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古墳2023年05月09日 23:43

古墳'(こふん,Ancient Tomb)は3世紀から7世紀にかけて築造された土を高く盛り上げた墳丘をもつ古代の墓である。

概要

古墳は日本だけでなく、韓国・中国など東アジアで政治的権力をもつ者の墓として築造されていた。弥生時代に造られた大型の墳墓は、「墳丘墓」といい、古墳とは区別されている(;参考文献1)。また奈良時代の墓は「墳墓」という。天皇陵に指定されている古墳へは立ち入り制限されているため、科学的調査が行われていない。ただし、明治期に当時の政治的理由から天皇陵を早急に指定した事もあり、埋葬者が天皇ではないという可能性が高いと言われる古墳も多く存在している。

初期大王墓の継承展開

白石氏によると、大和政権初期の大王墓は、 ①箸墓古墳(3世紀後半) ②→西殿塚古墳(3世紀後半) ③→桜井茶臼山古墳(4世紀初頭) ④→メスリ山古墳(4世紀初頭) ⑤→行燈山古墳(4世紀前半) ⑥→渋谷向山古墳(4世紀後半) と継承されたと考えられている(参考文献,白石(2013))。

海外の古墳

中国や朝鮮にも古墳がある。朝鮮の新羅の慶州ではほとんどが土を盛った円墳である。

弥生時代

弥生時代には「方形周溝墓」や「円形周溝墓」が弥生時代前期(紀元前三世紀以前)に登場した。山陰地方では「四隅突出型墳丘墓」が二世紀以降に作られた。ほぼ同時期に岡山県で作られた「楯築弥生墳丘墓」は規模が大きく、全長は80mある。

纏向石塚墳丘墓は三世紀初頭の築造であるが、全長96mと規模が大きく、円形墓に突出部がついた前方後円形である。またホケノ山古墳は径56mの円丘に突出部があり、全長80mである。

古墳時代

前方後円墳が登場する三世紀半ば以降を「古墳時代」とする考えが主流とされる(参考文献1)。古墳時代は約400年間続いた。最初期の前方後円墳は「箸墓古墳」である。墓による身分の序列化が広域化した時期とされる。前方後円墳、前方後方墳円墳方墳と形と大きさにより政治的身分が表された。

前方後円墳の被葬者は地域の首長をとりまとめる大首長である。最大級の古墳は前方後円墳である。古墳時代の前半部は、魏志倭人伝に書かれているような、各地の首長(国)たちが同盟関係で結ばれた連合体であったとされる。

最後の大型前方後円墳は奈良県橿原市の五条野丸山古墳である。全長318mと奈良盆地では最大の古墳である。

交易

古墳時代の遺跡からは、弥生時代の遺跡も含め、ローマンガラスなどが見つかっており、当時として、かなりの広範囲な世界的交易が行われていたことが示唆されている。正倉院の宝物にもシルクロードを経由したイランからの招来品がリストされている。中国や韓半島からの招来品も多い。遠方からの交易を示唆す出土品は多数発掘されている。古代における人々の移動は再評価すべきであろう。

形状パターン

  1. 円墳
  2. 方墳
  3. 前方後円墳
  4. 前方後方墳
  5. 双方中円墳
  6. 双方中方墳
  7. 帆立貝式古墳
  8. 四隅突出墳
  9. 双円墳
  10. 双方墳
  11. 八角墳
  12. 六角墳
  13. 上円下方墳
  14. 長方形墳
  15. 横穴墓
  16. 地下式墓

参考文献

  1. 古谷毅監修(2017)『古墳時代 美術図鑑』平凡社
  2. 白石太一郎(2013) 『古墳からみた倭国の形成と展開(日本歴史 私の最新講義)』敬文社、pp.181-186。

聖徳太子2023年05月09日 23:48

''聖徳太子'(しょうとくたいし,574年-622年)は飛鳥時代皇親とされる。

概要

 「聖徳太子」は後世の尊称であり、日本書紀・古事記には「聖徳太子」とは書かれない。

史料では「廐戸皇子」「豐聰耳聖徳」「豐聰耳法大王」「法主王」(ここまで「書紀」)、「厩戸豊聡耳聖徳法王」「聖王」「「厩戸豊聡耳命」「上宮王」「東宮聖徳王」「上宮聖徳法王」(ここまで「帝説」)と書かれる。古事記には「上宮之厩戸豐聰耳命」と書かれる。 聖徳太子には様々な「謎」がある。

事績

文献において「廐戸皇子」に以下の事跡が挙げられている。

  • 物部守屋との戦いで神仏に請願し勝利した(史料4)。
  • 四天王寺を建立した。(史料4)
  • 冠位十二階を制定した。(史料10)
  • 十七条憲法を作成した。
  • 遣隋使を中国に派遣した。
  • 『天皇記』『国記』などの史書を編纂した。
  • 『三経義疏』を執筆した。

聖徳太子架空論

そこで聖徳太子には実在論と非実在論とがある。非実在論では「聖徳太子」は後世の創作との見解であるが、非実在論においても「廐戸皇子」は実在したとみている。 どこまでが後世の創作であり、どこまでが実在した「廐戸皇子」の事跡かを吟味する必要がある。

聖徳太子の誕生

574年(敏達3年)、父・用明天皇(橘豊日天皇)と母・穴穂部間人女王との間に生まれた(史料1、史料3、史料4)とされる。父母については、『日本書紀』と『上宮聖徳法王帝説』とで一致する。母・穴穂部間人女王は父の異母妹である。 生年は史料2に記載される。日本書紀に生年の記載はないが、上宮聖徳法王帝説記載の甲午年とすれば、敏達3年(甲午年)の574年となる。

「聖徳太子」名の疑問

坂本(1979)は「廐戸」を実名とみる。当時は、①生まれた土地、②ゆかりある人物、③乳母の氏名などからつける慣習であっとする(坂本(1979))。坂本は『上宮太子拾遺記』(鎌倉時代、僧法空)に「橘寺東南の辺り相承田地の文書に、今に廐戸の号あり」から生誕地から名がついたと考えるほかない、とする(坂本(1979))。

官位十二階

日本書紀603年に官位十二階(史料10)制度の創設が書かれる。その順は、「大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智」である。一方、隋書倭国伝600年の条に「大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大禮・小禮・大智・小智・大信・小信」の順で記載されている。大禮・小禮と大義・小義の順が入れ替わっている。大信・小信を倭国では上位に置いた。 順番が違う理由は、中国では徳を最初に置いて、以下は仁・義・礼・智・信の「五常の徳目」に合わせたと思われる。 当時は隋書倭国伝であったものを日本書紀編纂の段階で入れ変えた可能性がある。 冠位の制は、百済の官位制を中心として高句麗の制を参照してつくられたとする見解が有力であり、厩戸皇子の独創とする旧説は誤りとされる。理由は冠の授与者は、643年(皇極2)蘇我蝦夷がその子の蘇我入鹿に紫冠を授けたとの記事があり蘇我氏は授与者の側に立っていた。

聖徳太子非実在論

非実在論の提唱者は大山誠一である。その根拠は聖徳太子の確実な存在を示す史料が皆無であるというものである。すなわち大山誠一は厩戸王は存在したが、冠位十二階と遣隋使派遣の2つ以外の事跡は全くの虚構であるとした。

憲法十七条

津田左右吉は、憲法十七条の内容は次の点で推古12年にはふさわしくないと主張した。

  1. 国司はこの時代に存在しない。7世紀末頃以降であろう。
  2. 中央集権制度・官僚制度の政治理念は大化の改新以降のものである。
  3. 憲法十七条に中国古典の引用が多い。
  4. 一般の官人はまだ文字を使用していなかった。(識字率の問題)
  5. 当時の倭国の知識水準とはかけ離れた記述になっている。
  • 憲法十七条には数十種類の中国の古典が引用されている。具体的には『礼記』『詩経』『論語』『孟子』『文選』などである。記述のスタイルは奈良時代の『日本書紀』や『続日本紀』の表現に似ている。例として第一条の「以和為貴」は『礼記』儒行編の「礼之以和為貴」あるいは『論語』学而編の「礼之用和為貴」を踏まえて書かれている。
  • 『隋書』「倭国伝」の記事は、600年を第1回とする数回の遣隋使がもたらした情報に基づいており、当時の日本の様子をよく伝えている。それによれば、文字や記録は日常的な政治の場では、まだ使用されておらず、当時の日本の為政者は中国思想の理解はほとんどなかった。そうすると推古12年(604年)の内容ではないとする。

上宮記

三経義疏

大山は特に『勝鬘経義疏』について藤枝晃の研究を重視する。中国北朝から隋代に至る勝鬘経に注釈書10点の中で敦煌出土の『勝鬘経義疏本義』と聖徳太子撰の『勝鬘経義疏』とは7割が同文であるとされ、同系統の注釈書であった。聖徳太子撰の『勝鬘経義疏』は中国北朝の成立と判断された。また『法華経義疏』と『維摩教義疏』は隋代から初唐段階の成立とする研究がある。三経義疏が中国で編纂されたものである。761年(;;天平宝字5年)の『東院資材帳』には『法華経義疏』について「律師行信覓求奉納者」と書かれる。行信は聖徳太子遺愛の品として宝物を法隆寺に献納しており、『法華経義疏』はそのひとつであった。 三経義疏は718年(;養老2年)の道慈や735年(;天平7年)の玄昉が持ち込んだ可能性があるとした(大山誠一(1999))。

元興寺露盤銘

天寿国繡帳

聖徳太子の死後まもなく多至波奈大郎女が推古大王に依頼して刺繍にしてもらって製作されたのが天寿国繡帳とされていた。しかし推古朝で製作されたとするには、次の疑問点がある。すなわち天寿国繡帳は奈良時代以降の製作と大山ははみる(大山誠一(2005))。

  • 当時においてまだ使われていない天皇号が使われている。
    • 「斯帰斯麻宮治天下天皇」「しきしまのすめらみこと」=欽明天皇)
  • 和風諡号が使われている。
    • 「阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等」(あめくにおしはるきひろにわのみこと、天国排開広庭天皇=欽明天皇)。古事記、日本書紀以前の使用例がない。
  • 儀鳳暦が使用されている。
  • 儀鳳暦は690年(持統4年)から採用された暦である。穴穂部間人女王の亡くなった日付の干支を「歳在辛巳十二月廿一癸酉」とし、太子の没年月日は「明年<壬午>二月廿二日甲戌」と記される。これは儀鳳暦により記されている(金沢英之(2001))。
    • 法隆寺資材帳に記載されていない
    • 747年(天平19年)の法隆寺資材帳には天寿国繡帳が記載されていない。したがってそれ以降の製作と見られる。

四天王寺

『日本書紀』には推古元年(593年)に四天王寺の造立が開始されたと書かれる(史料9)。 大山は「四天王寺は摂津の渡来系の豪族・難波吉士の氏寺で、建立年代は考古学的には650年頃とされており、本来の寺名は荒陵寺(あらはかでら)であり、四天王寺の名称は早くとも天武朝以降である」としている(大山誠一(1999))。難波の四天王寺は当初、玉造の東の岸に作られたとされる。玉造は現在の大阪城付近とされるが、寺域は未確認である。推古31年に新羅から贈られた舎利、金塔、觀頂幡などを四天王寺に収めたとする記事がある(史料9)。

聖徳太子実在論

反論は何名かの研究者が行っているが、田中英道の研究がある。しかし、あまり緻密な反論ではない。

憲法十七条

田中英道はそのまま飛鳥時代の文書そのままではないが、その存在を虚構ととらえることができないとする。苦しい反論といえる(田中英道(2004))。

三経義疏

田中英道は『勝鬘経義疏』の原本は6世紀半ばのものを取っていること、中国で作られたにしては漢文の誤りが多いため結論はでていないとする(田中英道(2004))。田中英道は法隆寺から宮内庁に渡った『法華義疏』は多くの学者により聖徳太子自筆とされており、書体・文体とも7世紀のものとする(田中英道(2004))。

天寿国繡帳

天寿国繡帳の縫い糸は、赤・黄・緑・淡縹・紺・白からなり、縫い糸の剥落はほとんど見られない。強い撚糸と豊富な配色の手法は6,7世紀の金鈴塚古墳出土の糸、法隆寺献納宝物の「幡垂飾」「繡仏」などの古い染織品と共通する。「返し縫い」の手法は飛鳥時代の染色の特色があると田中英道は主張する(大橋一章(1995))。飛鳥時代は高麗尺が使われたが、それは1尺35.5cmであり、天寿国繡帳の上下幅と一致する(田中英道(2004))。天寿国繡帳の鐘撞堂に袴の上に褶(ひらみ)をつけており、これは隋や唐の壁画ではなくなる。よって飛鳥時代以前のものであるとする(同前)。 しかし、天寿国繡帳の寸法は縦88.8cm、横82.7cmとされるので、主張とは合わない。

四天王寺

四天王寺は最初から現在地(難波)であったとの説と3km北の玉造村から後の時代に移転したとの説(聖徳太子伝暦)がある。難波で発掘調査があり、伽藍配置は南大門、中門、五重塔、金堂、講堂が直線状にならぶ四天王寺式であったとされる。 ただ瓦の製造造営開始)は620年ころのものと判明している。「廐戸皇子」が亡くなる直前であるため、日本書紀の記載とは合わないことになる。


史料1

  • 「日本書紀」巻第廿一 用明元年元年春正月
  • (大意) 用明元年1月、穴穗部間人皇女を皇后とし、4人の男子が生まれた。長男は廐戸皇子という、またの名を豐耳聰聖德、あるいは豐聰耳法大王、法主王という。
  • (原文) 元年春正月壬子朔、立穴穗部間人皇女爲皇后、是生四男、其一曰廐戸皇子更名豐耳聰聖德、或名豐聰耳法大王、或云法主王

史料2

  • 上宮聖徳法王帝説(帝説)
  • 上宮聖徳法王、又法主王という。甲午年に産まれ、壬午年二月二十ニ日に薨逝する也。(まれて四十九年。小治田宮に東宮となる也。墓は川内志奈我岡也)

史料3

  • 橘豊日命(用明)は間人穴太部王(穴穂部間人皇女)を皇后とし、上宮之厩戸豐聰耳命を産んだ、
  • (原文) 又娶庶妹間人穴太部王、生御子、上宮之厩戸豐聰耳命、次久米王、次植栗王、次茨田王。

史料4

  • 上宮聖徳法王帝説(帝説)
  • 伊波礼池辺双槻宮に天の下治ろしめしし橘豊日天皇、庶妹、穴穂部間人王を娶りて大后となし生める児、厩戸豊聡耳聖徳法王。

史料5

  • 日本書紀 第廿一 用明2年秋七月、(書紀)
  • (大意)587年、蘇我馬子諸皇子・群臣とともには物部守屋を攻めたが、守屋木の上から矢を射たので苦戦した。厩戸皇子は「このままでは負ける」として木を切って四天王像を作って頭に乗せ、勝ったら護世四王を立て塔を建てると祈願した。蘇我馬子も戦勝すれば寺を建て三宝を伝える」と請願した。加護によって物部守屋を打ち破ることができたとして、摂津国に四天王寺を建て、蘇我馬子は飛鳥に法興寺を建てた。
  • (;原文) 是時、廐戸皇子、束髮於額古俗、年少兒年十五六間束髮於額。十七八間分爲角子、今亦爲之而隨軍後、自忖度曰「將無見敗、非願難成。」乃斮取白膠木、疾作四天王像、置於頂髮而發誓言白膠木、此云農利泥「今若使我勝敵、必當奉爲護世四王起立寺塔。」蘇我馬子大臣、又發誓言「凡諸天王・大神王等、助衞於我使獲利益、願當奉爲諸天與大神王、起立寺塔流通三寶。」誓已嚴種種兵、而進討伐。爰有迹見首赤檮、射墮大連於枝下而誅大連幷其子等。由是、大連之軍忽然自敗、合軍悉被皁衣、馳獵廣瀬勾原而散之。是役、大連兒息與眷屬、或有逃匿葦原改姓換名者、或有逃亡不知所向者。時人相謂曰「蘇我大臣之妻、是物部守屋大連之妹也。大臣妄用妻計而殺大連矣。」平亂之後、於攝津國造四天王寺。分大連奴半與宅、爲大寺奴田庄。以田一萬頃、賜迹見首赤檮。蘇我大臣、亦依本願、於飛鳥地起法興寺。

史料6

  • 「日本書紀」巻第廿二 推古元年春(書紀)
    • (大意)
    • (原文)元年春正月壬寅朔丙辰、以佛舍利置于法興寺刹柱礎中、丁巳建刹柱。夏四月庚午朔己卯、立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子、仍錄攝政、以萬機悉委焉。橘豐日天皇第二子也、母皇后曰穴穗部間人皇女。皇后、懷姙開胎之日、巡行禁中監察諸司、至于馬官、乃當廐戸而不勞忽産之。生而能言、有聖智。及壯、一聞十人訴以勿失能辨、兼知未然。且習內教於高麗僧慧慈、學外典於博士覺哿、並悉達矣。父天皇愛之令居宮南上殿、故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子。

史料7

  • 「日本書紀」巻第廿二 推古元年夏四月(書紀)
    • (;原文)夏四月庚午朔己卯、立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子、仍錄攝政、以萬機悉委焉。橘豐日天皇第二子也、母皇后曰穴穗部間人皇女。皇后、懷姙開胎之日、巡行禁中監察諸司、至于馬官、乃當廐戸而不勞忽産之。生而能言、有聖智。及壯、一聞十人訴以勿失能辨、兼知未然。且習內教於高麗僧慧慈、學外典於博士覺哿、並悉達矣。父天皇愛之令居宮南上殿、故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子。

史料8

  • 上宮聖徳法王帝説(帝説)

史料9 四天王寺

  • 「日本書紀」日本書紀巻第廿二 推古元年秋九月(書紀)
    • (;大意)推古元年9月、四天王寺を難波に造立開始した。
    • (;原文) 秋九月、改葬橘豐日天皇於河內磯長陵。是歲、始造四天王寺於難波荒陵。是年也、太歲癸丑。
  • 「日本書紀」日本書紀巻第廿二 孝德四年二月壬子朔
    • (;大意)阿部内麻呂は四天王寺に仏像四駆を迎え、靈鷲山に象を祀った。
    • (;原文)阿倍大臣、請四衆於四天王寺迎佛像四軀、使坐于塔內、造靈鷲山像、累積鼓爲之。
  • 「日本書紀」日本書紀巻第廿二 推古卅一年秋七月
    • (;原文)卅一年秋七月、新羅遣大使奈末智洗爾、任那遣達率奈末智、並來朝。仍貢佛像一具及金塔幷舍利、且大觀頂幡一具・小幡十二條。卽佛像居於葛野秦寺、以餘舍利金塔觀頂幡等皆納于四天王寺。

史料10 官位十二階

  • 「日本書紀」日本書紀巻第廿二 推古十一年十二月戊辰朔壬申
    • (大意)603年、初めて官位制を作った。大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二階で、官位ごとに決まった色の絁を縫い付けた。翌年、正月に官位を授けた。
    • (原文)十二月戊辰朔壬申、始行冠位。大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、幷十二階。並以當色絁縫之、頂撮總如囊而着緣焉。唯、元日着髻花。十二年春正月戊戌朔、始賜冠位於諸臣、各有差。

史料11 隋書倭国伝

  • (大意)官に12階の序列がある。大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大禮・小禮・大智・小智・大信・小信の順である。定員はない。
  • (原文)内官有十二等一曰大徳次小徳次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數

参考文献

  1. 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 東野治之校注(2013) 『上宮聖徳法王帝説』岩波書店
  3. 坂本太郎(1979)『聖徳太子』吉川弘文館
  4. 金沢英之(2001)『天寿国繍帳銘の成立年代について--儀鳳暦による計算結果から』国語と国文学78 (11),東京大学国語国文学会編,pp.33-42
  5. 大山誠一(2005)『聖徳太子と日本人』角川書店
  6. 大山誠一(1999)『聖徳太子の誕生』吉川弘文館
  7. 大山誠一編(;2014)『聖徳太子の真実』平凡社
  8. 藤枝晃(1976)「勝鬘経義疏 解説」『日本思想大系 2』岩波書店
  9. 石原道博編訳(1985))『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』〈中国正史日本伝(1)〉岩波書店
  10. 田中英道(2004)『聖徳太子虚構説を排す』PHP研究所
  11. 大橋一章(1995)『天寿国繡帳の研究』吉川弘文館