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縄文時代2023年05月14日 00:39

縄文時代(;じょうもんじだい)は、土器の編年による時代区分で、紀元前16,000年ころから約3000年前まで約1万年以上の間に渡る時代である。 縄文時代の晩期には稲作は始まっていたとする証拠もみつかっているから、稲作は縄文時代と弥生時代との区分指標ではない。

概要

縄文時代の前は旧石器時代であり、後は弥生時代である。旧石器時代と縄文時代の大きな違いは、「土器」使用の有無である。「土器」の登場が縄文時代のはじまりである。矢が使用され始め、ムラが形成された。開始時期は紀元前16,000年、紀元前13000年など諸説ある。

稲作との関係

九州地方の縄文遺跡から稲作の証拠が発見され始 め、今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたと考えられている。イネが日本にもたらされた最も古い証拠は、縄文時代後期末で、福岡県・熊本県の遺跡の土壌から、この時期のものと推定されるプラントオパール(イネ科植物の葉身にある、ケイ酸を含む細胞)が検出されている。福岡県の板付遺跡や佐賀県唐津市の菜畑遺跡などから、炭化米や土器に付着したモミの圧痕、水田跡、石包丁石斧といった農具、用水路、田下駄等が発見されている。水流をせき止めて調整する柵も見つかっている。長崎県雲仙地方の山ノ寺遺跡、大分県の大石遺跡からは、イネの圧痕がみられる土器が発見されている。

今村研究

高精度14C年代測定から縄文から弥生への移行の時期は400BCよりは古く、750BC~400BCの間のどこかに位置する可能性が高いとする。較正曲線の特異性のため、750BC~400BCの 期間については14C年代で実年代を決めるのが非常に難しいとされた。今後、データ数を増やすことが必要である(今村峯雄(2001))。

出来事

  • 西暦年-和暦年-出来事-
  • 紀元前13000年頃- -石器は新石器と進化させ、石を磨いた磨製石器を使用-
  • 紀元前11000年頃- -火焰型土器が使われる
  • 紀元前10000年- -現東京都新宿区で隆起線文土器が使われる-
  • 紀元前8000年頃- -漆の使用が始まる。定住化が進み、貝塚が作られる-
  • 紀元前4700年頃- -稲作(陸稲)が伝わる-
  • 紀元前3500年頃 - -日本最大の集落(三内丸山遺跡)が作られる-
  • 紀元前1200年頃||稲作(水稲)が伝わる。

参考文献

  1. 今村峯雄(2001)『縄文~弥生時代移行期の年代を考える-問題と展望』第四紀研究40巻6号,pp.509-516

集落遺跡2023年05月14日 00:52

集落遺跡(しゅうらくいせき)は古代の人々が集団で生活を営んだ遺跡である。

概要

旧石器時代の移住生活の暮らしの跡から、縄文時代以後、全国各地に集落がつくられ、原始的村落形態をつくった。 縄文時代の集落は台地や丘陵の上に営まれたが、弥生時代の集落においても、台地上・丘陵上にもあるが、稲作の開始に伴って低地や平野の微高地にも集落がつくられるようになった。

出土例

  • 安国寺集落遺跡 - 大分県国東市 弥生時代から古墳時代初頭の遺跡

参考文献

石船戸遺跡2023年05月14日 09:29

石船戸遺跡(いしふなといせき)は、新潟県阿賀野川市にある縄文時代晩期の遺跡である。

概要

石船戸遺跡は東の五頭山を背にして、西に阿賀野川が流れる低地に広がる縄文時代晩期の初頭から中葉の集落遺跡である。阿賀野川右岸の自然堤防に立地する。 塊状のアスファルトと加熱に使用した土器、塗布に使用した用具が多量に出土しており、産油地で採取した塊を集落内に持ち込み、熱で溶かしながら利用していた様子が伺える。 土器は精製品と粗製品があり、精製土器は東北地方一円に分布する「亀ヶ岡式土器」と共通した特徴をもつ。

調査

1966年(昭和41年)から1967年(昭和42年にかけて排水路造成工事の際に発見された。応急的な発掘調査により、大量の土器・石器が発見された。 2012年(平成24年度)から2014年(平成26年度)にかけて本格的な発掘調査が実施された。 集落は南東から北西に伸びる幅約80mの微高地に広がる。

遺構

竪穴式住居、掘立柱建物、土坑・埋設土器からなる。微高地の南と北の斜面上に土器などが捨てられた廃棄場があり、集落北に集石遺跡がある。

遺物

出土した土製の錘は、網を使って魚をとった証拠となる。土器は晩期前半の大洞B式が主体を占め、BC式土器もある。遮光器土偶は新潟県内で最大である。首の破損部分にアスファルトが付着し、何度も修復した跡がうかがえる。細部まで丁寧に文様が描かれている。ほかに動物型土製品、岩版などは東北の影響を受けている。 土偶、石棒、羊歯状文・K字状文・三叉文を施した甕・鉢・壺・注口土器が出土する。

  • 遮光器土偶
    • 首の破損部分にアスファルトが付着し、何度も修復されたことが分かる。

アスファルト

アスファルトの使用

アスファルトの塊が64点出土した。塊状のアスファルトと加熱に使用した土器、塗布に使用した用具が多量に出土しており、産油地で採取した塊を集落内に持ち込み、熱で溶かして利用したと推測される。 アスファルトは石油の一種であり、粘着性が高いため、土器の補修や石鏃の着柄に用いられた。アスファルトが付着した土器は1300点以上が出土している。 アスファルトが採取できるのは新潟・秋田など日本海側の石油産出地に限られる。そのため、多くの地域には交易品としてもたらされたと考えられて

指定

  • 2023年3月 - 新潟県有形文化財(考古資料)
    • 阿賀野市の所有する石船戸遺跡から出土した土器や石器など824点について、東北地方を中心に分布する「亀ヶ岡式土器」の文化圏の日本海側南端の様子を示す資料であるとともに縄文時代晩期の交易を考えるうえで学術的価値が高いとされた。

時期

縄文時代晩期初頭から前葉(約3100年前から3000年前)

アクセス

  • 名称:石船戸遺跡
  • 所在地:新潟県阿賀野市堀越字石船戸
  • 交 通:JR水原駅から10km、徒歩2時間15分。

参考文献

  1. 文化庁(2020)『発掘された日本列島 2020』共同通信社

大森貝塚2023年05月14日 09:37

大森貝塚(おおもりかいづか)は東京都品川区にある縄文時代後期の貝塚である。『大森貝塚』は「日本考古学発祥の地」と言われる。

概要

エドワード・シルベスター・モースは、アメリカ人の動物学者で貝の研究をしていた。1877年(明治10年)に腕足類の研究のため来日し、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝層を発見した。政府の許可を得て、1877年(明治10年)9月16日から12月にかけて発掘調査を行った。助手ら3人とともに土器、骨器、獣骨を発見した。1879年(明治12年)に日本初の発掘報告書である“Shell Mounds of Omori”(英文報告書)を出版した。4ヵ月後に和訳版の『大森介墟古物編』が刊行された。 当時の地主と東京大学、文部省との間で交わされた文書が見つかり、モースの発掘した貝塚の位置は、「大森貝塚」碑付近であったと判明した。

調査

1984年と1993年に大森貝塚遺跡庭園整備などの発掘調査が行われ、住居址や土器・装身具・魚や動物の骨などが大量に出土した。

出土

モース博士らの発掘した貝殻、土器、土偶、石斧、石鏃、鹿・鯨の骨片、人骨片などの出土品は東京大学に保管されている。

遺物

土器、石器、土版、骨角器など。

2つの石碑

『大森貝塚』には、ふたつの石碑がある。品川区の『大森貝塚遺跡庭園』(品川区大井6-21)、と大田区(大田区山王1丁目)である。モース博士は詳細な発掘場所を書いていないため、発掘地点について品川区説と大田区説のふたつが存在していた。その後の調査によりモース博士が初めに発掘したのは、品川区と判明している。

指定

  • 1955年3月.24日 (昭和30年3月24日) 史跡指定
    • わが国の考古学・人類学の搖籃の地として学史の上に貴重な価値を有するとされた。

アクセス

大森貝塚遺跡庭園

  • 料金:無料
  • 所在地: 東京都品川区大井6-21-6
  • 交通: JR大森駅下車徒歩5分

品川区品川歴史館

  • 開館時間:9時00分~17時00分(入館は16時30分まで)
  • 料金:大人100円・小人50円
  • 休日:月曜日・祝日
  • 住所:東京都品川区大井6-11-1

参考文献

  1. 守屋毅(1988)『共同研究 モースと日本』小学館

平出遺跡2023年05月14日 10:10

平出遺跡(ひらいでせき)は長野県塩尻市にある縄文時代中期から平安時代にかけての大集落遺跡である。

概要

渋川に沿って東西約1km、南北300mの範囲にわたり帯状に広く展開する。 日本三大遺跡の一つと言われる。他の2つは尖石遺跡登呂遺跡である。 縄文時代では中期中葉から末葉を中心とする。古墳時代から平安時代まで各期に渡る複合遺跡である。 現在までに290軒を超える住居跡や建物跡がみつかる。

調査

昭和25年から始まった発掘調査は、考古学・建築学・民俗学など多分野の専門家による総合学術調査として実施された。杉本平の南端にあり、桔梗が原の山間にある丘状台地にある。 東西1km、南北400mの範囲で国指定遺跡範囲は15万m2である。

遺構

縄文時代住居跡43、古墳時代から平安時代住居跡118、小竪穴・円形周溝墓などが検出されている。高床倉庫址、縄文中期の竪穴式住居址や信仰に関係ある配石址。平安時代の建物跡は4棟。

遺物

  • 縄文中期土器、
  • 石器、
  • 平安時代の灰釉陶器、
  • 緑釉陶器、
  • 土師器
  • 釉水瓶 - 平安初期の優品である。
  • 米 - 自然遺物
  • 大麦、
  • ソラマメ
  • 鉄鏃、
  • 鉄鎌。

放火

2008(平成20)年3月に完成したばかりの竪穴式住居の内の1棟が同年6月に焼失した。12月に少年2人が失火により逮捕された。

指定

  • 昭和27年3月  国指定史跡

アクセス

  • 名称:平出遺跡
  • 所在地:長野県塩尻市宗賀1011-3
  • 交通: JR塩尻駅から中心市街地循環線(西廻り)に乗り10分「平出遺跡公園口」で下車

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 塩尻市教育委員会(1981)_平出遺跡
  3. 塩尻市教育委員会(1983)_史跡平出遺跡_昭和57年度発掘調査報告書

塩尻市立平出博物館2023年05月14日 10:19

"塩尻市立平出博物館"(しおじりしりつひらいではくぶつかん)は 長野県塩尻市にある考古博物館である。

概要

平出遺跡の資料を展示する。4つの展示室で平出遺跡をはじめ、塩尻市内の遺跡から見 つかった土民俗資料、土器や土偶などの出土品約2万点、日本ではきわめて珍しい奈良時代の2mを超える瓦塔を展示。

沿革

  • 昭和29年11月、遺跡から出土した多量の土器・石器・鉄器などを保管・公開する ため、平出遺跡考古博物館が開館した。
  • 昭和54年4月、市内の開発に伴う発掘調査の急増による考古資料の増加、生活様式の 変化によって消失危機にあった民俗資料の収集・保管に対応するため、歴史民俗資料館 を増設した。
  • 平成4年10月、平出遺跡考古博物館・歴史民俗資料館・瓦塔館の3館を 「塩尻市立平出博物館」と総称した。

展示

  • 平出遺跡
    • 平出遺跡と平出古墳群から出土した縄文時代から平安時代の出土品を展示
  • 塩尻の原始
    • 縄文土器・弥生土器・紫宮銅鐸(県宝)など市内の遺跡から出土した旧石器時代から弥生時代の出土品を展示
  • 塩尻の古代
    • 古墳時代から平安時代にかけての出土品を展示しています。中でも奈良時代の瓦塔(県宝)は日本一の高さ232cm
  • 塩尻の民俗

アクセス等

  • 名称:塩尻市立平出博物館
  • 開館時間:午前9時 ~ 午後5時 ( 最終入館は午後4時30分 )
  • 休館日:月曜日(祝日、振替休日の場合は翌平日)
  • 入場料:300円
  • 所在地:〒399-6461 長野県塩尻市宗賀 1011-3
  • 交通:JR中央本線. 塩尻駅からタクシー5分

尖石遺跡2023年05月14日 10:39

尖石遺跡(とがりいしいせき)は長野県茅野市にある縄文時代中期の大集落遺跡である。

概要

日本三大遺跡の一つと言われる。八ヶ岳西山麓の標高1070mに位置する。東西300m、南北200mの範囲である。 国宝「縄文のビーナス」が発掘されたことにより知られる。

調査

明治20年(1887年)に豊平村南大塩に生まれた宮坂英弌は大正11年(1922年)に泉野尋常高等小学校の教員となる。昭和4年(1929年)の伏見宮博英王殿下の諏訪郡内の遺跡発掘に手伝いとして参加したことにより、遺跡発掘の魅力を知った。 宮坂の発掘前は石囲炉と土器を主にした発掘で、53の炉が確認された。 1940年(昭和15年)から宮坂英弌は3か年計画で発掘調査を行った。1940年に発掘した尖石遺跡の住居は16か所であった。昭和16年(1941年)は4か所の住居の発掘と、トレンチ調査によってたくさんの竪穴住居の可能性ある掘り込みを確認した。昭和17年(1942年)の調査では小竪穴群や列石などが出土し、竪穴住居の配置とあわせて、縄文時代の尖石を知る手掛かりとなった。 3か年の調査成果と尖石遺跡の集落景観について昭和21年(1946年)に「尖石先史聚落址の研究(梗概) 日本石器時代中部山岳地帯の文化」と題して発表された。南北二つの居住区とそれに挟まれた公共施設から尖石集落が成り立っている、という考え方により縄文時代の集落の構造について言及し、縄文時代中期の集落研究の基礎を築いた。

遺構

三角錐状の巨石

遺物

土偶、蛇体把手付土器、国宝「土偶」、土器や黒曜石で作られた石器など2000点余りの縄文時代の遺物

指定

  • 1952年(昭和27年)特別史跡に指定

アクセス

  • 名称:尖石遺跡
  • 所在地:
  • 交通:

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 宮坂(1942)「長野縣諏訪郡豐平村尖石遺跡調査概報」人類学雑誌 Vol57,No.2, pp.76-84