物部麁鹿火 ― 2023年05月28日 22:28
物部麁鹿火(もののべのあらかい、?- 536年)は古墳時代の豪族である。 物部荒甲とも記す。父は物部麻佐良【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】。
概要
古代のヤマト政権で武将として活躍した。ヤマト政権の大連として大伴金村と行動を共にし、継体大王を擁立する。
影媛事件
『日本書紀』武烈11年記事が初出である。小泊瀬皇子は時物部麁鹿火の娘の影媛を召そうとした。影媛は平群鮪と結婚していたので、影媛は小泊瀬皇子との約束を破ることを恐れて、海柘榴市で待つと答えた。小泊瀬皇子は約束の場所に行き、影媛の袖を引くが、平群鮪が妨げる。小泊瀬皇子は影媛が平群鮪と結婚していた(影媛は平群鮪をわが夫と呼んでいる)ことを知り、怒る。大友金村は平群真取の家を取り囲み一族を殺した。
- (『日本書紀』原文、武烈十一年八月) 於是、太子、思欲聘物部麁鹿火大連女影媛、遺媒人向影媛宅期會。影媛、會姧眞鳥大臣男鮪。
継体大王の擁立
継体元年、武烈の崩御後、大友金村と物部麁鹿火らは男大迹王に働きかけ、即位させる。即位後に大伴金村と共に再び大連に任ぜられた。
- (『日本書紀』原文、継体元年春正月) 物部麁鹿火大連・許勢男人大臣等、僉曰「妙簡枝孫、賢者唯男大迹王也。」丙寅、遣臣連等、持節以備法駕、奉迎三國。夾衞兵仗、肅整容儀、警蹕前駈、奄然而至。於是、男大迹天皇、晏然自若、踞坐胡床、齊列陪臣、既如帝坐。持節使等、由是敬憚、傾心委命、冀盡忠誠。
任那割譲事件
継体6年12月、百濟は任那の4県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)を割譲するよう要請した。大友金村はこれを受け入れ、物部麁鹿火を勅使にして勅命を伝えさせようとしたが、麁鹿火の妻が諫めたので病を理由に麁鹿火はでなかった。金村は他の使いに迎賓館のあった難波で百済の使者に勅命を伝えさせた。 ところが日本書紀は任那が倭国の植民地であったように記載するが、任那は栄山江流域の牟婁や哆唎まで達してはいなかったし、植民地でもなかった。歴史的事実に反するので、史実というより創作の混じる記事とみる方がよい。
- (『日本書紀』原文、継体六年冬十二月)物部大連、方欲發向難波館、宣勅於百濟客、其妻固要曰「夫住吉大神、初以海表金銀之國高麗・百濟・新羅・任那等、授記胎中譽田天皇。故、大后息長足姬尊與大臣武內宿禰、毎國初置官家爲海表之蕃屏、其來尚矣。抑有由焉、縱削賜他、違本區域。綿世之刺、詎離於口。」大連、報曰「教示合理、恐背天勅。」其妻切諫云「稱疾、莫宣。」大連依諫。
磐井の乱
継体22年、筑紫国造磐井の乱を鎮圧するため、大将軍として九州に行き磐井と交戦し打ち破る。
- (『日本書紀』原文、継体廿二年冬十一月)大將軍物部大連麁鹿火、親與賊帥磐井交戰於筑紫御井郡。旗鼓相望、埃塵相接、決機兩陣之間、不避萬死之地、遂斬磐井、果定疆場。
死去
宣下元年7月に物部麁鹿火は亡くなった。
- (『日本書紀』原文、宣下元年)秋七月、物部麁鹿火大連、薨。是年也、太歲丙辰。
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
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