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倍賀遺跡2023年05月19日 22:53

倍賀遺跡(へかいせき)は大阪府茨木市にある弥生時代の遺跡である。「郡遺跡・倍賀遺跡」と並列して呼称される。

概要

茨木市は大阪府の北東部に位置し、南北17.3km、東西8.6km、人口は約28万人である。 南西に春日遺跡、北に郡遺跡、東に流田遺跡がある。

調査

昭和37年の上中条町の水路改修工事で弥生時代から古墳時代の土器がみつかったことに起因する。本格的な調査は昭和61年度の春日保育園、昭和63年、平成3年度のセメント工場建設に伴う発掘調査であった。

遺構

平成28年月からの調査で16,336m2を調査した結果、弥生時代中期から後期の方形周溝墓、弥生時代中期の方形周溝墓群が160基以上検出された。これは近畿地方でも群を抜く規模となる。規模は1辺3mから18mと大小さまざまである。近隣の村人も利用できる共同墓地と想定されている。 そのほか竪穴式住居からなる22棟の居住域があり、墓域とは区分されている。居住域の周囲は環濠で囲まれている。また、組み合わせ式木棺の底板が残っていた墓もあり、人の歯も見つかった。 中期後半は1辺十崇メートルの規模の大きな方形周溝墓だけとなり、方形周溝墓を作れる階層とそうでない階層に分化したと考えられる。

出土

環濠から8頭の鹿が描かれた銅鐸型土製品が出土した。最大の墓は長辺18メートル、短辺12メートル。周溝を持たない木棺墓からは碧玉製の管玉3点が出土した。方形周溝墓の周溝から、人形土製品や石剣、大型石包丁などが出土した。

指定

所在地

  • 名称:倍賀遺跡
  • 所在地:〒567-0026 大阪府茨木市田中町7−15−1
  • 交通:JR総持寺駅 から 徒歩23分(1.8km)

参考文献

国府遺跡2023年05月19日 22:57

国府遺跡(こういせき)は大阪府ある旧石器時代から中近世に渡る複合遺跡である。国府遺跡から出土した「けつ状耳飾り」の形は藤井寺市の市章のモチーフとなっている。奈良・平安時代には河内国府が設置され、河内国の政治的中心地であったと考えられている。

概要

石川と大和川の合流地点の南西部、市野山古墳に位置する段丘の北東縁部にある、 京都帝国大学の喜田貞吉講師などを中心として、1917年(大正6年)に日本で初めて本格的な発掘調査が実施された。縄文から弥生時代の土器や石器、3体の人骨を検出した。大正10年にかけて10次に渡る発掘調査が行われた。以前は日本に旧石器時代は存在しなかったと考えられていたが、京都帝国大学の喜田貞吉講師は、国府遺跡から採集された石器の中に、縄文時代より古い旧石器時代の可能性のある石器を見出した。1957年・1958年に再度の発掘調査が行われた。この調査で特徴的な旧石器が確認された。これらの石器は、二上山で採れるサヌカイトを使って、横に長い石片(翼状剥片)を連続的にはぎとっていく方法で作られ、「瀬戸内技法」と呼ばれている。「国府型ナイフ形石器」と言われ、石器分類の標式となっている。 2008年(平成20年)、遺跡中央部で住宅開発に伴う発掘調査を行った。調査区中央付近で最大幅2.9m、深さ1.3mの溝が発見され、弥生時代の土器が大量に出土した。簾状紋が特徴である。他に扇肩紋、格子紋、波状紋、流水紋など多様な土器が出土している。 土器は溝に廃棄されたもので、日常的に用いられた食器や煮炊き用の土器である。

調査

縄文時代から弥生時代の人骨が計90体検出されている。大正年間の出土品は京都大学、大阪医科大学、道明寺天満宮に一部が寄贈されたが、大部分は発掘のスポンサーの当地の発掘権を買収した大阪毎日新聞社主本山彦一が収蔵した(南坊城光興(2005))。本山彦一の収蔵品は関西大学の本山コレクションとなった、発掘隊は道明寺天満宮内にある南坊城良興邸に宿泊した。当時は付近に適切な宿泊場所がなかったためである。

出土

  • 国府型ナイフ形石器
  • けつ状耳飾り(道明寺天満宮所蔵)
    • 関西大学に三対(国指定重要文化財)、京都大学の二対、道明寺天満宮に一対が保存されている。

指定

 1974年(昭和49年)に国の史跡に指定されている。1977年(昭和52年)に追加指定された。現在は、史跡公園として整備されている。

アクセス

  • 名称:国府遺跡
  • 所在地: 〒583-0005 大阪府藤井寺市惣社2丁目4
  • 交通: 近鉄南大阪線「土師の里駅」下車 北東へ徒歩10分

参考文献

  • 南坊城光興(2005)「国府遺跡発掘と道明寺天満宮」阡陵: 関西大学博物館彙報, 巻50,pp.6-7
  • 大阪府立近つ飛鳥博物館(2015)『歴史発掘おおさか2015』大阪府立近つ飛鳥博物館

流田遺跡2023年05月19日 22:58

流田遺跡(ながれたいせき)は、大阪府茨木市にある弥生時代晩期、古墳時代から中世までの集落跡遺跡である。

概要

西に茨木川、東に安威川(あいかわ)が位置し、2つの河川に挟まれた遺跡である。

調査

遺構

遺物

古墳時代中期の層から扉板が発見された。長軸長さ140cm、短軸45cm、厚さ3cmぶ加工された板材である。扉板の中央に閂貫を通すための突起がある。発見されたのは1枚だけであるが、元は左右対称の観音開きの扉と考えられる。扉板右下部分に回転の軸となるホゾも 扉板を覆う地層で古墳時代中期の須恵器が見つかったことから、扉板は古墳時代のものとみられる。 建物の上部構造が分かる遺物が出土することは極めて稀である。今回の出土は北新町遺跡の扉とよく似ている。離れた地域で似たものが出ることは、古墳時代の標準形式であった可能性がある。

類例

  • 北新町遺跡 - 大阪府大東市
  • 讃良郡条里遺跡 – 大阪府寝屋川市

指定

アクセス

  • 名称:流田遺跡
  • 所在地:大阪府茨木市田中町
  • 交 通:JR総持寺駅から徒歩10分

参考文献

  1. 近つ飛鳥博物館(2016)『歴史発掘おおさか2015』近つ飛鳥博物館

讃良郡条里遺跡2023年05月19日 22:59

讃良郡条里遺跡(さらぐんじょうりいせき)は、大阪府四条畷市・寝屋川市にかける広範囲に広がる遺跡で、縄文時代から江戸時代まで続く集落跡遺跡である。

概要

四條畷市雁屋遺跡は、大阪府下でも早い時期に稲作が始まったとされた遺跡である。1989年年に讃良郡条里遺跡で出土した縄文土器の籾圧痕や、近年出土した近畿地方最古の弥生土器出土によって、讃良郡条里遺跡で早い段階で稲作が始まったことが判明した。 発掘から、この地域では奈良時代の早い段階から条里制の土地区画制度が行われている事が判明した。条里制により土地を東西南北に区画している。古代の河内湖の沿岸地域であり、鏡の出土は沿岸で祭祀が行われていたと推察される。

調査

平成23年度イオンモール四条畷の建設に伴い、四條畷市雁屋遺跡の発掘調査を行った。

遺構

古墳中期から後期では集落を区画する溝や通路側溝と考えられる溝を検出した。調査地の全域で、弥生時代中期後葉(約2000年前)の田がみつかった。田は傾斜する地形を巧みに利用している。弥生時代中期後葉の田より高い場所では、弥生時代中期中葉(約2100 年前)の集落跡がみつかった。集落は幅0.2 mから1.0mの溝で囲まれており、何回も溝を掘り直しながら、生活を営んでいた。

遺物

従来、弥生時代の始まりは2300年前とされていたが、讃良郡条里遺跡のAMS法の結果は2500年以上前となり、弥生時代の年代を考えるうえでも重要な遺跡となった。

  • 古墳中期から後期層
    • 土師器
    • 須恵器
    • 韓式系土器
    • 製塩土器
    • 石製品
    • 動物遺存体(骨)
    • 植物遺存体(種子)
  • 古墳時代
    • 須恵器
    • 土師器
    • 金属製品
    • 石製品
    • 木製品
    • 動物遺存体(獣(骨)
  • 弥生時代
    • 縄文土器
    • 弥生土器
    • 土師器
    • 須恵器
    • 瓦器
    • 木製品
    • 石器
    • 石製巡方
    • 瓦器

銅鏡

飛鳥時代後半から奈良時代前半に製作された銅鏡が見つかった。小型海獣葡萄鏡で直径3.9cmである。鏡面を研磨せず、鋳造のままのため、実用にはならない。祭祀用と考えられる。同様の内区だけの鏡は全国で12例ある。うち8点は奈良県である。類例は藤原京、平城京付近での出土であり、本鏡は当時の中央からの流通または配布と考えられる。

指定

アクセス

  • 名称:讃良郡条里遺跡
  • 所在地:大阪府寝屋川市楠根南町地先
  • 交 通:

参考文献

  1. 近つ飛鳥博物館(2016)『歴史発掘おおさか2015』近つ飛鳥博物館
  2. 四條畷市教育委員会・寝屋川市教育委員会(2015)『讃良郡条里遺跡 第一分冊』

芹生谷遺跡2023年05月19日 23:00

芹生谷遺跡(せりゅうたにいせき/せるたにいせき)は、大阪府河南町芹生谷にある古墳時代から南北朝時代にかけての複合遺跡である。

概要

金剛・葛城山系の西斜面に位置し、古代より南河内と大和を結ぶ交通の要衝として古代から重要な位置にある。周溝が古墳の形や大きさをしのばせる。

調査

平成20年12月から平成21年2月にかけて、河南町芹生谷・千早赤阪村川野辺において、一般国道309号(河南赤阪バイパス)道路整備事業にともなう芹生谷遺跡の発掘調査を行った。調査では、平安時代から鎌倉時代頃、9世紀から14世紀に相当する掘立柱建物の柱穴や畑の鋤溝跡などが見つかった。付近には当時の首長の墓とされる国史跡の金山古墳があり、古墳造営労働者の臨時宿舎の可能性があるとみられる。 水田の下に古墳を4基発見した(石塚古墳群)。横穴式石室は良好な状態であった。

遺構

古墳時代後期の掘立柱建物跡が1棟、竪穴住居跡が4棟、南北朝時代の掘立柱建物が1棟検出された。

遺物

発見された土器は古墳時代後期(6世紀後半頃)と南北朝時代(14世紀前半頃)のものが大半であった。

  • 色土器椀
  • 師器皿、
  • 器椀
  • サヌカイトの剥片 石塚古墳群の副葬品は以下の通り。
  • 土器 80
    • 高坏
  • 装身具 20
    • 勾玉
    • 管玉
    • 銀製耳環
  • 鉄製品 30

史跡

  • 国指定史跡金山古墳

アクセス等

  • 名称:芹生谷遺跡
  • 所在地:〒585-0033 大阪府南河内郡河南町芹生谷
  • 交通: 近鉄長野線富田林駅より金剛バス寺田経由水分行 「芹生谷」バス停下車徒歩3分

参考文献

  1. 河南町教育委員会(2015)『芹生谷遺跡・石塚古墳群』河南町文化財報告第4冊

難波宮2023年05月19日 23:01

難波宮(なにわのみや)は、大阪市中央区にある飛鳥時代から奈良時代時代にかけての宮殿跡である。

概要

飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認されている。2時期の宮殿遺構は前期難波宮、後期難波宮と区別する。『日本書紀』『続日本紀』などで存在は知られていたが実際の所在は不明であった宮殿の遺構として見つかった。

調査

前期難波宮の遺構に火災痕跡があり、686年(朱鳥元年)に焼失した天武天皇の難波宮にあたる。孝徳天皇により造営された難波長柄豊碕宮と考えられている。後期難波宮は聖武天皇によって再建された難波宮である。1954年(昭和29年)から開始された、山根徳太郎を中心とする発掘調査により、1961年、現在の史跡指定地に難波宮があることが明らかにされた。

遺構

  • 前期難波宮 前期難波宮は、孝徳天皇によって造営された「難波長柄豊碕宮」であると考えられている。蘇我氏を滅ぼした乙巳の変ののちに飛鳥から遷都され、白雉元年(650年)から造営が始まり、2年後に宮殿が完成したと『日本書紀』に記されている国内最初の本格的宮殿であり、内裏前殿の両側に八角形の楼閣風建物がそびえ、14棟以上の朝堂、宮城南門(朱雀門)などを有する。建物はすべて掘立柱建物で、瓦は使われていない。朱鳥元年(686)の火災によって焼失した。
  • 後期難波宮 (726~784年)の時期に属する建物の基壇跡が見つかった。基壇跡は東西約11m、南北5m以上の規模であった。基壇の周辺に凝灰岩の破片が見つかり、建物の外装に使用していたものが解体の際に壊され飛び散ったものと考えられる。また重圏文軒丸瓦をはじめとする後期難波宮の時期の瓦も基壇の周辺から見つかっている。こうした状況から、今回検出した建物は朝堂などと比べるとやや小型であるが、凝灰岩で覆われた基壇を持ち、重圏文の瓦で飾られていたことが分かる。神亀3年(726)に聖武天皇によって前期難波宮と同じ場所に造られた。中心部は大極殿や8棟の朝堂、内裏などで構成される。このうち政務や儀式が行われた大極殿・朝堂は礎石建物で瓦茸屋根が採用されたが、天皇の居住空間である内裏は従来からの掘立柱建物で瓦を使用していない。

遺物

  • 重圏文軒丸瓦
  • 重圏文軒平瓦
  • 丸瓦
  • 凝灰岩
  • 天目茶碗
  • 肥前陶器
  • 焼塩壺
  • 信楽焼
  • 信楽焼(腰白茶壷)
  • 一石五輪塔
  • 羽口
  • 難波宮「玉作五十戸俵」木簡 「玉作五十戸俵」の木簡は7世紀後半の記載様式とみられる。文字は片面のみである。両側に三角形の切込みがあったので「荷札木簡」と分かる。五十戸は「サト」と読む飛鳥時代の書き方である。律令制では五十戸が1里であった。意味は「玉作のサトから米俵を貢納した」。 庚午年籍以後と考えられていた地方支配の制度が、天智4年(665年)以前に遡ることが示された。飛鳥時代の制度は「国―評―五十戸」と考えられる(四国新聞,2015年2月3日)。
  • 難波宮跡出土万葉仮名文木簡 史跡難波宮跡の南西約100m、前期難波宮(長柄豊碕宮)の建設に伴うと考えられる整地層の直下の地層から出土した。地層の時期は、前期難波宮が完成する白雉3年(652)前後より古いと考えられている。簡の片面に「皮留久佐乃皮斯米之刀斯□」と11字が完全に残り、12字目をわずかに残して折れている。万葉仮名文の成立はこれまで7世紀末頃とされていたが、この木簡の出土により、その成立が7世紀中頃まで遡る可能性が出てきている。1字を1音に当てるのは万葉仮名の方式である。木簡は「春草のはじめのとし」と読む。“春草の”は万葉集では枕詞として使われており、全体は五音・七音を重ねた和歌と考えられる。日本語表記や和歌の重要な資料である(大阪市,2019年1月9日)。

史跡

宮殿の中心部とされる範囲が国の史跡に指定され、史跡公園として整備されている。史跡は2種類の方法で示されており、地表面より一段高くし、石造りで基壇を示すものが726年(神亀3年)から造営された後期難波宮、一段低くして赤いタイルを敷き、赤い御影石で柱位置を示し、サザンカの生け垣をめぐらせているものが「大化改新」による難波遷都の後、白雉元年(650)から造営が始められた「難波長柄豊碕宮」である。昭和37年(1962)に後期難波宮大極殿一帯の17.500m2が国指定史跡になり、以後数度の追加指定を経て、現在の史跡指定範囲は大阪歴史博物館南側の広場を含め、約13万m2に及ぶ。

  • 昭和39年5月2日(第1次)  国指定史跡 

史跡難波宮跡

難波宮の跡地の一部は難波宮跡公園として整備されている。

アクセス等

  • 名称:難波宮
  • 所在地:〒540-0006 大阪府大阪市中央区法円坂1丁目6
  • 見学:営業:入園自由 但し、難波宮跡資料展示室は10:00~17:00※展示室の見学は要事前連絡
  • 交通: 地下鉄谷町線「谷町四丁目」駅すぐ、JR大阪環状線「森ノ宮」駅より徒歩5分

参考文献

  1. 近つ飛鳥博物館(2015)「歴史発掘おおさか2015」近つ飛鳥博物館
  2. 難波宮跡出土万葉仮名文木簡,大阪市,2019年1月9日
  3. 大阪・難波宮跡に「五十戸」木簡,四国新聞,2015年2月3日
  4. 現地公開資料,大阪市文化財協会,2009年3月14日

唐古・鍵遺跡2023年05月19日 23:01

唐古・鍵遺跡(からこかぎいせき, Karako Kagi Remains)は奈良県磯城郡田原本町唐古・鍵に所在する弥生時代の集落遺跡である。弥生時代において、日本最大級の集落であった。

概要

奈良盆地の中央部にあり、寺川と初瀬川の間の標高47-49mの沖積地に立地する遺跡である。弥生時代の拠点集落の一つである。拠点集落の中で、その実態が最も解明されているのが'唐古・鍵遺跡である。弥生時代前半から古墳時代前半までの長い期間に渡る集落である。

発掘調査の歴史

1936年・19377年、国道敷設用採土に伴い唐古池底の調査がおこなわれた。この時に出土した土器や木製品等は弥生時代の総合的な認識をもたらし、畿内の土器編年の枠組みを作った。その後、発掘調査は1977年に再開され、2015年9月までに116次に達した。

主な調査

最初の報告は高橋健自による遺跡調査である。1901年の論文「大和考古雑録」で「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」として紹介した(参考文献1)。その後、飯田恒男・飯田松次郎親子は唐古池を中心とする遺物採取を行い、自費出版で『大和唐古石器時代遺物図集』を刊行した(参考文献2)。第一次学術調査は国道15号線(現在の24号線)建設に伴う唐古池の土取り工事と併行して1936年暮れから始まった唐古池調査であった。1943年に刊行された『大和唐古弥生式遺跡の研究』は日本の弥生時代研究の大きな成果となった(参考文献3)。出土品は木製農具など類例が少ないものであり、弥生時代を総合的に把握するために重要な役割を果たした。唐古池の発掘により、弥生式土器の様式が確立された。調査を担当した末永雅夫による「唐古池発掘日誌」に調査の様子が詳しく語られている(参考文献4)。

唐古・鍵遺跡発掘の歴史

学術調査

弥生集落の変遷

発掘調査により判明した弥生集落の変遷を時代順に概説する。

第一段階:弥生集落の成立(弥生時代前期)

小高い所を選んで人が住むようになった。遺跡の北部、西部、南部の3ヶ所の微高地にムラが形成された。周辺は湿地が広がるため、中洲状が想定されている。弥生式土器で最も古い段階の「大和第Ⅰ-1-a様式」とともに、ごくわずかの縄文式土器も検出された。縄文人と弥生人の棲み分け論の根拠である。藤田三郎は縄文晩期から徐々に変化したというより、新たに稲作技術を持った人々が唐古・鍵の地を開拓したと見る(参考文献5,p48)。集落の成立初期には環濠はなかったようである。

第二段階: 弥生集落の分立(弥生時代中期初頭)

3ヶ所に形成されてきた居住区が、それぞれ周りに溝を巡らせて「環濠集落」となる。西側地区では総柱の大型建物が建築された。梁行き2間(7m)、桁行き5間以上(11.4m以上)の南北に長い建物である。床面積は80m2。炭素14年代測定では北東隅の倒れていた柱は紀元前3から4世紀と推定されるが、立っていた2本のケヤキ柱は下っても紀元前5世紀までとされた。小溝から検出された土器を検証し、前後関係を整理すると、弥生時代中期初頭に建築され、大和第Ⅱ-3様式には解体されたと理解され、倒れていた柱の年代と一致する。立っていた柱は転用材とみられる。弥生時代前期から中期の墓は2つ見つかっており、南側の第一号木棺墓は木棺と人骨が残存していた。東京大学埴原和郎の鑑定では身長160cm以上の20歳代後半から30歳代前半の男性とみられた(参考文献5,p60)。国立科学博物館の馬場悠男の復元では、江戸時代など現代人とあまり変わらない骨格で大陸系の人の可能性があると見られた。2号木棺の放射性炭素年代測定(名古屋大学中村俊夫: 考古学,文化財科学,地理学,文化財科学,文化財科学・博物館学)では約2100年前と測定され、弥生時代と確認された(参考文献5,p62)。

第三段階:集落統合と大環濠の切削

3ヶ所の居住区が統合され、全体を囲む「大環濠」が掘削される。大環濠で囲まれた集落は、直径約400mと考えられる。その周りを幾重にも溝が取り囲み、中期後半には、楼閣をはじめとする建物、鹿、人物などの絵画を土器に描く風習が広まった。

第四段階:環濠集落の再建(弥生時代後期)

中期末の洪水で環濠の大半は埋没するが、すぐに再掘削が行われる。環濠帯の広さは最大規模となる。後期のはじめに、ムラの南部で青銅器の製作が行われた。弥生時代中期末の洪水は全村的な災害と推定されている(参考文献5,p91)。集落は放棄されず、より大きなムラが再建され、より大きな環濠が再建された。定住性の強いムラであった。後期後半に方形周溝墓が作られた。

第五段階:環濠集落の解体(弥生時代後期)

弥生時代中・後期に大環濠はなくなり、ムラの規模が縮小する。環濠の一部は再掘削されるが、井戸などの居住区関連の遺構は大幅に減少する。 環濠は土器の大量廃棄により埋没する。藤田三郎は環濠を必要としない新しい社会を想定する(参考文献5,p96)。南地区では弥生時代の環濠が再切削され、溝内から多量の遺物が出土する。

アクセス等

  • 名称:唐古・鍵遺跡
  • 遺跡面積:約42万平方メートル
  • 遺跡規模:東西700m、南北80mの楕円形
  • 調査面積:3万5271平方メートル
  • 所在地:奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵
  • 交通:近鉄橿原線石見駅下車 東へ徒歩約20分(約1.5キロメートル)

参考文献

  1. 高橋健自(1901)「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」『考古界』第1篇第7號,考古学会
  2. 飯田恒男・飯田恒男編(1929)『大和唐古石器時代遺物図集』飯田松次郎
  3. 京都帝国大学文学部考古学教室編(1943)『大和唐古弥生式遺跡の研究』京都帝国大学文学部考古学研究報告 第16冊,桑名文星堂
  4. 末永雅雄(1937)「大和の弥生式遺跡 唐古 発掘日誌」『考古学』第8巻2-4号,東京考古学会
  5. 藤田三郎(2012)『唐古・鍵遺跡』同成社