半島南部の倭 ― 2024年04月29日 00:23
半島南部の倭(はんとうなんぶのわ)は3世紀の朝鮮半島南部に倭があったという説である。
概要
半島南部の倭を図で描く井上説を紹介する。 井上秀雄(2004)は「東夷伝による諸民族の地理的位置」(p.64)として、半島南部に倭の領域を描いている(図1:左図)。図の理由となる史料を以下に求めている。
- 魏志韓伝(馬韓)「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接」(韓は帯方郡の南あり、東西は海で、南は倭に接する)
- 魏志韓伝(弁辰)「其瀆盧国與倭接界」(弁辰の瀆盧国は倭と界を接する)
- 魏志倭人伝「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里。始度一海千餘里、至對馬國」(帯方郡から倭国に行くには、海岸沿いに韓を南に東に進み、北岸の狗邪韓國まで7千里、海を渡り対馬国に至る)
つまり韓の南は倭に接し、弁辰の中の瀆盧国は倭に接していると記述されている。 しかし井上は『三国史』の記述を分かりやすく図に示しただけであり、井上秀雄(2004)自身が主張する図ではない。「接する」とは必ずしも地続きを意味するわけではない。 井上秀雄(2004)は「『百済本紀』の記事を読めば分かるように、任那日本府と大和朝廷とは何の関係もない」(p.107)「『百済記』では近肖古王から始まる任那諸国との国交を大和朝廷との国交にすりかえた。『百済記』のように史実をかえて政治的意図に迎合する歴史書」(p.109)と書いている。つまり井上は半島南部に倭の政治的な領域があったとは断定していないのである。任那日本府を大和朝廷の機関であったという説も否定している。
魏志倭人伝
山尾幸久(1986)は「断片的な記載を根拠に「3世紀後半の中国の史官は朝鮮半島南部を「倭」と称していたとまで言って良いかとなると、私ははっきり否と答えざるを得ない」(p.19)と否定的である。「(南部朝鮮=倭とするのは)史料の拡張解釈である」(p.20)とする。山尾による3世紀の朝鮮半島南部の勢力図を図2に示す。
魏志韓伝
『三国史』中で倭人伝以外での「倭」の登場個所を調べる。
三國志卷四/魏書四/三少帝紀第四
- 正始四年春正月帝加元服、賜羣臣各有差。
- 冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻。
三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十
- 韓、在帶方之南。東西以海爲限、南與倭接。
- 桓靈之末、韓濊彊盛。郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康、分屯有縣以南荒地、爲帶方郡。遣公孫模張敞等、收集遺民、興兵伐韓濊。舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。
- 弁辰、亦十二國。(略)國出鐵。韓、濊、倭皆從取之。(略)今辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身。
- 弁辰、與辰韓雜居。其瀆盧國、與倭接界。
この中で韓は南で倭と接する、瀆盧國は倭と接すると書かれる。この「接する」の解釈 難しい。倭と韓が地続きという解釈と倭と韓とは海を隔て界を接するという解釈である。 『韓国歴史地図(日本語版)』(韓国教員大学歴史教育科)によれば、弁辰瀆盧國は現在の釜山に位置する。釜山の対岸に対馬があるから、まさに界を接しているといえる。倭の北岸に狗邪韓国があると書かれるから、この倭は対馬(から列島にかけて)を指していることが分かる。
三国史記
『三国史記」新羅本紀(295年春条)に「海に浮かび、入りてその国(倭)を撃たんと欲す」と書かれる。つまりこの時点で、海の向こうに倭国があるという認識があるので、倭国が半島の南にあったら海は渡らない。新唐書百済伝に「西界越州。南倭、北高麗。皆踰海之至」と書かれる。百済の南に倭があるが、海を越えると書かれる。ただし百済と高句麗の間に海はないと思われる。
任那日本府
任那日本府が倭国の代表的な現地の政治的な組織であったとするのは誤解である。佐藤信編(2023)は「任那日本府は「在安羅諸倭臣」であり、倭国の使節団を指すというのが有力な見解となっている。それを何らかの機関であったと主張するのは問題であった」(P.79)「特定の問題のために派遣された使節団であった」「倭国から派遣された使節団は安羅に居住する倭系安羅人たちに主導されて、安羅国に意向に沿って、百済を詰問したり、新羅と通行したりした」(P.81)とされる。すなわち任那日本府は恒常的な政治的統治機構ではなかったというのが実態とされている。佐藤信編(2023)による3世紀の中国と朝鮮半島南部の勢力図を図3に示す。
半島南部「倭」説への反論
- 半島南部に「倭」の集団がいたとするなら、『魏志倭人伝』の倭人の記述がなぜ対馬から始まるのであろうか。半島南部に「倭」がいたなら、そこから記述を始めることになるはずである。合理的に説明できないのではないか。
- 半島南部に「倭」の集団がいたとするなら、考古学的証拠がなければならないが、そのような証拠は見当たらない。
考察
「南部朝鮮=倭」という説は史料上の根拠がない空説といえる。井上秀雄(2004)はそのような主張をしていないが、不用意な図(「東夷伝による諸民族の地理的位置」(p.64))が誤解を与えている。南部朝鮮に倭がいたという主張は、「任那日本府」という幻想につながる。倭から来た倭人が侵攻などで一時的に滞在したことはありえるが、政治権力や支配権をもった勢力ではなかった。なお百済王権に倭系官人・武人が勤務していたことはあるが、南部朝鮮の政治勢力ではなかった。 当時の正しい南部朝鮮の勢力図は藤堂明保・竹田晃他(2017)のp.24に掲載されている図(図4)である。そこには当然ながら南部朝鮮に「倭」の勢力は描かれていない。
参考文献
- 井上秀雄(2004)『古代朝鮮』講談社
- 山尾幸久(1986)『新版 魏志倭人伝』講談社
- 佐藤信編(2023)『古代史講義 海外交流編』
- 藤堂明保・竹田晃他(2017)『倭国伝』講談社
- 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店
- 韓国教員大学歴史教育科, 吉田光男(訳)『韓国歴史地図』平凡社
木緜 ― 2024年04月28日 00:07
木緜(ゆう)は樹皮をはいで水にさらしたり蒸したりして繊維状にし糸を織って布にしたものである。
概要
木綿(もめん)とは異なる。木綿は15,16世紀に日本にもたらされたもので、3世紀にはまだない(石川欣造(1998))。楮(コウゾ)や梶(カジ)などの樹皮を剥がし、水にさらしたり蒸したり、細かく裂いて糸にしたものとされる。その糸で布を作る。佐原真(1997)は布の鉢巻きでは無く、繊維状の糸を頭にまいていたとする。
魏志倭人伝
『魏志倭人伝』に「其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連 略無縫」と書かれる。大意は、風俗は淫らでは無く、男子の髪はみなみずらである。木緜を頭にかける。鳥越(2020)は「木緜は木綿に同じ」(p.111)としているが、いわゆる木綿とは同じではないので、誤りである。招頭とは鉢巻きにするという意味である。
吉野ヶ里遺跡の木緜
吉野ヶ里遺跡SJ0367 甕棺墓から、毛髪様のものから毛髄質が確認され、7層の層状構造の各層が毛小皮を形成する小皮に一致し、内部に小皮細胞特有の層構造がみられ、さらに髄示数(0.20~0.30 前後)、空胞の配列(一列に長軸方向)などからヒトの頭毛であろうと推測された。頭毛の束に付着していた紐状のものはパルプの繊維に似ていることから木緜と考えられている。『魏志倭人伝』の記述が裏付けられたといえる。
考察
木綿の布を鉢巻きにしたとの誤解もあるが、実際はゴワゴワした硬めの糸で織った布を巻いていたのであろうか。ターバン状にして頭に巻いたものは、梁職貢図に現れる。倭の使者は、頭に布を巻いており、上衣をはおり、腰に布を巻き、手甲に脚絆だが裸足である。鬚が濃く腰回りはたくましく、リアリティがある。
参考例
- 木綿 - 森本遺跡、京都府向日市、弥生時代
参考文献
- 佐原真(1997)『魏志倭人伝の考古学』歴史民族博物館振興会
- 鳥越憲三郎(2020)『倭人・倭国伝全釈』角川書店
- 石川欣造(1998)『第三訂版 繊維』 東京電機大学出版局1-4
- 奥山誠義(2017)「考古資料からみた植物性繊維の利用実態の解明」作物研究62:pp.57-63
- 塩田 泰弘(2023)『「魏志倭人伝」を考える ―髪型と衣服形態についてー』季刊『古代史ネット』10号
横幅 ― 2024年04月16日 00:57
横幅(よこはば)は『魏志倭人伝』に書かれる倭国の男子の服装である。
概要
『魏志倭人伝』の記述に男子の服装が書かれる、すなわち「男子は皆露、木緜を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし」(男子皆露紛、以木県招頭、其衣横幅、但結束相連、略無)とされる。男子は冠や頭巾をつけることなく、木綿で鉢巻きをして。衣は横幅で、結んだだけで連結し、裁縫はほぼしない、とされている。 『古事記』、『日本書紀』には同様の記述はないから、弥生時代に独特の服装であろう。
横幅の解釈
大林太良(1977)によれば、2通りの解釈がされている。一つは長い布を腰巻きとして使う方法である。倭国の使節の姿に梁代(6世紀)の「職貢図巻」に描かれている。すなわち横に長い布を肩掛けから、腹のあたりまで巻き付け、腰付近でくくり合わせるものである。百済の使節とはかなり異なり、貧弱な服装になっている。『晋書』卷九十七・林邑伝に「女嫁之時,著迦盤衣,橫幅合縫如井欄,首戴寶花」と書かれる。林邑とはベトナム中部から南部でチャム人が2世紀末に建設した国家をいう。『隋書』卷八十二列傳第四十七 南蠻林邑伝に「俗皆徒跣,以幅布纏身」(風俗は皆裸足で、横幅に衣服をまとう)と書かれる。 二番目の解釈では肩から掛けた布をさすという。三品彰英は袈裟式の服装と解釈した。斎藤忠も同様の解釈である。サリーはインド・ネパール・スリランカ・バングラデシュ・パキスタンにおいて、細長い布を様々なスタイルで体を包み込んで使用する。
考察
どちらの解釈によっても、横に長い布を身にまとう衣服であり、これは東南アジアで広く見られる衣装である。南アジアから東南アジアにかけて広く分布している腰巻文化圏がある。名称はサロン,サルン(マレーシア,インドネシア),シン(ラオス),ルンギー(インド,バングラデシュ)、ロンジー(ミャンマー)があるが、いずれも布を腰巻きとして使用する。 現代でも、インドネシアでは輪にした布を衣料に用い,裁断や縫製をしないまま身体を包む布として使う。とすれば、魏志倭人伝に記述される服装は東南アジア系統の服装なのだろうか。そうだとすると、どのような経路を渡ってきたのであろうか。
参考文献
- 三品彰英(1971)『神話と文化史』平凡社
- 斎藤忠(1958)『日本全史1 原始』東京大学出版会
- 吉本忍(2005)『アジアにおける「包むJ文化』日本衣服学会誌 Vol.49 No.l
- 大林太良(1977)『邪馬台国』中央公論社
丸木弓 ― 2024年04月14日 00:18
丸木弓(まるきゆみ)は古代日本の石器時代から古墳時代まで使われた原始的な弓である。
概要
単体弓は丸木弓と割材を用いる木弓に大別される。枝を材として用いる丸木弓は心持ち材が多いとされる。縄文・弥生時代の弓は大半が丸木弓である。丸木弓の材料は「梓」(あずさ)「桑」(くわ)「櫨」(はぜ)などの木を用いた。 丸木弓は武器として使用されるほか、神事にも使用された。弓の弦は植物性の繊維や動物の筋などが使用されたと考えられている(片岡生悟(2020))。
魏志倭人伝
『魏志倭人伝』に「兵用矛楯木弓、木弓短下長上」(兵は矛・楯・木弓を用いる。木弓は下を短く、上を長く持つ)と書かれる。そのような使い方の証拠がある。袈裟襷文銅鐸(伝香川県出土、弥生時代・前2~前1世紀)に見られる。鹿を射る人の弓は中心より下側を持っている。桜ヶ丘遺跡出土4号「銅鐸」(扁平鈕2式 四区袈裟襷文銅鐸)においても弓の持ち方は同様である。
弥生時代の弓
六反ケ丸遺跡(鹿児島県出水市)で、弥生時代中期(約2200~2300年前)の鹿児島県内最古となる木製の弓4張が出土した。最大のものは長さ87.9cm、小さなものは長さ46.1cm、幅は2.2cmから2.7cmである。堅くて重い素材のイスノキ製であった。森本遺跡の丸木は木を丹念に削り断面を円形にした精巧な丸木弓である。先端は丸く加工され、その下にくびれをつけて弦を巻き付けて固定する。
考察
縄文時代や弥生時代の弓の使用法は短下長上だったことは、『魏志倭人伝』に書かれていても、『日本書紀』、『古事記』には書かれない。これは『魏志倭人伝』は弥生時代から古墳時代の同時代資料であるが、『日本書紀』、『古事記』は同時代資料ではないからである。日本文献より中国文献を信用するのはなぜか、という的外れな素人意見がある。これに対しては、『魏志倭人伝』は同時代史料だが、『日本書紀』、『古事記』は500年後の史料だから、信頼性に差があるのは当然である。年代差は信頼性に大きく影響する。どこで書かれたから信頼性が劣るというものではない。弓の使い方の記述の有無はその証拠の一つになる。つまり短下長上は『魏志倭人伝』にしか書かれていないから、同時代資料の有効性を指摘することができる。
出土
- 丸木弓 - 森本遺跡、京都府向日市、弥生時代
- 丸木弓 -六反ケ丸遺跡、六反ケ丸遺跡、弥生時代中期。
- 丸木弓 -下宅部遺跡 30点、東京都東村山市、縄文時代- 丸木弓はイヌガヤのみを材質とする。
参考文献
- 佐原真(1997)『魏志倭人伝の考古学』歴史民族博物館振興会
- 「酸性土壌でよくぞ腐らず…弥生中期の木製「弓」見つかる」南日本新聞、2024年1月14日
- 片岡生悟(2020)「縄文・弥生時代の弓矢について」東京大学考古学研究室研究紀要(33), pp.67-86
生菜 ― 2024年04月11日 00:42
生菜(せいさい)は古代中国語で生野菜の意味である。
概要
『魏志倭人伝』に「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。」(倭の地は温暖で、冬も夏も生菜を食す。皆はだしである)と書かれる。
現代中国語では「生菜」shēngcài はレタス、サラダ菜の意味とされ、二番目の意味に生野菜がある。 古代中国の蜀、呉越では野菜を生で食べる習慣があったという(佐原真(1997))。 杜甫の詩に「春日、春盤、細生菜」(立春、細かく刻んだ生野菜が平皿に盛られる)と書かれる(佐原真(1997))。
考察
わざわざ倭は生野菜を食べる、と書くところは、そのような習慣のない古代の北方中国人が見聞したからに違いない。物珍しい倭の習慣として書いているようだ。倭地温暖とは中国の厳しい暑さ、寒さと比較している。皆はだし、もそうである。古代中国では、下駄は一般的な服飾品であったという。つまり中国では庶民もはだしではなかったらしい。
出土
参考文献
佐原真(1997)『魏志倭人伝の考古学』歴史民族博物館振興会
黄幢 ― 2024年01月10日 00:05
黄幢(こうどう)は黄色い旗指物の軍旗である。
概要
「幢」は旗指物であり軍事権を象徴する旗である。魏志倭人伝によれば、倭の女王卑弥呼が派遣した難升米に魏の皇帝が授けた黄色の軍旗である。 「黄」は魏が五行思想による土徳の王朝であるため黄色を旗印としたとの説がある。 「幢」は中空の釣鐘形の布であり、漢代の画像石にみえる吹き流し状の旗と考えられている。 蛮夷の外臣に「幢」を授けた例は非常に少ないため、魏が倭国を重視していたことの現れである。
黄幢授与の趣旨
黄幢を授けたのは、狗奴国と戦う邪馬台国への支援とする説と、朝鮮半島への軍事的な支援を倭国に求めたためという説、倭の大夫を率善中郎将に任じたので、その中郎将の旗として与えたとする説とがある。なお遼陽壁画(北薗壁画墓)に黄幢とみられる旗が描かれているとの説があるが、貴人の日除けに用いる翳(さしば)に似ており、軍旗にはみえない。
後世の幢旗
『延喜式』では大極殿に向かい烏形幢、日像幢、朱雀幢・青龍幢、月像幢、白虎幢、玄武幢と合計7本の幢旗を立てるとされる。時代は下るものの院政期の儀式を描いた「文安御即位調度図」に幢旗が描かれている。高さは約「三丈」(9m)であり、旗を取り付ける中央の長い柱にそれを支える2本の短い脇柱があり、平城京の発掘結果と一致する。しかし魏の黄幢と同じとは限らない。
魏志倭人伝 原文
- 其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
- (訳)正始六年(245年)、皇帝は詔して、倭の難升米に黄色の軍旗を賜い、帯方郡に付託してそれを仮に授けた。
- 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之
- (訳)倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王である卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあう状態を説明した。皇帝は塞曹掾史の張政等を派遣した。それにより詔書と黄幢を難升米に授け、檄を告げて諭した。
参考文献
- 佐伯有清(2000)『魏志倭人伝を読む』吉川弘文館
- 大庭脩(2001)『親魏倭王』学生社
- 高橋賢一(1996)『旗指物』新人物往来社
- 大澤正吾(2019)「平城宮第一次大極殿院の幢旗遺構」奈文研ニュースNo74
- 斎藤忠(2003)『幢竿支柱の研究』第一書房
入墨 ― 2023年12月31日 10:09

入墨(いれずみ)は古代において墨・煤・朱などの色素で体や顔の皮膚を彩色し、または線刻により文様・文字・絵柄などを体や顔に描くことである。
概要
魏志倭人伝に「男子は大小となくみなクジラのような顔で入墨を入れている」「中国にくると皆「大夫」を自称する」「南の會稽のように斷髮文身して鮫の害を防ぐ」「国によって入墨の位置は異なる」「身分によって入墨に違いがある」「のちに入墨は装飾のようになった」と書かれている。 三国志馬韓伝に「男子は時々入墨する」と書かれる。また韓伝弁辰に「風俗は倭に似ており、男女とも入墨する」と書かれる。つまり倭の風俗は弁辰に似ている。
「大小となく」の解釈
「大小となく」の解釈には年齢説と身分説とがある。年齢説は「大人も子供も(入れ墨する)」という意味とする。 身分説は吉岡郁夫(2021)に代表され、身分に関わらず入れ墨をしているとする説である。 一般的には世界各地の文身習俗では、通過儀礼で大人になった証として入れ墨を入れるという。埴輪の男子は線刻がみられる事例がある。これは入れ墨とみられる。魏志倭人伝の後半に身分により入れ墨が異なると書かれるので、身分説の方が分かりやすい。
女子の入れ墨
倭人伝には「男子は」と書かれるが、女子は入れ墨をしたかどうか書かれていない。「男子は」と書かれているので、女子は入れ墨しないとも解釈できる。しかし女性の埴輪には顔に色ぬりをしたものがある。線刻の埴輪は。入れ墨はあったとしても、男子とは異なっている。 千田稔(2014)の解釈は、女子は「彫り物ではなく、塗り化粧つまりペイントの表現」とする。すなわち化粧のための色塗り(ペインティング)と理解される。群馬県の上野塚廻り古墳群出土埴輪は王位継承儀礼での巫女の顔面彩色である(千田(2014))。
古代の入墨
縄文時代の土器の顔面把手や土偶に描かれた顔、弥生時代Ⅴ期から古墳時代の近畿を除いて茨城から福岡までの土器や木の板、石棺の蓋などに鼻を中心とした平行弧線が描かれており、これは入墨の可能性がある。 津寺(加茂小)遺跡の黥面文身土偶は昭和63年に行われた校舎の建て替え工事に伴う発掘調査で、弥生時代後期の溝から出土した。高さ3.5cm。頸部以下は欠損している。両目の上下に弧状線数本描き口の脇や顎・頸にも数本の線刻がみられる。 これら『魏志倭人伝』に記載された、倭人の習俗である黥面文身(入墨)を表現したものとみられる。
刑罰の入墨
日本書紀には刑罰として死罪の代わりに入墨を入れる例が示される。住吉仲皇子の反乱に加担した阿曇連浜子に対し、死罰を免じて罰として黥面をさせ、当時の人は「阿曇目」と呼んだと記される。大系日本書紀は「阿曇部や鳥養部が行なっていた入れ墨の慣習を、中国風の思想から説いた起源説話であろう」とする。また履中天皇が淡路島に狩猟のため行幸したところ、イザナギ神が、随行の河内の馬飼部の人々の目のふちの入墨の血の生臭さに堪えられないと神託したために、以後は馬飼部の入墨をやめさせたとする。
琉球諸島とアイヌ女性の入れ墨
奄美群島から琉球諸島にかけての島嶼部で女性は「ハジチ」と呼ばれるイレズミを指先から肘にかけて入れる習慣があった。記録は16世紀以降であるが、それ以前から入れ墨は行われていたと推測される。宮島幹之助(1893)は明治23年に琉球婦人が手の甲に入墨をしているところを目撃した。琉球の入墨の文様は身分により異なるという。友人の後藤千代吉はアイヌの婦人が手の甲、口の周囲、眉間に入墨をしているところを見たという。 手の部分のイレズミは、女性が既婚であることを表し、施術が完成した際には祝福を受けるなど、通過儀礼の意味合いも持っていた。島ごとに施術される範囲や文様が異なっており、ハジチがない女性は来世で苦労するという伝承が残る島もあった。
海外古代の入墨
紀元前4,000年頃エジプトで発見された土器(人形)にタトゥーの痕跡が認められている。女性を模した「点」、「線」、「菱形」模様が施されており、後に発見されたミイラに見られるタトゥー模様のパターンと符合する。1991年、オーストリアのアルプス山中で見つかった旧石器時代の男性遺体に7個所から8個所の入れ墨があったという。アルプスの山中で発見されたことから、アイスマンと呼ばれる。
入れ墨の健康効果
スウェーデンとハンガリーの研究者は、ボディペイントには昆虫を遠ざけ、病気から人々を守る効果があることを証明している(Gábor Horváthet al(2018))。身体へのペインティングには実用的意味があったとみられる。
原文
- (三国志魏志 倭人伝 原文)「男子無大小、皆黥面文身、自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫、夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害、今倭水人、好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾、諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。」)
- (三国志魏志 馬韓伝原文)其男子時時有文身。
- (三国志魏志 韓伝 弁辰伝原文)男女近倭、亦文身。
- (日本書紀 巻第十二履中天皇元年)詔之曰「汝、與仲皇子共謀逆、將傾國家、罪當于死。然、垂大恩而兔死科墨。」即日黥之、因此、時人曰阿曇目。
- (日本書紀 巻第十二履中天皇五年)先是、飼部之黥皆未差。時、居嶋伊奘諾神、託?曰「不堪血臭矣。」因以、卜之、兆云「惡飼部等黥之氣。」故自是以後、頓絶以不黥飼部而止之。
出土例
参考文献
- 吉岡 郁夫(2021)『いれずみ(文身)の人類学』雄山閣
- 千田稔(2014)「入れ墨が示す海洋民たちの記号」『謎の女王卑弥呼の正体』,KADOKAWA,pp.196-209
- Gabor Horvath1,al(2019)"Striped bodypainting protects against horseflies",Royal Society Jan 16;6(1)
- 黥面文身土偶, 津寺(加茂小)遺跡, 岡山市埋蔵文化財センター
- 宮島幹之助(1893)_琉球人ノ入墨ト「アイヌ」ノ入墨
最近のコメント