短下長上だったことは、『魏志倭人伝』に書かれていても、『日本書紀』、『古事記』には書かれない。これは『魏志倭人伝』は弥生時代から古墳時代の同時代資料であるが、『日本書紀』、『古事記』は同時代資料ではないからである。日本文献より中国文献を信用するのはなぜか、という的外れな素人意見がある。これに対しては、『魏志倭人伝』は同時代史料だが、『日本書紀』、『古事記』は500年後の史料だから、信頼性に差があるのは当然である。年代差は信頼性に大きく影響する。どこで書かれたから信頼性が劣るというものではない。弓の使い方の記述の有無はその証拠の一つになる。つまり短下長上は『魏志倭人伝』にしか書かれていないから、同時代資料の有効性を指摘することができる。
出土
- 丸木弓 - 森本遺跡、京都府向日市、弥生時代
- 丸木弓 -六反ケ丸遺跡、六反ケ丸遺跡、弥生時代中期。
- 丸木弓 -下宅部遺跡 30点、東京都東村山市、縄文時代- 丸木弓はイヌガヤのみを材質とする。
参考文献
- 佐原真(1997)『魏志倭人伝の考古学』歴史民族博物館振興会
- 「酸性土壌でよくぞ腐らず…弥生中期の木製「弓」見つかる」南日本新聞、2024年1月14日
- 片岡生悟(2020)「縄文・弥生時代の弓矢について」東京大学考古学研究室研究紀要(33), pp.67-86
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