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纒向矢塚古墳2023年05月23日 21:01

纒向矢塚古墳(まきむくやづかこふん)は奈良県桜井市にある前方後円墳である。

概要

纒向型前方後円墳である。後円部はやや東西に長い楕円形。周濠は後円部のみで地形に合わせて前方部に向かう途中で途切れ、後円部南側では堀削直後にブロック状の盛土が築かれる。後円部径と前方部長の比率が2:1となる「纒向型前方後円墳」の典型例である。

調査

第1次調査は1971年(昭和46年)、導水溝と周濠の接続部付近から庄内3式期と推測される土器群が出土する。第3次調査は2007年(平成19年)、古墳の範囲を確認するための調査。前方部前面側から周濠外側の地山の位置、削平を受けている可能性があるものの、前方部墳丘との距離から本来の長さを考えると、纒向型前方後円墳の形式であることが確認された。周濠部の発掘調査において、幅23mの濠が確認されている。

規模

  • 墳長 96m
  • 後円部 高7m
  • 前方部 幅40m 長32m 高2?
  • 葺石 - あり
  • 周濠 - あり(幅20m、深さ1m)。

遺構

埋葬施設は未調査。墳頂に板石が散乱しており、竪穴式石室の存在が想定される。

出土品

土器は庄内2式から3式以降の土師器である。布留形式はない。

築造時期

展示

指定

  • 2006年1月26日 - 纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定された。

アクセス等

  • 名称:纒向矢塚古墳
  • 所在地:桜井市東田町字矢塚
  • 交通:JR巻向駅から徒歩12分

参考文献

  1. 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
  2. 桜井市教育委員会(2009)『平成19年度国庫補助により発掘調査報告書』桜井市教育委員会

西殿塚古墳2023年05月23日 21:02

西殿塚古墳(にしとのづかこふん, Nishitonotsuka-kofun Tumulus)は奈良県天理市にある前方後円墳である。

概要

天理市の南の大和古墳群では最大規模の古墳である。「大王墓クラス」とみられている。東側に東殿塚古墳が隣接する。農地解放などで後円部などは畑や果樹園となった。 日本考古学協会の森岡秀人理事は「箸墓古墳と比べると、斜面が崩れにくい構造になっており、より完成度が高い」としている(参考文献1)。 墳丘自体は宮内庁管理のため立ち入れないが、墳丘裾は民有地のため調査できる。 墳丘は整然とした東側は三段築成、西側は四段築成。前方部と後円部の頂上部に巨大な石積みの方形壇(一辺35m、高さ2.6m)がある。方丘に葺石が認められる。弥生時代の方形土壇の名残とも考えられる。後円部東側で12本のトレンチを行った。三段構成で前方部が僅かに撥方に開き、葺石、円筒埴輪が確認された。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:4段、後円部:4段
  • 墳長 219m
  • 後円部 径135m 
  • 前方部 幅118m 
  • 外表施設 円筒埴輪 円筒Ⅰ式・朝顔形Ⅰ~Ⅱ式、円筒Ⅰ式(普通円筒埴輪)
  • 葺石 あり

遺物

墳丘の立ち入り調査で、特殊器台型埴輪、特殊器台型土器、特殊壺型埴輪を100点余り採集した。墳丘裾から多数の埴輪を検出した。また線刻をもつ埴輪が見られた。箸墓古墳には埴輪列がないが、西殿塚古墳には埴輪列が存在する。

  • 【その他】くびれ部から前方部の東側に周濠相当の落ち込みあり。
  • 後円部頂(一辺25m)・前方部(一辺20m)ともに方形の壇あり。
  • 1990年、宮内庁により墳丘内採集遺物の報告。
  • 後円部方形壇北西隅に結晶片岩の板石。
  • 墳丘各所に特殊器台形土器・特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪。文様構成上はⅠ~Ⅲ類(宮山型・都月型2類)に分類。ただし無文の破片もあり、一部に普通円筒埴輪が含まれている可能性がある。これらは本墳の編年上、課題となる資料である。

盗掘事件

2012(平成24年)年8月、前方部墳頂の方形壇中央部が東西2m・南北1mにわたり盗掘される盗掘事件が起き。東京在住の歴史愛好家の男性という。パトロール中の宮内庁職員が偶然見つけた。

レーザー測量

2012年(平成24年)2月、奈良県立橿原考古学研究所とアジア航測株式会社により、西殿塚古墳と箸墓古墳(桜井市)の3次元航空レーザー計測が行われた。

被葬者

宮内庁は手白香皇女(継体天皇皇后)衾田陵に治定している。しかし、本古墳は3世紀後半の築造であり、箸墓古墳に続く時代である。日本書記によれば、手白香皇女は6世紀前半の人物であるから、時代は合わない。吉備様式の特殊器台、埴輪、墳丘の形状などから、築造時期は3世紀後半から4世紀初めと見なされている。箸墓古墳に次ぐヤマト王権の大型古墳とされる。白石は宗女の壱与と推定する説を唱える(参考文献3)。崇神天皇陵とする説(参考文献4)がある。

アクセス等

  • 名称 西殿塚古墳
  • 被葬者:壱与説、崇神天皇説、手白香皇女説
  • 築造時期:3世紀末から4世紀初頭
  • 所属: 大和古墳群(中山支群)
  • 墳丘: 長約230メートル
  • 後円部直径:140メートル
  • 前方部幅:118メートル
  • 高さ:16メートル(東側)
  • 所在地:〒632-0042 奈良県天理市萱生町183
  • 交通:JR桜井線 柳本駅から2.1km JR柳本駅から北東1.6Km国道169号から下池山古墳の近くへ進む。龍王山の北西尾根斜面を登り坂道の集落の先。

参考文献

  1. 陵墓立ち入り、壱与の墓?も調査」四国新聞,2013年2月20日
  2. 奈良・西殿塚古墳に巨大な石積み方形壇;https」2014年4月9日,日本経済新聞
  3. 白石太一郎(2004)『考古学と古代史の間』筑摩書房
  4. 和田萃(2003)『三輪山の古代史』学生社
  5. 天理市教育委員会(2000)『西殿塚古墳 東殿塚古墳』

行燈山古墳2023年05月23日 21:04

行燈山古墳(あんどんやまこふん)は奈良県天理市にある前方後円墳である。

概要

『古事記』には「御陵在山辺道勾之岡上也」(御陵は山辺道の勾之岡の上に在り)と記載され、『日本書紀』では「山辺道上陵」と記載される。 崇神大王の陵墓「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのうえのみささぎ)」として陵墓に指定されており、宮内庁が管理している。3基の陪塚を伴う。築造年代は4世紀後半(古墳時代前期後半)の早い時期と推測されている。

調査

墳丘全長242mの3段築成の古墳である。後円部の周濠の幅は25mあり、堀幅を含めた古墳の全長は340mの規模になる。周濠は北側にくびれ部があり、盾型となっている。大和政権の成立の謎を握る重要古墳と言われているが、考古学的には不明な点が多い。平成29年2月24日に、考古・歴史学15学会代表による立ち入り調査が行われた。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:3段?、後円部:3段?
  • 墳長 242m
  • 後円部 径158m 高31m
  • 前方部 幅100m 長84m 高13.6m
  • 外表施設 円筒埴輪 円筒Ⅱ式
  • 葺石 あり

陪塚

古墳の周囲に3基の陪塚がある。南アンド古墳(全長65m)、アンド山古墳(全長120m)、大和天神山古墳(103m)である。全て前方後円墳で、地方では豪族クラスの規模となる。大和天神山古墳からは1960年におこなわれた発掘調査で竪穴式石室の内部からは木棺の一部とともに内行花文鏡をはじめとする23面の鏡と、多量の水銀朱が出土した。

遺構

埋葬施設は不明であるが、昔の絵図に後円部墳頂に南北方向の盗掘跡と見られる掘り込みが描かれており、掘り込みの様子から竪穴式石室と考えられている。

遺物

古墳には円筒埴輪の存在が知られる。江戸時代末に柳本藩が大修復を行い、その工事で南側の周濠から長さ70cm、幅約50cmの銅板1枚が発見された。その両面の方形格や内行六花紋、重圏紋などが線刻されている。銅板は行方不明だが、拓本が残されている。宮内庁書陵部の調査では円筒埴輪、土師器須恵器などが出土している。

指定

崇神大王

『古事記』では「初国を知らす御真木天皇」とされている。『古事記』に師木の水垣宮(現桜井市金屋)で天下を治めた。大物主大神の祟りによって疫病が蔓延したとき、神託に従って意富多々泥子(大物主大神の子孫)を探し求め、美和山(三輪山)に祭らせることにより再び国家は平安となった。また、諸国平定のため大毘古命・建沼河別命親子を高志道・東国十二道へ派遣し、日子坐王を旦波国へ派遣した。さらに反乱を企てた建波爾安王を討滅している。また、税制度も確立したとされている。江戸時代後期には、蒲生君平が『山陵志』で景行天皇陵に比定し、幕末に谷森善臣が『山陵考』で崇神天皇陵に比定して、明治時代に宮内省(現・宮内庁)それを踏襲して崇神天皇陵と比定した。

アクセス等

  • 名称:行燈山古墳
  • 形式:前方後円墳
  • 被葬者: 大王あるいは有力首長の墓
  • 築造時期: 4世紀後半(古墳時代前期後半)
  • 所在地: 天理市柳本町字行燈
  • 交通: JR柳本駅から徒歩15分

参考文献

  1. 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社
  2. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版

渋谷向山古墳2023年05月23日 21:05

渋谷向山古墳(しぶやむかいやまこふん)は奈良県天理市にある前方後円墳である。

概要

字の名を取って「渋谷向山古墳」と呼ばれる宮内庁は「景行天皇陵」とする。実際の被葬者は不明である。山麓の傾斜が変わる場所に立地し、周濠を巡らせ、前方部を奈良盆地に向ける。 これまでに出土した土器から4世紀後半(古墳時代前期後半)とされている。前方後円墳、円墳、方墳、各1基の陪塚を持ち、4世紀の古墳としては最大規模の古墳である。

調査

2016年2月26日、日本考古学協会など考古学・歴史学関係の団体に所属する研究者らが立ち入り調査し、墳丘や周濠を観察した(産経新聞2016/2/27)。 当初よりいくつかの陸橋の存在が判明(宮内庁書陵部の調査より)・1993年、宮内庁調査により後円部北側に段築基底石を検出。墳裾の拡大する可能性が大きくなった。また当初の外堤は低く貯水機能をあまり見積もることができない。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:3段、後円部:3段
  • 墳長 300m
  • 後円部 径170m 高26m
  • 前方部 幅170m 長130m 高24m
  • 外表施設 
    • 円筒埴輪 円筒・朝顔形Ⅱ式(円形透孔が多く見られる)
    • 形象埴輪 楯形・蓋形
  • 葺石 あり

遺構

  • 周濠 あり(元は楯形か)。

遺物

遺物は埴輪や土器などのみである。宮内庁書陵部の調査による円筒埴輪(普通円筒埴輪・鰭付円筒埴輪・朝顔形埴輪)・形象埴輪(蓋形埴輪・盾形埴輪)である。伝世品として関西大学が所藏する石枕があり、1864年の出土とされる。碧玉製で、重さ24キログラム、外縁・側面に線刻がある。関西大学博物館に所蔵される。渋谷村出土とされる三角縁波文帯神獣鏡は京都国立博物館に所蔵される。

指定

景行大王稜

「景行天皇山辺道上陵(けいこうてんのうやまべのみちのへのみささぎ)」として宮内庁が管理する(宮内省諸陵寮編(1934))。『日本書紀』に九州を巡幸して熊曾・土蜘蛛を討伐したとあるが、これらの記事は『古事記』には確認できない。

アクセス等

  • 名称:渋谷向山古墳
  • 形式:前方後円墳
  • 被葬者: 大王あるいは有力首長の墓
  • 築造時期: 4世紀後半(古墳時代前期後半)
  • 所在地:奈良県天理市渋谷町向山
  • 交通: JR巻向駅下車 徒歩12分

参考文献

  1. 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社
  2. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  3. 宮内省諸陵寮編(1934)『陵墓要覧. 昭和9年11月調』pp.4-5
  4. 景行天皇陵に立ち入り調査 研究者らが墳丘など確認」,産経新聞,2016年2月27日
  5. 宮内庁 陵墓調査室「平成27年度 陵墓関係調査報告

東大寺山古墳2023年05月23日 21:06

''東大寺山古墳'(とうだいじやまこふん)は天理市櫟本町に所在する全長約140メートルの前方後円墳である。築造時期は4世紀後半である。

概要

奈良盆地東縁の沖積地で70mの低丘陵の尾根上に位置する。かつては東大寺領であったため東大寺山と呼ばれる。古墳は4世紀末から5世紀初頭(古墳時代前期後半から中期初頭)に造られた前方後円墳である。「ワニ」氏の有力者が葬られた古墳と考えられている。埋葬施設は長大木棺を大量の粘土で包んだ粘土槨と呼ばれる形式で、もっとも古い時代の部類に属する。 行燈山古墳渋谷向山古墳の間の時期の築造とみられる(参考文献3,p.201)。

調査

1961年(昭和36年)、1966年(昭和41年)に天理大学付属天理参考館による発掘調査がされ、後円部から葺石円筒埴輪列のほか、靫形・甲冑形埴輪が検出された。2010年に精緻な実測図を掲載した調査報告書が刊行された(参考文献1)。 1961年~1962年の発掘調査で、後円部の埋葬施設から武器・武具・石製品・玉類など多量の副葬品が出土した。木棺は棺床に撒かれた水銀朱の範囲から長さ7.4m前後の長大な棺とみられる。 後円部粘土槨内から、翡翠製勾玉、翡翠製棗玉、緑色凝灰岩製管玉などの玉類62点、腕輪型石製品(鍬形石26点、石製品(車輪石23点、石釧1点)、鏃形48点、坩形13点)、素環頭太刀7点、青銅製環頭8点を含む鉄刀23点。鉄剣14点、鉄槍10点、鉄鏃70点、短甲2点、草摺2点、革製漆塗盾1点などの鉄製武器・武具、鉄製工具類、巴形銅器7点 その中に家形の飾りを付けた三葉環頭大刀や刀身に中国後漢時代の年号(中平年間)を表した金象嵌をもつ大刀などが出土した。大部分は1968年と1970年に国保有となり、1982年に重要文化財に指定された。その後2001年に東京国立博物館に移管された。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 墳長 140m
  • 後円部 径76m 高3.7m
  • 前方部幅:約50m
  • 外表施設 円筒埴輪 円筒Ⅱ式
  • 葺石 あり(径約15cmの河原石)

類似品

巴形銅器としては佐味田宝塚古墳(奈良県)と同型であり、金海大成洞88号墳出土品(韓国金海市)とよく似ている。金海大成洞88号墳の巴形銅器は日本列島で製作されて朝鮮半島に伝わった倭系の遺物と言われる。東大寺山古墳の被葬者が金官伽耶と交渉していた人物であり、中国系遺物を金官伽耶を通じて入手した可能性もあるが、ヤマト王権が金官伽耶との交渉を通じて入手したものを東大寺山古墳の被葬者に分与した可能性もあるとされる(参考文献3,p.204)。

盗掘

1961年と鎌倉時代の2回の盗掘があり、粘土槨北端が破壊された。1961年の盗掘は地元民によるものであった。

遺構

  • 主体部 室・槨 粘土槨
  • 棺 割竹形木棺

遺物

  • 硬玉小形勾玉、
  • 碧玉管玉
  • 碧玉製鍬形石19(破片3)
  • 車輪石15(破片4)
  • 鍬形石・車輪石・筒形石製品(碧玉)
  • 碧玉製鏃形製品10(破片5)
  • 鏃形石製品(碧玉)、
  • 滑石製台付坩形製品1・
  • 滑石製坩形製品6(破片1)
  • 滑石製坩形製品多数。
  • E2・W7、鉄刀:
  • E13(木製漆塗装具2・素環頭6・装飾付三葉環5)・W4(素環頭1、他は不明)、
  • 鉄槍E3・W7。
  • 銅鏃も含めE20~25のグループが5、三角形・方形の尖端、100~125柳葉。
  • 若干の鉄刀剣類
  • 革製短甲2、
  • 巴形銅器7。
  • 棺内遺物は、左記のほかに下記が原位置をとどめていたと思われる
    • 水銀朱
    • 硬玉製小形勾玉5
    • 硬玉製棗玉3
  • 碧玉製管玉30・
    • 鍬形石1・
    • 車輪石1
    • 滑石製坩形製品1
  • 鉄剣 -金錯銘花形飾環頭大刀

アクセス等

  • 名称:東大寺山古墳
  • 所在地:櫟本町高塚2525-1-1
  • 交通:JR西日本 櫟本駅から徒歩約25分
  • 見学:天理教域法大教会の裏にある。見学自由(天理教城法大教会受付に古墳見学を申出る)

参考文献

  1. 東大寺山古墳研究会編(2010)『東大寺山古墳と謎の鉄刀』雄山閣
  2. 東京国立博物館、九州国立博物館編『重要文化財 東大寺山古墳出土 金象嵌銘花形飾環頭大刀』同成社
  3. 坂靖(2020)『大和王権の古代学』新泉社

黒塚古墳2023年05月23日 21:06

''黒塚古墳'’くろづかこふん, Kurozuka Tomb)は天理市柳本町に所在する古墳時代前半の前方後円墳である。

概要

1997年から1999年にかけて、奈良県立橿原考古学研究所と天理市教育委員会、地元で組織する調査委員会によって学術発掘が実施された。竪穴式石室を狙った中世の大規模な盗掘坑がうがたれ、石室は大きく破壊されていた。しかし盗掘は石室に届いていなかった。中世に起きた大地震で石室が崩壊し、大量の板石が内部に落下した。この大量の板石が盗掘者を阻み、盗掘を未遂に終わらせる結果となった(参考文献1)。被葬者は北を頭にして埋葬された。黒塚古墳は現在柳本公園となっている。

構成

規模は全長約134m、後円部径約74m、高さ約14mである。石室内は盗掘されず埋葬当時の状態を保っていた。多量の鏡が副葬されており、三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面がみつかった。刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、特殊な形状の各種鉄製品、甲冑、農工具類、漆塗り製品、土器類など多数の副葬品が出土した。三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏の国から貰った鏡と考える説がある。竪穴式石室は長さ約8.3メートルで、人頭大の川原石と板石を用いた合掌式の石室である。石室石材は川原石と大阪府柏原市に産出する芝山玄武岩 ・春日山安山岩板石 を使用する。木棺はクワ属の巨木を使用した長さ6.2m、最大直径1mを超え る割竹形木棺である(参考文献2)。

築造時期

築造された時期は4世紀初頭(古墳時代前期初頭)とみられる。

被葬者

被葬者は特定されていない。初期ヤマト政権と関わる人物と想定されている。

指定等

  • 2001年1月、黒塚古墳は国の史跡に指定される。

展示

アクセス等

  • 所在地:奈良県天理市柳本町1118-2
  • 交通:JR桜井線柳本駅 下車徒歩約5分~8分。

参考文献

  • 奈良県立橿原考古学研究所編(2018)『黒塚古墳の研究』八木書店
  • 河上邦彦、泉 武、宮原 晋一他(1999)「黒塚古墳の発掘調査」日本考古学 6(7), pp.95-104

新沢千塚古墳群2023年05月23日 21:11

新沢千塚古墳群(にいざわせんづかこふんぐん)は奈良県橿原市、高市郡高鳥町にまたがる4世紀末から6世紀にかけての古墳群である。

概要

総数593基からなる古墳群であり、日本を代表する群集墳である。古墳は4世紀の終わり頃から造り始められた。6世紀の終わり頃まで約200年にわたって古墳が造られ続けた。最も多く古墳が造られた時期は、5世紀後半から6世紀前半にかけての100年間である。

調査

1962年から1966年にかけて、新沢千塚一帯の丘陵地の開墾計画に伴い、橿原考古学研究所により、古墳群全体の約2割にあたる137基の古墳の発掘調査が行われた。 墳形には多様性があり、円墳が主であるが、前方後円墳13基、前方後方墳2基、帆立型古墳1基、方墳13基、長方形墳2基が存在する。

遺構

内部主体はほとんどが割竹型木棺、組合式木棺など木棺直葬で横穴式石室をもつものは、全地域で18基と少数である。

  • 新沢千塚500号墳 4世紀の終わり頃に築かれた古墳で、古墳群の中でも最も古い時期に築かれた古墳のひとつである。全長約62mの前方後円墳で、埋葬施設は後円部に粘土槨2基、くびれ部に粘土槨1基と埴輪円筒棺1基、前方部に粘土槨1基がある。 後円部の粘土槨のうち、副葬品埋納用と考えられる副槨は未盗掘であった。三角縁神獣鏡や「八ツ手葉形銅製品」(と呼ばれる懸垂鏡を含む6面の鏡をはじめ、筒形銅器、銅釧、石製腕飾類、方形板革綴短甲、武器、玉類、農工具など、豊富な副葬品が出土した。
  • 新沢千塚139号墳 東西約23m、南北約20mの方墳で、5世紀前半から中頃に築かれたと考えられている。墳頂の中央に2個の家形埴輪が置かれ、ほぼ真下に埋葬施設が設けらた。埋葬は木棺をそのまま埋める木棺直葬で、漆塗りの盾のようなもので棺を覆っていた。棺の大きさは全長約3.7m、幅60~75cm前後。棺内には、頭部付近に櫛、遺体の左右に鉄刀、足側の木口には鉄製の甲冑一式が置かれていた。人体と甲冑の間には斧、鎌、刀子などの農工具約40点や、多くの鉄鏃が納められていた。
  • 新沢千塚126号墳 ペルシャ、中国、朝鮮半島からもたらされた豊富な副葬品が出土した。古墳群北側の丘陵の中央付近に位置する東西約22m、南北約16mの長方形墳です。5世紀後半頃に築かれた。埋葬施設は長さ約3.1mの割竹形木棺で、棺内および棺外に多くの副葬品が納められていた。古墳の被葬者は、朝鮮半島あるいは中国東北部から日本に渡ってきた女性と考えられている。
  • 新沢千塚166号墳 5世紀後半の古墳。直径約18mの円墳で、西側に小さな造り出しを設ける。墳丘裾部よりやや上の位置に墳丘を巡る円筒埴輪列の存在を確認した。埴輪は垂直ではなく、外側に約45度の傾斜を持たせて据えられており、通常の樹立方法とは異なる。円筒埴輪のほか、墳頂部からは家形埴輪、そしてそこから転落したと思われる鶏形埴輪の破片が出土した。
  • 新沢千塚221号墳 新沢千塚のなかでは数少ない横穴式石室を埋葬施設とする古墳である。5世紀後半頃に築かれた直径約13m、高さ約3.3mの円墳である。横穴式石室は南に開口する右片袖式で、長さ約3m、幅約1.3mの玄室に、長さ約1.4m、幅0.7mの羨道がつく。石室は厚さ20cm前後の石を積み上げて造られている。石室内は中世に盗掘され、副葬品の大半が持ち出されていた。わずかながら馬具の一部である木芯鉄板張輪鐙や須恵器土師器が出土した。
  • 新沢千塚327号墳 一辺約20mの方墳で、6世紀中頃に築かれた。埋葬施設は2基の木棺が確認されている。北側の棺から他の副葬品に混じって象嵌のある刀が出土する。刀は全長91cm、刃幅3.5cmの直刀である。錆化によりレントゲン写真によって初めて象嵌が発見された。象嵌には銀が使用されている。刀身の表裏にそれぞれ2匹の龍が切先を向いて描かれている。龍は頭・胴・四肢・尾が区別して表現されている。

遺物

指定

  • 1976年(昭和51年)に国の史跡に指定される。

展示

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館蔵で展示。

アクセス

  • 名称:新沢千塚古墳群
  • 所在地: 〒634-0826奈良県橿原市川西町855-1
  • 交通: 橿原神宮前駅よりバスで約10分「シルクの杜」下車/近鉄岡寺駅 徒歩約10分 近鉄橿原神宮西口駅 徒歩約10分

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 青木敏(2022)『古墳図鑑』日本文芸社