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生菜2024年04月11日 00:42

生菜(せいさい)は古代中国語で生野菜の意味である。

概要

『魏志倭人伝』に「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。」(倭の地は温暖で、冬も夏も生菜を食す。皆はだしである)と書かれる。

現代中国語では「生菜」shēngcài はレタス、サラダ菜の意味とされ、二番目の意味に生野菜がある。 古代中国の蜀、呉越では野菜を生で食べる習慣があったという(佐原真(1997))。 杜甫の詩に「春日、春盤、細生菜」(立春、細かく刻んだ生野菜が平皿に盛られる)と書かれる(佐原真(1997))。

考察

わざわざ倭は生野菜を食べる、と書くところは、そのような習慣のない古代の北方中国人が見聞したからに違いない。物珍しい倭の習慣として書いているようだ。倭地温暖とは中国の厳しい暑さ、寒さと比較している。皆はだし、もそうである。古代中国では、下駄は一般的な服飾品であったという。つまり中国では庶民もはだしではなかったらしい。

出土

参考文献

佐原真(1997)『魏志倭人伝の考古学』歴史民族博物館振興会

黄幢2024年01月10日 00:05

黄幢(こうどう)は黄色い旗指物の軍旗である。

概要

「幢」は旗指物であり軍事権を象徴する旗である。魏志倭人伝によれば、倭の女王卑弥呼が派遣した難升米に魏の皇帝が授けた黄色の軍旗である。 「黄」は魏が五行思想による土徳の王朝であるため黄色を旗印としたとの説がある。 「幢」は中空の釣鐘形の布であり、漢代の画像石にみえる吹き流し状の旗と考えられている。 蛮夷の外臣に「幢」を授けた例は非常に少ないため、魏が倭国を重視していたことの現れである。

黄幢授与の趣旨

黄幢を授けたのは、狗奴国と戦う邪馬台国への支援とする説と、朝鮮半島への軍事的な支援を倭国に求めたためという説、倭の大夫を率善中郎将に任じたので、その中郎将の旗として与えたとする説とがある。なお遼陽壁画(北薗壁画墓)に黄幢とみられる旗が描かれているとの説があるが、貴人の日除けに用いる翳(さしば)に似ており、軍旗にはみえない。

後世の幢旗

『延喜式』では大極殿に向かい烏形幢、日像幢、朱雀幢・青龍幢、月像幢、白虎幢、玄武幢と合計7本の幢旗を立てるとされる。時代は下るものの院政期の儀式を描いた「文安御即位調度図」に幢旗が描かれている。高さは約「三丈」(9m)であり、旗を取り付ける中央の長い柱にそれを支える2本の短い脇柱があり、平城京の発掘結果と一致する。しかし魏の黄幢と同じとは限らない。

魏志倭人伝 原文

  • 其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
    • (訳)正始六年(245年)、皇帝は詔して、倭の難升米に黄色の軍旗を賜い、帯方郡に付託してそれを仮に授けた。
  • 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状   遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之
    • (訳)倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王である卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあう状態を説明した。皇帝は塞曹掾史の張政等を派遣した。それにより詔書と黄幢を難升米に授け、檄を告げて諭した。

参考文献

  1. 佐伯有清(2000)『魏志倭人伝を読む』吉川弘文館
  2. 大庭脩(2001)『親魏倭王』学生社
  3. 高橋賢一(1996)『旗指物』新人物往来社
  4. 大澤正吾(2019)「平城宮第一次大極殿院の幢旗遺構」奈文研ニュースNo74
  5. 斎藤忠(2003)『幢竿支柱の研究』第一書房

入墨2023年12月31日 10:09

入墨を表した土製人形/森本遺跡/京都府立山城郷土資料館

入墨(いれずみ)は古代において墨・煤・朱などの色素で体や顔の皮膚を彩色し、または線刻により文様・文字・絵柄などを体や顔に描くことである。

概要

魏志倭人伝に「男子は大小となくみなクジラのような顔で入墨を入れている」「中国にくると皆「大夫」を自称する」「南の會稽のように斷髮文身して鮫の害を防ぐ」「国によって入墨の位置は異なる」「身分によって入墨に違いがある」「のちに入墨は装飾のようになった」と書かれている。 三国志馬韓伝に「男子は時々入墨する」と書かれる。また韓伝弁辰に「風俗は倭に似ており、男女とも入墨する」と書かれる。つまり倭の風俗は弁辰に似ている。

「大小となく」の解釈

「大小となく」の解釈には年齢説と身分説とがある。年齢説は「大人も子供も(入れ墨する)」という意味とする。 身分説は吉岡郁夫(2021)に代表され、身分に関わらず入れ墨をしているとする説である。 一般的には世界各地の文身習俗では、通過儀礼で大人になった証として入れ墨を入れるという。埴輪の男子は線刻がみられる事例がある。これは入れ墨とみられる。魏志倭人伝の後半に身分により入れ墨が異なると書かれるので、身分説の方が分かりやすい。

女子の入れ墨

倭人伝には「男子は」と書かれるが、女子は入れ墨をしたかどうか書かれていない。「男子は」と書かれているので、女子は入れ墨しないとも解釈できる。しかし女性の埴輪には顔に色ぬりをしたものがある。線刻の埴輪は。入れ墨はあったとしても、男子とは異なっている。 千田稔(2014)の解釈は、女子は「彫り物ではなく、塗り化粧つまりペイントの表現」とする。すなわち化粧のための色塗り(ペインティング)と理解される。群馬県の上野塚廻り古墳群出土埴輪は王位継承儀礼での巫女の顔面彩色である(千田(2014))。

古代の入墨

縄文時代の土器の顔面把手や土偶に描かれた顔、弥生時代Ⅴ期から古墳時代の近畿を除いて茨城から福岡までの土器や木の板、石棺の蓋などに鼻を中心とした平行弧線が描かれており、これは入墨の可能性がある。 津寺(加茂小)遺跡の黥面文身土偶は昭和63年に行われた校舎の建て替え工事に伴う発掘調査で、弥生時代後期の溝から出土した。高さ3.5cm。頸部以下は欠損している。両目の上下に弧状線数本描き口の脇や顎・頸にも数本の線刻がみられる。 これら『魏志倭人伝』に記載された、倭人の習俗である黥面文身(入墨)を表現したものとみられる。

刑罰の入墨

日本書紀には刑罰として死罪の代わりに入墨を入れる例が示される。住吉仲皇子の反乱に加担した阿曇連浜子に対し、死罰を免じて罰として黥面をさせ、当時の人は「阿曇目」と呼んだと記される。大系日本書紀は「阿曇部や鳥養部が行なっていた入れ墨の慣習を、中国風の思想から説いた起源説話であろう」とする。また履中天皇が淡路島に狩猟のため行幸したところ、イザナギ神が、随行の河内の馬飼部の人々の目のふちの入墨の血の生臭さに堪えられないと神託したために、以後は馬飼部の入墨をやめさせたとする。

琉球諸島とアイヌ女性の入れ墨

奄美群島から琉球諸島にかけての島嶼部で女性は「ハジチ」と呼ばれるイレズミを指先から肘にかけて入れる習慣があった。記録は16世紀以降であるが、それ以前から入れ墨は行われていたと推測される。宮島幹之助(1893)は明治23年に琉球婦人が手の甲に入墨をしているところを目撃した。琉球の入墨の文様は身分により異なるという。友人の後藤千代吉はアイヌの婦人が手の甲、口の周囲、眉間に入墨をしているところを見たという。 手の部分のイレズミは、女性が既婚であることを表し、施術が完成した際には祝福を受けるなど、通過儀礼の意味合いも持っていた。島ごとに施術される範囲や文様が異なっており、ハジチがない女性は来世で苦労するという伝承が残る島もあった。

海外古代の入墨

紀元前4,000年頃エジプトで発見された土器(人形)にタトゥーの痕跡が認められている。女性を模した「点」、「線」、「菱形」模様が施されており、後に発見されたミイラに見られるタトゥー模様のパターンと符合する。1991年、オーストリアのアルプス山中で見つかった旧石器時代の男性遺体に7個所から8個所の入れ墨があったという。アルプスの山中で発見されたことから、アイスマンと呼ばれる。

入れ墨の健康効果

スウェーデンとハンガリーの研究者は、ボディペイントには昆虫を遠ざけ、病気から人々を守る効果があることを証明している(Gábor Horváthet al(2018))。身体へのペインティングには実用的意味があったとみられる。

原文

  • (三国志魏志 倭人伝 原文)「男子無大小、皆黥面文身、自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫、夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害、今倭水人、好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾、諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。」)
  • (三国志魏志 馬韓伝原文)其男子時時有文身。
  • (三国志魏志  韓伝 弁辰伝原文)男女近倭、亦文身。
  • (日本書紀 巻第十二履中天皇元年)詔之曰「汝、與仲皇子共謀逆、將傾國家、罪當于死。然、垂大恩而兔死科墨。」即日黥之、因此、時人曰阿曇目。
  • (日本書紀 巻第十二履中天皇五年)先是、飼部之黥皆未差。時、居嶋伊奘諾神、託?曰「不堪血臭矣。」因以、卜之、兆云「惡飼部等黥之氣。」故自是以後、頓絶以不黥飼部而止之。

出土例

参考文献

  1. 吉岡 郁夫(2021)『いれずみ(文身)の人類学』雄山閣
  2. 千田稔(2014)「入れ墨が示す海洋民たちの記号」『謎の女王卑弥呼の正体』,KADOKAWA,pp.196-209
  3. Gabor Horvath1,al(2019)"Striped bodypainting protects against horseflies",Royal Society Jan 16;6(1)
  4. 黥面文身土偶, 津寺(加茂小)遺跡, 岡山市埋蔵文化財センター
  5. 宮島幹之助(1893)_琉球人ノ入墨ト「アイヌ」ノ入墨

生口2023年12月29日 21:23

生口(せいこう)は贈与交換用の捕虜を起源とする奴隷とされる。

概要

『後漢書』東夷伝に「安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ請見を願う」と書かれる。さらに『魏志倭人伝』に行者に吉善あらば、共に、その生口、財物を顧す(若行者吉善 共顧其生口財物)、239年(景初三年)の卑弥呼の献使では「汝が献ずるところの男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り以って到る」(奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到)と男女の生口10名を献上した。 なお『魏志倭人伝』の版本には238年(景初二年)と書かれるが、こは誤りであることは、「卑弥呼の使者派遣時期」の参照をお願いしたい。

243年(正始4年)にも倭王は「使者の大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣し、生口や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢を献上した」が、生口の人数は不明である。次の女王である壱与は「臺に詣り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢ぐ」(因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹)と書かれる。

合計4回生口を皇帝に貢いでいる。1回の献上で107年には160人、238年には10名、243年には30名、250年頃には30人を献上している。班布や錦、白珠と同列の扱いであるから、物扱いであった。

生口の解釈

生口の意味についてこれまで研究者により様々な解釈がなされてきたが、整理すると次のパターンになる。

  • (1)生口は未開人の意味とする(市村瓚次郎)
  • (2)奴婢の意味とする(市村瓚次郎)
  • (3)動物の意味とする(市村瓚次郎)
  • (4)捕虜説(沼田頼輔)。異国人の俘虜説(牧健二)
  • (5)日本人とは異なった異種族の捕虜(波多野承五郎)
  • (6)倭人特有の特殊技術として潜水捕魚鰒者(橋本増吉)
  • (7)在外研究員・外国留学生(中山平次郎)
  • (8)奴婢一般と区別される性質をもち、財物視されていた人々(原島礼二)
  • (9)大人・下戸・奴婢・生口の四階層で、生口は社会的地位は最も低く、奴隷階層(広淇)
  • (10)倭の特産とての献上品(沈仁安)
  • (11)人権の喪失者として家畜と変わりない(日野開三郎)
  • (12)生口は捕虜を意味すると同時に奴婢の意味を併せ持つ(佐伯有清)
  • (13)捕獲された非戦闘員あるいはなんらかの事情って他の権力機構に隷属せしめられた人々で奴婢とは区別する(笠井倭人)

中国での「生口」の意味

中国、漢代の思想書『論衡』の恢國に「匈奴時擾,遣將攘討,獲虜生口千萬數」とある。これは匈奴と戦い、千万の人数の生口を捕らえたという意味である。数が多いのは戦争捕虜のためであろう。

『漢書』には「捕生口虜」(竇田灌韓傳)、「捕得生口」(李廣蘇建傳)、「捕得生口」(西域傳上)などの文脈で登場する。『後漢書』において、匈奴や鮮卑など「生口」は漢族からみた異民族(漢民族ではない民族)であった。

『三国志』では戦闘や済南の黃巾(魏書呂虔伝)や武陵の蛮夷などもあり、生口は牛馬と同様に売買される対象であった。南北朝期では生口を対象とした投機的な売買が行われていた。湖南省長沙市走馬楼で出土した三国・呉代の竹簡と木牘では生口を売買した記録がある。

奴婢の成因

劉偉民は奴婢の成因(発生原因)について、争俘虜・・犯罪による没入・困窮と質にる身売り・脅迫および略奪などの理由をあげている。職掌については農耕・労務(水利・築城・運輸・殯葬・雑役・販売・偵察・倉庫管理など)・軍事(兵および指揮)・娯楽(楽舞などをあげ、そのため奴婢の技能は歌舞・文章作成・技工・武芸をあげる。必ずしも単純労働だけではなかった。

結論と課題

生口は総合的に考えれば、戦争等での捕虜に起因した奴隷と考えるのが合理的と結論する。 理由は、班布・錦・白珠と同列にもの扱いしていること、男女の生口がいること、から判断できる。 倭国乱に見られるように、弥生時代は地域的な戦乱が多かったと考えられる。戦乱があれば、負けた方は奴隷になることは、中国の例もあるから不思議ではない。 検討課題としては

  • (1)奴婢と生口は同じであるか、異なるか。
  • (2)生口は異民族であるか、同じ民族か。
  • (3)生口は古墳時代には見られなくなったとすれば、いつ頃なくなったのか。
  • (4)生口は、日本でも売買されたのか。

などである。『魏志倭人伝』において生口は「もの扱い」とみえるから、売買対象であっても不思議ではない。中国では売買事例があっても、倭国では証拠がない。

参考文献

  1. 劉偉民(1975)『中国古代奴隷制度史─由殷代至両晋南北朝─』龍門書店,pp.274-294
  2. 牧健二(1962)「第二・三世紀における倭人の社会」史林45(2)、pp.159-194
  3. 門田誠一(2019)「魏志倭人伝にみえる生口の検討」歴史学部論集 9、佛教大学歴史学部,pp.1-20

邪馬台国時代の港2023年12月16日 23:30

邪馬台国時代の港(やまたいこくじだいのみなと)は、魏志倭人伝が書かれた邪馬台国時代の日本の港である。

概要

古代の港は不明なところがまだ多いが、いくつか分かっているところもある。 魏志倭人伝によれば、魏の使者が港に立ち寄った可能性が考えられる場所は、対馬国、壱岐国、末盧国、投馬国であろう。邪馬台国へ向かう行程でどこで上陸したかは明らかではなく、これ以外でも上陸寄港したことが想定できる場所である。末盧国から伊都国へは陸行でなく、舟で向かった場合は、伊都国にも上陸地点があったであろう。

前提

以下は、邪馬台国近畿説に基づいて、魏の使者が寄港したであろう港を考古学の知見を加味しながら、推察したものである。無論、実際の寄港地は実証できないが、考古学的に可能性のあるものとして記述する。 邪馬台国九州説であっても、対馬国、壱岐国、末盧国の記述は変わらない。邪馬台国九州説では投馬国や邪馬台国の入港地が想定されていない。

対馬国

対馬国で上陸し、休憩をとったとすれば、魏の使者一行は弥生時代の集落である三根遺跡を訪問した可能性があろう。三根には弥生時代中期から後期にかけての墳墓遺跡が多いため、当時の対馬の中心地(王都)であったと考えられている。その場合、どこに舟を停泊させたかが問題となる。三根川の沿岸には三根遺跡、下ガヤノキ遺跡、上ガヤノキ遺跡などの有力な遺跡があるので、その付近で上陸したという可能性が考えられる。

壱岐国

一支国の原の辻遺跡船着き場跡は中国を除く東アジアで最古の港である。内海湾に流れ込む本流の幡鉾川から枝分かれしたよどみの中にある島状の港である。弥生時代の王都である原の辻遺跡から船着き場跡までは徒歩で800m程度の距離である。東側に濠をめぐらし石組みの分水施設を設けていた。船着き場は幡鉾川に向かう河川と濠とによって囲まれた南北約40メートル、東西約35メートルの島状の施設であることが判明している。 原の辻遺跡船着き場跡は古墳時代前期まで残存していたとされるので、魏の使者が来たときは使われた可能性があることは、前漢時代の五銑銭と三翼鍛,朝鮮系無文土器,楽浪系土器などの遺物や朝鮮半島との交捗を物語る遺物群が出土しており、弥生時代に港として使われたことを物語る証拠がある。

末盧国

魏の使者は壱岐国からの船旅の後、末盧国に上陸した。魏志倭人伝の時代では、末盧国の王都は菜畑遺跡から桜馬場遺跡、中原遺跡付近に移っていたであろう。そうするとその港は北端の呼子港あるいは唐津港が考えられる。しかしこの付近に古代の船着き場跡がまだ見つかっていないので、上陸場所は推定できない。「末盧国」または「伊都国」では歓迎の宴もあったかもしれない。

投馬国

投馬国の所在地に出雲説と吉備説とがあるが、吉備説における有力候補のひとつとして、上東遺跡がある。上東遺跡は現在では海から離れた内陸部にある。しかし弥生時代には現在の岡山平野の大部分は海であり、「吉備の穴海」と呼ばれるかなり広い内海があった。上東遺跡は当時の海岸に近い場所にあった。当時の河口近くに設けられた波止場状遺構がみつかっている。船溜まりをの突堤の南側からは9,606個の桃核や土器、卜骨や木製品が出土している。中国(新)製の貨泉や朝鮮半島製の瓦質土器が出土し、国際交易が活発であったことを示している。 「吉備の穴海」には東から吉井川、西から高梁川、中央部では旭川と岡山県の三大河川が流れており、沖積作用で島々の間に干潟ができ、江戸時代の干拓で海はなくなって広い平野やができた。江戸時代の寛永年間から幕末の慶応に至る約240年間で児島湾沿岸で約6,800haもの土地が干拓により造成されたという。明治時代になっても家禄を奉還した旧士族たちに対する授産事業として干拓が行われた。昭和16年までに約2,970haが造成されたとされる。 別説として、「鞆の浦」(広島県福山市鞆)をあげる説もあるが、不弥国から邪馬台国の上陸地との距離の比例が2対1となる上東遺跡の方が有利と思われる。投馬国まで水行二十日、投馬国からは水行十日であるから、鞆の浦では西に寄りすぎる。また日本海航行説では出雲国の港が想定される。

邪馬台国

邪馬台国に行くには投馬国から水行10日、陸行1ヵ月とされる。瀬戸内海から東に行けば、難波津(難波三津之浦)に到達する。弥生時代に船着きがあったとの確証はないが、あったとすれば有力候補となる。

そのほかの弥生時代の港

  • 御津 石村智(2017)によれば、播磨国御津に港があったという。揖保川の河口部にあり、権現山51号墳、輿塚古墳は港の目印として築かれたとする。
  • 志高遺跡 京都府舞鶴市志高遺跡の堤防状遺構は弥生時代中期の船着場と見られる。50 m前後の堤防状遺構の中央部に陸橋がついたT字形の遺構で、川に面する部分を貼り石で護岸されている。日本海側屈指の河川である由良川に面し、由良川沿岸の水上交通の拠点としてもうけられた船着場であろう。弥生時代後期の丹後地域に多くのガラス製品、鉄製品を入手している。これらは海上交通を利用した交易で得られたものであった。

参考文献

  1. 石村智(2017)『よみがえる古代の港』吉川弘文館
  2. 千田稔(1974)『埋もれた港』学生社
  3. 森浩一(1986)『日本の古代3』中央公論社
  4. 長崎県教育委員会(1999)『原の辻遺跡』(船着場付近水路等状況調査)

金印紫綬2023年12月12日 00:32

金印紫綬(きんいんしじゅ)は、紫色の紐(綬)付きの金製の印鑑である。

概要

志賀の島で発見された国宝の「漢委奴国王印」には紐を通す孔が開けられている。 中国の印の材料は官職の序列順に①玉、②金、③銀、④銅であった。 後漢の制度では、諸侯王が金爾、緑綟綬、侯・公は金印紫綬、九卿や郡太守が銀印・青綬であった。皇帝印を璽、官印や私印は印、将軍印は章と呼んだ。魏でも制度を概ね踏襲している。 239年の倭の献使に対して魏帝は卑弥呼を「親魏倭王」に封じ、「金印紫綬」を授けた。国外の王は「金印紫綬」がきまりであった。皇帝は難升米を率善中郎将とし、都市牛利を率善校尉とし、銀印靑綬を授けた。西域の烏孫に列侯として金印紫綬を与え、その臣下にも内臣に準じた銀印・銅印が下賜されているので、同等の扱いである。 243年の献使では大夫の掖邪拘らに「率善中郎将」の印綬を授けたが、これは「銀印青綬」と想定される。この「銀印青綬」の文字は、「親魏率善中郎将」と書かれていたことは、内蒙古自治区凉城県から出土した「晋鮮卑率善中郎将」駱駝紐銀印から類推できる。 なお動物の形状は漢から見て北方は羊・馬鈕、西域は駱駝鈕、南方は蛇・蟠蛇鈕・虺(キ)・螭(チ)、東方は亀鈕となる。倭国は漢から見て南方の国と認識されていたことになる。

漢委奴國王印

1784年(天明4年)の春、志賀島から「漢委奴國王」の金印が見つかったが、『後漢書東夷伝』に「倭奴国奉朝貢賀・・・光武賜以印綬」と記されている金印と考えられている。倭の奴国王が後漢の光武帝から授けられた金印である。蛇鈕の金印はその時点で他に出土例がないため、真贋論争が長く続いた。1956年に中国雲南省の漢墓から前漢の武帝が紀元前109年にテン族の王に与えた蛇鈕の金印「テン王之印」が発見されたため真物説が最有力となった。

出土例

参考文献

持衰2023年11月30日 13:26

持衰(じさい)は日本古代において船の乗組員の運命を背負う役目である。

概要

「持」は斎戒を守ること、「衰」は麻布の喪服とされる。倭人が魏に朝貢に行く際の船に乗る際に航海の安全を担う人物と考えられている。当時の準構造船による航海はかなり危険なもであった。持衰は『魏志倭人伝』に登場する。 倭人伝によれば航海の同行者の中から一人を定めて持衰とする。持衰には以下の定めがあった。

  1. 頭髪を整えない。
  2. シラミが湧いてもそのまま放置する・
  3. 衣服は洗わず着替えず、汚れたままとする。
  4. 肉類を食べない。
  5. 女性を近づけない。(持衰は男性であったことが分かる)

持衰の待遇

倭人伝によれば、航海が無事に終わると、奴隷や財物などの褒美を与える。もし疫病が蔓延したり、航海に暴害(暴風雨など)があった場合は、持衰の謹慎が不十分であったとして責任をとらせてこれを殺そうとする。

関連語

類似語に「持斎」がある。読みが同じであり、期待される役割が似ている可能性がある。戒律をまもり、心身の清浄を保つこととされる。

遣唐使船の場合

後代になるが延喜式によると、遣唐使船に技手として、主神という神主、卜部という亀卜の役割が同船している。持衰と同様に、航海の安全を祈願する役割であろう。

魏志倭人伝

其行來渡海詣中國、恆使一人不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰、若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。

参考文献

  1. 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝』岩波書店