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金錯銘花形飾環頭大刀2023年10月14日 10:38

金錯銘花形飾環頭大刀(きんさくめいはながたかざりかんとうたち)は東大寺山古墳から出土した日本最古の出土した銘文刀剣である。

概要

金錯銘花形飾環頭大刀には24文字の金象嵌の銘文があり、後漢の年号「中平」(184年~190年)の銘をもつ。年の部分は判読できない。

  • 中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百錬清剛上応星宿下避不祥」

中平は後漢の年号であり西暦184年から189年である、長さが1メートルを超える太刀を弥生時代から古墳時代前期までの間に日本列島における製造技術はまだない(参考文献3,p.201)。

紀年銘をもつ日本最古の遺物であり、中国製刀身部を改造して三葉環頭を基に退化した直弧文を施した日本列島独自の環頭部に差し替えたとみられる。現在は国宝に指定されている。2世紀後半の大刀が、4世紀の古墳から出土したので、150年間伝世したことになる。直弧文は日本列島独自の文様であるため、柄頭は日本列島で作られたものとされる。

製作地

大刀は2世紀後半に中国大陸で製作され、日本列島に運ばれ、4世紀に柄頭が取りつけられた、とする説が有力となっている。さらに卑弥呼が中国の皇帝からもらった大刀であるとみる見解がある。中平は後漢の霊帝の時代の年号であり、184年から189年を指す。『魏志倭人伝に記載される「倭国乱」「倭国大乱」(宋書)が終結した時期は2世紀の末である。卑弥呼の就任時期と近接する。分析によれば、金象嵌の「金」は99.3%以上の純金で、不純物の銀を取り去った技術としては、5世紀の稲荷山鉄剣では銀が10~30%含まれているのと比較して、技術が高度である。

  • 指定 重要文化財・国宝に指定され、東京国立博物館に所蔵される。
  • 重文指定年月日 - 1972年5月30日
  • 国宝指定年月日 - 2017年9月15日

参考例

参考文献

  1. 東大寺山古墳研究会編(2010)『東大寺山古墳と謎の鉄刀』雄山閣
  2. 東京国立博物館、九州国立博物館編『重要文化財 東大寺山古墳出土 金象嵌銘花形飾環頭大刀』同成社
  3. 奈良県東大寺山古墳出土品東京国立博物館
  4. 新国宝をお披露目! 東大寺山古墳出土の謎の大刀

万葉集2023年09月10日 07:24

万葉集(まんようしゅう)は、7世紀から8世紀にかけて成立したとみられる現存するわが国最古の歌集である。

概要

全20巻。約4500首(4516首)の歌を収録する。天皇から防人、農民、一般庶民まで身分に関係なく和歌が収録されていることが大きな特徴である。一人の編者にはよらず、何人かの編者の手によって集められ、様々なプロセスを経て成立したと考えられるが、最終的に大伴家持の手によって20巻構成にまとめられたと考えられている。

構成

「雑歌」「相聞」「挽歌」に分類される。「雑歌」は行幸、遊宴、旅などさまざまな場面の歌が含まれる。「相聞」は主に男女の愛情を歌うが、親子・兄弟姉妹・友人など親密な間柄の唄もある。「挽歌」は人の死を悼む歌である。歌の作者は無名の民衆から大詩人・貴族・天皇に及ぶ。

全巻の内訳

  1. 巻1:宮廷を中心にした雑歌
  2. 巻2:宮廷中心の相聞歌・挽歌
  3. 巻3:巻1・巻2を補う歌
  4. 巻4:巻1・巻2を補う歌。恋のやりとりの歌
  5. 巻5:太宰府を中心にした歌
  6. 巻6:宮廷を中心にした歌
  7. 巻7:作者名のない雑歌・譬喩歌・挽歌
  8. 巻8:四季ごとの歌
  9. 巻9:旅と伝説の歌
  10. 巻10:作者名のない四季の歌
  11. 巻11:恋の歌・相聞歌のやり取り
  12. 巻12:巻11に同じ
  13. 巻13:長歌を中心とする歌謡風の歌
  14. 巻14:東国で歌われた東歌
  15. 巻15:遣新羅使人の歌、中臣宅守と狭野弟上娘子の悲恋の歌
  16. 巻16:伝説の歌、滑稽な歌
  17. 巻17:巻20まで大伴家持の歌日記。若い頃の周縁の人々の歌
  18. 巻18:越中国の歌など
  19. 巻19:孝謙天皇時代の歌もある
  20. 巻20:防人の歌など

年代

通常、四期に分けられる。第一期は初期万葉歌と言われる。 もっとも新しい歌は天平宝字3年(759)正月の大伴家持の歌であるため、編纂はそれ以降となる。万葉集巻第1の1番歌は、5世紀後半の雄略天皇の歌とされているが、磐姫皇后の 歌も雄略天皇の歌も実作ではなく、後世に詠まれた歌に人物像を当てはめている。したがって、最古の歌は確定できない。

  • 第一期 舒明天皇即位(629)〜壬申の乱(672)
  • 第二期 壬申の乱〜平城京遷都(710)
  • 第三期 平城京遷都〜天平五年(733)
  • 第四期 天平六年〜天平宝字三年(759)

代表的な歌人

  • 額田王
  • 大伴家持
  • 柿本人麻呂
  • 山部赤人(やまべのあかひと)
  • 山上憶良(やまのうえのおくら)
  • 志貴皇子(しきのみこ)

写本

「万葉集」の原本は発見されていない。20巻すべてが揃う最古の写本は、鎌倉時代後期の写本であり「西本願寺本万葉集」といわれる。 万葉集の伝本は訓読の歴史の順、つまり加点の順に古点本、次点本、新点本と分類される。天暦5年(951年)年の詔によって源順等梨壷の五人が加点したという古点本は現存せず、次点本では桂本が最古の写本といわれる。嘉暦伝承本、藍紙本、元暦校本など十種ほどを数えるが、いずれも完本はない。 平安時代の『万葉集』書写本のうち、「元暦校本」「桂本」「藍紙本」「金沢本」「天治本」を「五大万葉集」と呼ぶ。「元暦校本」は巻第20に元暦元年(1184年)に校合したとする奥書があるからである。これらの中ではもっとも歌の数が多く、能書による寄合書になることなどから、特に重要視される写本である。広瀬本万葉集は、今から二百十余年前の天明元年(1781年)に写されたもので、最近発見された。紀州本万葉集は第一巻から第十巻までは鎌倉時代末期に書写されたものであり、古い形式を留めている。また第十一巻から第二十巻までは室町時代末期に書写により補ったとみられる。

  • 桂 本(平安時代中期)
  • 藍紙本(平安時代中期)
  • 元暦校本(平安時代中期)
  • 天治本(平安時代後期)
  • 金沢本(平安時代後期)
  • 類聚古集(平安時代後期)
  • 尼崎本    (平安時代後期)
  • 尼崎本(平安時代末期)
  • 類聚古集 (平安時代末期)
  • 金沢文庫本 (室町時代初期)
  • 栂尾類切   (室町時代後期~江戸初期)
  • 嘉暦伝承本(鎌倉時代初期)
  • 古葉略類聚鈔(鎌倉時代中期)
  • 春日本 (鎌倉時代中期)
  • 伝壬生隆佑筆本(鎌倉時代中期)
  • 西本願寺本(鎌倉時代後期)
  • 紀州本(1~10巻 鎌倉時代末期 11~20巻 室町時代後期)
  • 伝冷泉為頼筆本 (室町時代)
  • 神宮文庫本 (室町後期)
  • 大矢本 (室町末期)
  • 温故堂本 (室町末期)
  • 細井本 (江戸初期)
  • 京都大学本 (江戸初期)
  • 活字無訓本 (江戸初期)
  • 活字附訓本 (江戸初期)
  • 寛永版本 寛永20年(1643)

参考文献

  1. (校注)佐竹昭広,山田英雄,工藤力男,大谷雅夫,山崎福之(2016)『万葉集(全5冊)』岩波書店

庚寅銘大刀2023年08月23日 21:25

庚寅銘大刀(こういんめいたち)は福岡県福岡市にある元岡古墳から出土した金象嵌の庚寅の干支銘文を持つ6世紀の鉄刀である。

概要

庚寅銘大刀は、2011年(平成23年)に福岡県福岡市西区の元岡古墳群(元岡・桑原遺跡群)にある元岡G-6号墳の石室から出土したものである。 6号墳は谷の奥に作られた古墳で、墳丘の直径が18mの横穴式石室墳である。墳丘は果樹園の造成により完全になくなっていたが、発掘の結果、墳丘の周りを囲む溝と南側に入口を開けた石室が見つかった。石室の中からは大刀(たち)1振のほか、大型青銅鈴、鉄製の武器・工具・馬具、土器、玉類や耳環等の装身具が出土した。古墳に副葬されている大刀は直刀である。2011年9月7日、G―6号墳から大刀を取り上げ、センターに持ち帰り透過X線撮影すると19文字を確認できた。9月21日に記者発表を行った。12月12日、象嵌は金と判明した。2015年(平成27年)1月7日、銘文19文字の表出が完了した。銘文発見までの時間の2時間はこれまでの最短であった。

金錯銘大刀(庚寅銘大刀)

7世紀に築造されたG―6号墳から西暦570年とみられる「庚寅」の干支と「正月六日」の日付が刻まれた鉄刀が見つかった。刀身の棟(むね・背中の部分)に金色の文字が象嵌されている。象嵌には純度の高い金(91~93%)が使われている。 大刀は、九州大学の移転地である福岡市西区の元岡古墳群から出土した。全長74.5 cm、刀身長は65.0 cm、身幅は3.0 cm。元嘉暦に照らすと、正月六日が庚寅になるのは、西暦570年である。日本における暦資料として学術的に貴重なものとなる。「具体的な年月日を記した初めての国産刀剣の出土」であるとともに、「暦を使用した最古の事例」であり、「日本列島で元嘉暦を使いこなしていた証拠」となる、

銘文のある鉄剣・鉄刀

これまで日本で銘文のある鉄剣・鉄刀は以下の7点がある。(*は干支の記載があるもの)

  1. 稲荷台一号墳「王賜」銘鉄剣(千葉県市原市)
  2. 江田船山古墳「獲□□□鹵大王」銀象嵌銘大刀、熊本県玉名郡和水町)
  3. 稲荷山古墳「獲加多支鹵大王」金錯銘鉄剣(埼玉県行田市)*
  4. 岡田山一号墳「各田部臣」銀象嵌銘鉄刀(島根県松江市)
  5. 箕谷二号墳「戊申年」銅象嵌銘鉄刀(兵庫県養父市)*
  6. 東大寺山古墳出土鉄刀、金象嵌「中平年」(184年-189年)*
  7. 勝福寺古墳の刀の柄の模様、金象嵌、6世紀前葉
  8. 石上神宮伝世の七支刀

原文

  • 大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□
  • (大意)570年1月6日(西暦では1月27日)に刀を作った。およそ十二回の鍛錬を施した。□=錬と推定

時期

古墳は7世紀前半。6世紀後半

指定

  • 2019年(令和元年)7月23日に重要文化財に指定された。指定名称は金錯銘大刀。

参考文献

  1. 福岡市教育委員会(2013)『福岡市埋蔵文化財センター年報 第31号』
  2. 福岡市教育委員会(2018)『元岡・桑原遺跡群30-元岡古墳群G-6号墳庚寅銘大刀の考察』福岡市埋蔵文化財報告書第1355集
  3. 福岡市教育委員会(2013)『元岡・桑原遺跡群22』福岡市埋蔵文化財報告書第1210集

中原高句麗2023年08月19日 23:27

中原高句麗碑(ちゅうげんこうくりひ,중원 고구려비)は朝鮮半島で発見された高句麗碑である。 韓国では現在、「忠州高句麗碑」と呼ぶ。

概要

1978年に大韓民国忠清北道中原郡(現在の忠州市。1995年改称)中央塔面龍田里で発見された碑石 忠州高句麗雨は1979年2月末、、檀国大学博物館学術調査団によって発見された。 発見された当時の行政区域は中原郡でああったため中原高句麗費と命名された。その後、中原郡が忠州市に統合されたため、韓国では現在、忠州高麗雨費と呼ぶ。 当時は文字のない「白碑」と考えられていた。ところが拓本をとったところ文字があらわれ、学術研究の末に高句麗碑であることが確認された。 磨耗が激しい後面及び右面は判読不能である。 前面計391字分のうち,約244字が判読されている。右側面は7字分が判読されている。 2000年の精密調査により裏面で一部の文字の痕跡を確認した。四面碑であったとされている。広開土王碑は純中国式漢文で書かれているのに対し、中原高句麗碑は征服地の新羅の民に読ませるため、新羅語の制約を受けた表記法になっている。

大意

高句麗と新羅との関係を兄弟になぞらえながら、高句麗を「大王」として新羅王を「東夷之寐錦」と位置づけている。 高句麗が寐錦以下の官に衣服を下賜したこと、すなわち王以下が高句麗の衣服を受け入れ、新羅を東夷と呼ぶ、高句麗が新羅の領土内に軍事責任者である幢主を置いたこと、新羅領内で300人を徴発し高句麗軍官の指揮下に置いたことなど、新羅が高句麗に従属したこと、などが記され、朝鮮半島内に勢力を拡大した長寿王の時代に高句麗が新羅を従属させていたことを示す資料である。

立碑目的

高句麗は続々と新羅の領土を侵略していた時代のため、高句麗にはこのような権威があるということを新羅の人達に読ませたいという目的で書かれたと言われる。

素材

花コウ岩を使った四角石柱形である。 高さ2.03m、幅は55cm、厚さは33cmである。

発見場所

大韓民国忠清北道中央塔面龍田里

書体

釈文

展示

  • 名称:中州高句麗碑展示館
  • 目的:高句麗の威光を示すために建てられた忠州高句麗碑(国宝第205号)を保存する展示館
  • 所在地:忠清北道忠州市中央塔面龍田里280-17
  • 休館日:月曜日、旧正月、秋夕

指定

  • 1981年3月18日、大韓民国国宝第205号に指定された

参考文献

  1. 中原高句麗碑拓本,九州国立博物館

集安高句麗碑2023年08月19日 23:25

集安高句麗碑(しゅうあんこうくりひ)は広開土王碑と同時期とされる高句麗の石碑である。

概要

2012年年7月29日の午前、中国・集安市麻線村五組の村民の馬紹彬が麻線河に石を採集に行ったとき、右岸で古い橋の下の100mあまりの河床に文字のある大ぶりの石板をみつけた。鍬で掘ると、結局、掘れば掘るほど石は大きくなり、掘り出すと大きな石板が現れた。上面に文字が書かれている。ただの石板ではなく、文物にちがいないと感じた。ショベルカーを雇って石板を運ばせて自宅の玄玄関の隣に置いてどのように加工するか考えていた時に、石板の上に文 字のようなものを見つけた。文字を確認するため、父親の家まで拡大鏡を借り、父親の馬晋坦と数人の村民も一緒に馬紹彬の門前に石板を見に来た。細かく観察すると確かに石版の上には文字があることがわかった。さらに詳しく石版を調べてみると、上部は一角が欠けた三角形のような形をしており、底部には長方形のほぞがあったため、石碑の可能性があり文物部門に報告する必要があった。馬紹彬はすぐに石碑のスケッチをして携帯電話のカメラで石碑の写真を撮った。その後、文物保護派出所に電話をかけた。(本来なら出土地に置いて連絡すべきであった) 集安市委員会は石碑の保護と研究にあてる予算を確保した。省文物鑑定委員会常務委員、通化市文物保護研究所所長の王志敏は石碑の石材、形状と碑文から、この石碑は高句麗好太王時期以前の石碑である可能性が高いと初期判定を行う。国家と省の関係部門の要求によって、集安高句麗碑保護研究指導班を設置し、著名専門学者の林澐、魏存成、張福有、耿鉄華、孫仁杰を招聘して石碑の検討を進めた。結論として、この石碑は高句麗時期の碑刻であり、年代は好太王から長寿王にかけての時期と最終確定した。 後の調査によって、石材は現地、麻線の建疆、紅星採石場で採れることがわかった。

発見場所

集安市麻線溝盆地の、世界文化遺産千秋墓から約456m、世界文化遺産西大墓から約1149m。 洞溝古墳群の中心地帯であり、1万以上の高句麗時代の墳墓がある。麻線墓区は洞溝古墳群の最も西側である。

書体

高句麗は漢字の隷書を公式書体としていた。碑文の書体は流暢にして秀麗であり、後世の人が採拓し模写するのに適した、高句麗の文字書法を研究するうえで新たな貴重な史料となった。

碑の石材

粉黄色の花崗岩で構成され、圭形である。石碑の碑体は平たい長方形を呈し、上が狭く下が広い。碑の表面は正・背両面と左右両側は加工され、平滑に整えられている。碑身は正・背両面が精緻に加工され、表面は平滑である。 正面上半部分の碑文は摩耗が深刻だが、下半部の碑文は摩耗が比較的軽微で、背面は全体的に磨滅が深刻で、人に壊された形跡がある。 碑の高さは約173cm、幅は60.6cmから66.6cmである。もとは碑座があったはずであるが、残っていない。

碑文の状態

石碑の正面陰刻碑文は漢字の隷書で、全体の配置は非常に規則的で、上から下へ、右から左へ縦書きされており、全文で計218字あるが、右上の欠損で約10字が決失し、石碑が長期間河床にあったため河の水で洗われ砂や石で磨滅していることにより、一部の文字が糢糊としているが、初期検討により特定できた文字が140字あった。石碑の表面には陰刻の碑文があり、右から左に縦書きで10行漢字の隷書が刻まれており、右の1行目から9行目まではすべて22字、最後の一行は20字で、原文は合計218字で、右上部は欠損しているため約11文字が失われている。また、長期間河の中で水や砂に削られたため、一部の文字はぼんやりしている。判読可能な文字もある。裏面には一行文字が掘られているが、ぼんやりしているため判読は難しい。

釈文

1 □□□□世必授天道自承元王始祖鄒牟王之創基也 2 □□□子河伯之孫神霊祐護蔽蔭開国辟土継胤相承 3 □□旧民各家煙戸以此河流四時祭祀然而□偹長煙 4 戸亦転売煙戸為禁旧民富庶檀転売韓穢守墓者以銘 5 守墓人標然唯国罡上太王号平安太王神武上与東西 6 甘家巡故国追述先聖功勲弥高悠烈継古人之慷慨 7 此河流丁卯歳干石自戊申定律教言発令其修復各於 8 祖先王墓立碑銘其煙戸頭廿人名以示後世自今以後 9 守墓之民不得擅自更相転売雖富足之者亦不得其買 10 売如有違令者後世□嗣□□看其碑文与其罪過

以下は、荊木美行(2015)による。 (1)1行目の□□□は「惟雄才不」と推定。 (2)2行目の□□□「天帝之」と推定。 (3) 2行目の□□は「遠近」と推定。

参考文献

  1. 荊木美行(2015)「吉林省集安市発見の高句麗碑について」皇學館大学紀要53, 1-32
  2. 孫仁傑(2014)「集安高句麗碑の発見の経緯と碑面の現状」早稲田大学総合研究機構プロジェクト研究 9,pp.131-149

法隆寺金堂薬師如来像光背銘2023年08月19日 23:04

法隆寺金堂薬師如来像光背銘(ほうりゅうじ こんどう やくしにょらいぞう こうはいめい)は奈良県の法隆寺にある薬師如来像の光背の裏面に刻された90文字の銘文である。

概要

本銘文は年紀を有する金石文として法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘とともに知られている。 しかし、推古15年(607年)に法隆寺を建立したときの造立とは断定できない。 「聖王」と書かれていることから、聖徳太子信仰が生まれる年代が想定される。推古朝よりかなり後代の成立と考えなければならないであろう。 銘文は縦29.7cm余、横13.2cm余でに、90字を5行で陰刻する。1行目から順に、16字・19字・18字・19字・18字ある。

原文

早稲田大学のサイトに画像が公開されている。釈読は次の通りである。

  • 池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳
  • 次丙午年召於大王天皇與太子-而誓願賜我大
  • 御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然
  • 當時崩賜造不堪小治田大宮治天下大王天
  • 皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉

大意

「用明天皇が病気の時、平癒を念じて寺(法隆寺)と薬師像を作ることを誓ったが、果たさす前になくなった。のちに小治田大宮治天下大王天皇(推古天皇)と東宮聖王(聖徳太子)が遺詔を奉じ、推古15年(607年)に建立した。

評価1

「池邊大宮天皇」は用明天皇(~587)のことであり、用明天皇が病気のときには、推古はまだ天皇(大王)ではないので、推古天皇を大王天皇と書くこの銘文はすくなくとも推古天皇即位後に書かれている。大王天皇の呼称は「大王」がアマタリシヒコの称号であるから、さらにアマタリシヒコの没後に製作年はずれ込む。

評価2

天武・持統朝以後の成立という意見が多くの支持を得ている。

  1. 「天皇」号の成立年代、
  2. 薬師仏信仰の年代、
  3. 「聖王」の称号使用、
  4. 「大王天皇」の並列、
  5. 推古朝当初から日本語化の進んだ文章は存在しない、 ことなど推古朝の成立とは認めがたい多くの問題があるとされている(瀬間正之(2014))。

書風

本銘文は7世紀後半の筆跡の刻字と推定されている。理由は(;1)初唐の頃の書風(隋唐書風)である、(;2) 金剛場陀羅尼経の書風と類似するが、本経の書写年次は大宝令以前の686年(朱鳥元年)とするのが定説である。

参考文献

  1. 法隆寺金堂金銅薬師如来坐像光背銘],早稲田大学学図書館
  2. 瀬間正之(2014)「推古朝遺文の再検討」『聖徳太子の真実』pp.75-93、平凡社
  3. 福山敏夫(1935)「法隆寺の金石文に関する二三の問題」『夢殿』13
  4. 渡辺茂(1967)「古代君主の称号に関する二三の問題」『史流』8
  5. 東野治之(1969)「天皇号の成立年代について」『正倉院文書と木簡の研究』橘書房
  6. 竹内理三編(1962)『寧楽遺文 下巻』 訂正版,東京堂出版

野中寺弥勒菩薩半跏像2023年08月14日 23:04

野中寺弥勒菩薩半跏像(やちゅうじみろくぼさつはんかぞう)は大阪府羽曳野市にある野中寺にある弥勒菩薩半跏像である。

概要

1918年(大正7年)5月に、野中寺宝蔵の塵埃の中から発見された。像高18.5cmである。 「5月17日田澤、中両氏と河原古市町の西野々上の野中寺を訪ひ、塵挨にまみれつつ宝蔵内を検索したるに、蔵の一隅塵芥中から偶然にも一つの金銅佛像を見出した。像は高さ一尺に満たないが行相から見ると疑いもない弥勒像で、八角獅子座の上に半跏趺坐した円満具足の霊像であつた。」「左手を膝に右手を届めて、指頭で軽く左頬を指し、隻足を座から浮き出た八分開きの蓮座の上に軽く置いて居る。」(大阪毎日新聞、大正7年(1918)5月21日付) 毎月18日に開帳される。金銅弥勒菩薩半跏像で飛鳥時代の数少ない年紀銘がある作例である。飛鳥様式から白鳳様式への転換を象徴する基準作例とされる。 「丙寅年」は666年(天智5年)である。4月8日が「癸卯」にあたるのは、天智5年(666)のみである。

栢寺

木崎愛吉は「刻銘にある「栢寺」を、「橘寺」と解釈し」、「四十八体佛は最初橘寺より法隆寺に伝はり、近歳更に献納されて御物となるに至れりといふ記録上(法隆寺の写本古今一陽集)の実証を提供せるものというべく、殊に当初四十九体ありきといえるその不足の一体は、この新発見の弥勒仏を得て、何となくその件数を補へるもののように思い当るをなしとせず。」と書く。銘文の「栢寺」を、「橘寺」と解する見方は、最有力の説であったが、現在は「栢寺」をどの寺院に該当するかの定説はない。

中宮天皇

「天智天皇説」、「斉明天皇説」、「間人皇后説」があるこの時期に「天皇」文字が使われているのは古い事例といえる。鍋田(1954)は中宮天皇は斉明天皇を示すという。しかし、斉明天皇は661年に亡くなっているので、前後関係が合わない。

製作技法

装飾文様に魚々子鏨を使用していない。白鳳期の金銅仏には着衣や装身具などに魚々子鏨で装飾文様をあらわす作例が多く見られるが、本像の装飾文様には魚々子鏨が全く使用されていない。魚々子鏨を用いると簡便かつ鮮明に表現できるように思える箇所でも、通常の鏨を用いて彫りあらわしている。飛鳥時代の仏像にみられる「古拙の微笑」は見られない。裳や台座などの各所にはタガネで文様を刻む。

偽銘説

東野(2000)は野中寺・弥勒半跏像は刻銘は、近代、明治末年以降の偽銘と指摘した。 藤岡穣は「刻銘をめぐっては従来さまざまな疑義が呈され、像そのものを近代の作とみるむきもあつた。これに対し、近年の研究で元禄12年(1699)成立の『青龍山野中律寺諸霊像目録』に『弥勒大士金像』の文言が見出され、大阪・大聖勝軍寺で江戸時代の作とみられる本像の模刻像が再確認されたことにより、少なくとも擬古作との疑念は払拭された」と書く。

指定

  • 1921年(大正10年)8月8日 重要文化財 指定

釈文

  • 丙寅年四月大朔八日癸卯開記柏寺智識之等詣中宮天皇
  • 大御身労坐之時誓願之奉弥勒御像也
  • 友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也

野中寺

飛鳥時代、聖徳太子が蘇我馬子の助力を得て建立したと伝えられる寺。太子町・叡福寺の「上の太子」、八尾市・大聖勝軍寺の「下の太子」とならぶ「河内三太子」のひとつ。飛鳥時代の創建伽藍は南北朝時代の兵火で焼失。

  • 宗派:高野山真言宗
  • 所在地:〒583-0871  大阪府羽曳野市野々上5丁目9-24
  • 交通:近鉄南大阪線「藤井寺駅」より「野々上」バス停下車

参考文献

  1. 礪波恵昭(2015)「野中寺弥勒菩薩半跏像の再検討」皇學館大学紀要53, pp.1-32
  2. 松田真平(2010)「野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証」『佛教藝術』313号、毎日新聞社
  3. 小泉惠英(1994)「法隆寺献納宝物一五六号と野中寺弥勒像」大橋一章編著『論争奈良美術』、平凡社
  4. 東野治之(2000)『野中寺弥勒像台座銘の再検討」『国語と国文学』・77巻11号
  5. 藤岡穣(2014)「野中寺弥勒菩薩像について」ミューゼアム649号
  6. 藤岡穣(2915)「白鳳 花ひらく仏教美術 開館120年記念特別展 図録」奈良国立博物館
  7. 鍋田一(1954)_天皇という文字の初出の時期についてー覚書3