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宮山遺跡 (総社市)2023年05月20日 00:47

宮山遺跡 (総社市)(みややまいせき)は、岡山県総社市にある弥生時代から古墳時代初めにかけての遺跡である。

概要

総社平野南西部の丘陵の台地上に位置する。 宮山墳墓群は弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての墳墓群である。岡山県総社市の南部、高梁川東岸の三輪丘陵上に所在する。埋葬方法が多様な集団墓と前方後円形の墳丘墓からなる。

調査

1963年、三輪山遺跡調査団により調査された。

遺構

東端に位置する全長38mの墳丘墓は、盛土でつくられた径23m、高さ3mの円丘部と、削り出して作った低い方形部をもち、全体として前方後円墳状の平面形をなす。墳丘墓のくびれ部に葺き石が葺かれ、両側のくびれ斜面から特殊器台、特殊壺が出土した。後円部の上に長軸に平行して、長さ3mの竪穴式石室があり、床面に礫を敷き、鏡や直刀、銅鏃。剣、銅の矢じり、鉄鏃、ガラス小玉などを副葬した。

遺物

鏡、銅鏃、ガラス小玉、鉄鉄鏃、などが副葬された。

特殊器台

宮山型特殊器台で知られる。土製の素焼で、赤い顔料が認められる。円筒状であり縦長の胴部に、屈曲する口縁部と基部を取り付ける。表面に平行線により連続渦文と透かしが入る。高さ約94.5cm。弥生時代の棺として使用されたもので、ほぼ完全な状態で出土した。 弥生時代の終わりごろ、吉備の葬送儀礼に使用された特殊器台は、古墳時代に古墳に立てて並べる円筒埴輪に変化する。吉備で発生した葬送儀礼が、近畿地方の箸墓古墳をはじめ古墳時代の葬送儀礼に取り入れられた。古墳時代の開始頃に吉備の文化が関わったことを示している。

類例

指定

  • 1964年(昭和39年)5月6日 県指定 史跡 
  • 平成5年6月10日 国指定重要文化財(考古資料) 特殊器台

アクセス

  • 名称:宮山遺跡
  • 所在地:〒719-1132  岡山県総社市三輪
  • 交 通:、西日本旅客鉄道 総社駅から徒歩29分 2.1km

参考文献

備中国分寺跡2023年05月20日 00:47

備中国分寺跡(びっちゅうこくぶんじあと)は岡山県総社市上林にある寺院跡である。

概要

低丘陵のゆるやかな南麓に位置する東西160m、南北187mの寺院跡である。備中国分寺は聖武天皇が741年(天平13年)に仏教の力を借りて天災や飢饉から人々と国を守る (鎮護国家)ことを目的に建てられた官寺の一つであった。 敷地の周囲は底面の幅約1mの築地によって区画されていた。創建当初の国分寺跡は現在の国分寺境内と重複する。建物は南門や中門が発見されており、ともに5間×2間である。1971年(;昭和46年)に岡山県教育委員会が実施した発掘調査によって、南門跡、中門跡、建物跡、築地土塀などが確認されている。金堂跡や講堂跡は現在も寺の境内地のうちに含まれており、その位置や規模などは明らかではない。 出土品は軒丸瓦や軒平瓦のほかに、鬼瓦や、魚の形に似た一対の棟飾りである鴟尾などがある。 出土した土器などから、中世初期まで存続したと推定されている。備中国分寺は、中世には廃寺となったが、その後江戸時代中期に至って日照山国分寺として再興された。現存する伽藍はすべて再興後に建てられたものである。 

調査

遺構

出土遺物

指定

  • 昭和43(1968)年2月15日 国指定 史跡

アクセス

  • 名称:備中国分尼寺跡 吉備路風土記の丘県立自然公園内にある。
  • 所在地:〒719-1123 岡山県総社市上林
  • 交通:JR伯美線総社駅から総社バス「吉備路もてなしの館」下車、徒歩約15分

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 葛原克人(1975)「備中国分寺」『仏教芸術』103

備中国分尼寺跡2023年05月20日 00:49

備中国分尼寺跡(びっちゅうこくぶんにじあと)は岡山県総社市上林にある寺院跡である。

概要

備中国分寺と同じく、聖武天皇の勅願により建立された尼寺である。築地跡の痕跡から東西約108m、南北約216mの長方形の寺域と推定される。 護国寺として栄えていたが、南北朝時代に兵火にあった。備中国分寺の東約600mに位置し、現在は松林の中に建物の礎石や築地塀の痕跡が残るだけである。金堂礎石はよく残る。 南門の3個の礎石と基壇、中門の基壇、大型の金堂礎石群、2個の礎石を残す講堂、建物跡を思わせる整地面が一直線に並ぶ。伽藍は南門・中門・金堂・講堂と、ほぼ一直線に配置されていたと推定されている。中門跡の東方に方形基壇がみられるが、規模が小さく、塔跡とは見られない。

調査

発掘調査はされていない。

遺構

出土遺物

指定

  • 大正11(1922)年10月12日 国指定 史跡

アクセス

  • 名称:備中国分尼寺跡 吉備路風土記の丘県立自然公園内にある。
  • 所在地:〒719-1123 岡山県総社市上林
  • 交通:JR伯美線総社駅から総社バス「吉備路もてなしの館」下車、徒歩約15分

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版

土井ヶ浜遺跡2023年05月20日 00:49

土井ヶ浜遺跡(どいがはまいせき, Doigahama Heritage)は山口県下関市にある弥生時代の遺跡である。

概要

関門海峡の北西、山口県下関市の響灘に面する海岸砂丘にある土井ヶ丘といわれる弥生時代の遺跡である。1953年(昭和28年)以来、1957年(昭和32年)まで、九州大学医学部教授の金関丈夫等により、その一部地域が発掘調査され、200体余の人骨が発見された。埋葬施設として礫石を四隅に配する簡單な施設、あるいは礫石を四周に長方形に囲んだ一種の石囲いをなす施設、さらに組合式箱形石棺などが見つかっている。これまでに延べ19回の学術調査により総計300体以上の人骨が発見されている。同じ方向を向いて埋葬されていた。頭向きはほぼ東枕である。弥生式時代前期の終り頃の集団墓地である。1953年の第1次調査で最初に出土した女性人骨は胸部から鵜の骨が検出された。鵜と共に埋葬されていた。

出土

硬玉製勾玉、碧玉岩製管玉、貝製小玉、ガラス製小玉、貝製腕輪、貝製指輪等の装身具など。

平均身長

縄文時代の人々の平均身長の比較は土井ヶ浜遺跡から大量の人骨が見つかったため、比較ができるようになった。  平均身長の比較

  • 時代----|成人男性-成人女性-
  • 縄文時代-159cm-148cm
  • 弥生時代-163cm-158cm

金関丈夫説

弥生人と縄文人との差が生まれた原因は大陸から渡ってきた人が縄文人と混血することによると主張した(混血説、渡来説)。これに対して鈴木尚は小進化説を唱えた。すなわち縄文人が進化して弥生人になったと主張した。 その後、弥生人と同じ形質をもつ人骨は朝鮮半島や山東半島から見つかり、混血説が正しいことが証明された。縄文人を母体として、寒い地方に適応して体が大きくなり、花の中の空間に暖かい空気を溜められるよう顔を大きくなった朝鮮半島の人々が日本列島に渡来して混血して弥生人が生まれた。

規模

  • 南北: 約120メートル
  • 東西:南北約40メートル
  • 面積

指定

  • 1962年、砂丘の一部が国の史跡「史跡土井ヶ浜遺跡」に指定された。

土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアム

土井ヶ浜の弥生人の弥生時代から現代に至るまでの日本人の形質の変化やルーツを展示する人類学専門の博物館である。

  • 名称:土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアム
  • 休館日: 月曜日、年末年始(12月29日~1月3日)
  • 利用時間:9:00~17:00
  • 入館料:一般500(400)円、大学生300(200)円、高校生以下無料
  • 所在地: 〒759-6121 山口県下関市豊北町神田上891-8
  • 交通:JR「二見」駅より「肥中」行きバス乗車、「土井ケ浜」下車

参考文献

  1. 設楽博己(2013)『遺跡から調べよう』童心社

妻木晩田遺跡2023年05月20日 00:53

妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)は、鳥取県にある弥生時代後期(1~2世紀)を中心とする大規模な集落遺跡である。国内最大級の弥生時代の集落跡である。

概要

伯著大山の西北に位置し、孝霊山を背にして平野に面した標高約90~150mの丘陵地にある。

調査

平成7年から平成10年にかけて、最初の発掘調査が実施された。弥生時代中期~古墳時代前期にかけての遺物がみつかり、竪穴住居跡400棟以上、掘立柱建物跡500棟以上。そして、墳丘墓は30基以上を検出した。

遺構

集落遺跡は丘陵尾根上の複数箇所に分散し、洞ノ原地区,妻木山地区,妻木新山地区,仙谷地区,松尾頭地区,松尾城地区,小真石清水地区に大別される。発掘調査の結果,竪穴住居掘立柱建物502棟,合計900基あまりが確かめられた。竪穴住居は全部で約700。

遺物

  • 銅鏡片2点。共に内行花文鏡である。
  • 勾玉、
  • ガラス小玉
  • ヤリガンナ、
  • 斧、
  • 鏃、
  • 鎌、
  • 鍬などの鉄製品 ・・・400点出土
  • 土器
  • 石器(調理具・農工具・狩猟具・武器)

史跡

  • 史跡名勝天然記念物
  • 指定 - 1999年12月22日(平成11.12.22)
  • 追加指定 - 2008年3月28日(平成20.03.28)

見学

見学はむきばんだ史跡公園で、「弥生の館むきばんだ」が作られている。

アクセス等

  • 名称:妻木晩田遺跡
  • 所在地:鳥取県西伯郡大山町妻木1115-4
  • 交通: JR米子駅より車25分
  • 入園無料
  • 開園時間:午前9時~午後5時(入園は午後4時30分まで)
  • 休園日:第4月曜日(その日が祝日の場合は翌日が休園日となります)、年末年始(12月29日~1月3日)

参考文献

青谷上寺地遺跡2023年05月20日 11:58

青谷上寺地遺跡'

青谷上寺地遺跡

青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき)は、鳥取県鳥取市青谷町にある弥生時代前期の終わり頃から[[古墳時代]]前期にかけて営まれた集落遺跡である。
概要
山陰自動車道の建設に伴い発見された。鳥取市青谷町を流れる勝部川下流の平地にある遺跡である。青谷平野のほぼ中央に位置する。弥生時代の掘立柱の建物跡、火を焚いた跡、貝塚などが見つかり、玉作りや木器製作など、様々なものづくりに関係する鉄製や石製の道具や、中国大陸や朝鮮半島で製作された銅製品が出土した。周辺の溝から容器や農具、多量の木製品、漁労用の骨角製品、人骨などの遺物が出土した。
地域交流
土器は北陸・近畿・山陽地方の土器が出土しており、石材は青谷周辺では採れないヒスイやサヌカイトなどが使われている。400点をこえる鉄製品は、中国・朝鮮半島・北部九州の特徴がみられる。古代中国の鏡や「貸泉」が出土する。
人骨
集落中心域の東側から約5,300点、人数にして100人分以上の人骨が出土した。110点、少なくとも10人分に相当する人骨に殺傷痕があり、何らかの争いの痕跡である。出土した人骨の解析で、32体の人骨のミトコンドリアDNAに29系統のグループがあったことが判明した。各地からさまざまな人が流入したと見られる。 木材年代 試料1は紀元前57年、試料2は紀元前105年であった。試料1は弥生時代中期後葉である。
遺構
平成30年度まで出土した遺構。
No 遺構名
1 掘立柱建物 8棟
2 平地式住居跡? 1棟
3 土 坑 597基
4 123条

第20次調査
第20次調査は2022年度から3カ年計画で進んでいる。2000年に人骨が大量に出土した「SD38」と呼ばれる溝に近接する225平方メートルの区画である。「とっとり弥生の王国調査整備活用委員会」の調査研究部会(座長・木下尚子熊本大学名誉教授)に予備調査で人骨の一部が出土したことが報告され、来年度の本格的な発掘調査の方針を確認した。下層の弥生時代後期の地層に人骨が眠っている可能性があるとされる。
指定
平成20年 - 約14.6haが国の史跡に指定された。 時期 弥生時代前期後半に集落が形成されし、中期後半に拡大し、後期まで続くが、古墳時代前期初頭に消滅する。 展示 青谷上寺地遺跡展示館
アクセス
-名称:青谷上寺地遺跡 -所在地:〒689-0501 鳥取県鳥取市青谷町青谷 -交 通:青谷駅 徒歩10分。
参考文献
1.鳥取県教育文化財団(2002)『青谷上寺地遺跡4』鳥取県教育文化財団 調査報告書74
2.「大量人骨のなぞ明らかに?」朝日新聞,2023年3月31日

荒神谷遺跡2023年05月20日 12:31

荒神谷遺跡(こうじんだにいせき,Kojindani Ruins)は島根県出雲市斐川町にある弥生時代の青銅器埋納遺跡である。

概要

仏経山から北東3kmにある標高22mの小さな谷間の南向きの斜面に上下二段の加工段が作られており、その下段に銅剣が合計358本、4列に整然と並べて埋められていた。銅剣は銅に少量のすずや鉛などをまぜた合金である。遺跡は谷水田から丘陵斜面まで約150m四方に及ぶと考えられている(参考文献1,p.1)。銅剣の出土地は荒神谷遺跡の中でもさらに奥の「畑の奥」と呼ばれる谷である。出雲国風土記の出雲国健部郷に比定されている(参考文献,p.1)。銅剣の形式は岩永省三の中細銅剣C類に収まると考えられている(参考文献,p.15)(参考文献2)。

調査経過

1983年(昭和58年)広域農道(出雲ロマン街道)建設にともなう遺跡分布調査により、調査員が田のあぜ道で一片の土器(古墳時代の須恵器)をひろった事から発見された。遺跡の南側に『三宝荒神』が祀られる事から荒神谷遺跡と命名された。1984年(昭和59年)、谷あいの斜面の発掘調査により358本の銅剣、銅鐸6個と銅矛16本が出土が出土した。また西谷に面した斜面と水田で古墳時代後期の掘立柱建物跡と遺物包含層を確認した。調査は島根県教育委員会が国の補助事業として行い、奈良文化財研究所の岩永省三の指導を得た。銅剣は標高28mの山の斜面中腹から見つかった。最終的に358口を確認した。

指定

  • 1985年(昭和60年) 国の重要文化財(銅剣)
  • 1987年(昭和62年) 銅鐸・銅矛追加指定
  • 1998年(平成10年) 一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝指定

アクセス等

  • 名称:荒神谷遺跡
  • 所在地:島根県出雲市斐川町神庭873番地8
  • 交通:東京・大阪(JR新幹線)→ 岡山(特急やくも)→出雲市 出雲市駅から車で20分

島根県立古代出雲歴史博物館

出土した青銅器:銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本(一括国宝指定) は、現在は文化庁が所蔵し、島根県立古代出雲歴史博物館〔出雲市大社町杵築東〕に常設展示される。

荒神谷博物館

平成17年10月6日に荒神谷遺跡に隣接したサイトミュージアムとして建設された。 荒神谷展示室には・銅剣・銅鐸・銅矛のレプリカが展示される。大型映像「発掘ドキュメント」「出雲の原郷」を上映し、弥生時代のくらしを再現したミニジオラマ展示する。

参考文献

  1. 島根県教育委員会(1985)「荒神谷遺跡銅剣発掘調査概報」島根県教育委員会
  2. 岩永省三(1980)「弥生時代青銅器形式分類編年再考」『九州考古学』第55号