高床式倉庫 ― 2023年08月05日 09:02
高床式倉庫(たかゆかしきそうこ)は高床で作られた倉庫である。
概要
縄文時代から弥生時代にかけて登場した建築様式である。床を地面から浮かせた建物である。高温多湿の自然条件に対応するための建築構造で床面を地表面より高い位置に設けた倉庫である。湿気対策や鼠等の食害を防ぐために様々な工夫が施されている。主に穀物を蓄える倉庫として使われた。柱の貫穴や桟穴、ほぞ穴などの二つの部材を組み合わせる加工技術をもっていた。
高床の目的
「竪穴式住居」での保管では、作物にカビが発生して品質が劣化し、ねずみや虫が発生することから、湿気のある地面からできるだけ離す工夫である。地上からは1m以上高い場所に床を造り、ハシゴを使って出入りしていた。農具や武器などの道具類も一緒に保管していたと思われる。
ネズミ返し
登呂遺跡では穀物などをネズミの侵入から守るためネズミ返しなどが取り付けられていた。柱と倉の床面との間に鼠の侵入を防止する「ねずみ返し」という板を取り付けていた。
高床の登場時期
吉野ヶ里遺跡では弥生時代中期前半までは、貯蔵形態は穴倉が主流であったが、弥生時代中期中頃から堀立柱建物の高床倉庫へと変化したことが、発掘調査により判明した。同時に20数棟の高床倉庫があったとみられる。 1997年に富山県の桜町遺跡で出土した柱から、縄文時代中期頃には高床式倉庫の存在が証明された。高床式倉庫の最も早い例である。
出土例
参考文献
東大寺 ― 2023年08月05日 10:42
東大寺(とうだいじ,Tōdai-ji)は南都七大寺のひとつで、華厳宗の寺院である。正式名は「金光明四天王護国之寺」である。
概要
若草山麓に733年に創建された金鐘寺が起源という説がある。728年(神亀5年)9月、聖武天皇の皇子の基親王が薨去した。11月、基親王の菩提を追善するために山房造営を命じた(参考文献1)。家永三郎はこの山房が東大寺の前進の金鐘寺であるとの説を唱えた(参考文献2)。
別説として、奈良時代の741年(天平13年)の聖武天皇の「国分・国分尼寺建立の詔」により国分寺として、金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とする説がある。740年(天平12年)2月、聖武天皇は、河内国知識寺に詣で『華厳経』の教えから、盧舎那大仏造立を強く願われ、743年(天平15年)10月15日に「盧舎那大仏造立の詔」を発した。747年(天平19年)から、大仏の鋳造が始まった。752年(天平勝宝四年)4月に盛大な「大仏開眼供養会」が行われた。大仏殿は758年(天平宝字2年)に竣工した。
建物群
南大門
国宝建造物である。南大門は南に面した正門で仏教寺院の正門である。天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊したため、鎌倉時代の1199年(正治元年)に再建された。入母屋造、五間三戸二重門で、下層は天井がなく腰屋根構造。日本国で最大の山門である。
法華堂
国宝建造物である。「三月堂」ともいう。寺伝によれば、東大寺創建以前の金鍾寺の遺構とされる。仏像群も天平時代のものである。「三月堂」ともよばれる。鎌倉時代に礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつないだ。不空羂索観音を本尊として祀るための堂である。旧暦3月に法華会が行われる。
大仏殿
国宝建造物である。創建から2度にわたって焼失し、現在のものは1708年(宝永5年)に再建されたものである。平成24年に大仏殿内、廻廊、霊名所、授与所の照明装置を全てLED化し、消費電力は8分の1となった。
良弁堂(開山堂)
国宝建造物である。秘仏の良弁僧正像(国宝)が安置される。良弁が遷化した773年(宝亀4年)年から246年後に初めて御忌法要が行われたことから、この堂はその時に創建されたと考えられている。良弁は751年(天平勝宝4年)、東大寺の初代別当となり、聖武天皇、行基、菩提僊那とともに「四聖」と言われる。
注・参考文献
- 『続日本紀』中の平安後期『東大寺要録』に記載
- 家永三郎(1942)「上代佛教思想史研究」畝傍書
国家珍宝帳 ― 2023年08月05日 14:05
国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう,List of rare tresures of the state )は光明皇后が聖武天皇の遺品を東大寺大仏に献納した際の目録である。
概要
756年(天平勝宝8年)6月21日の聖武天皇の七七忌に法会を営み、勅願寺の東大寺の廬舎那仏に聖武天皇遺愛の品を献納して納めた宝物の目録である。正式名は「天平勝宝八歳六月二十一日献物帳」であるが、「国家珍宝帳」と呼ばれる(参考文献1)。
形状
軸端は白檀の撥形である。本紙部分は白麻紙を用いる。巻末に先帝の追福を願う跋文と「天平勝宝八歳六月二十一日」の日付が記載され、藤原仲麻呂、藤原永手、巨萬福信、賀茂角足、葛城戸主の官人の署名がある。墨界は薄い墨で引いた罫線である。企画立案事務は、皇后宮職を改組した紫微中台が担当した。藤原仲麻呂は紫微中台の長官であり、巨萬福信、賀茂角足、葛城戸主は次官である。藤原永手は侍従であった。 目録に記載された宝物は600点以上にのぼる。白麻紙と称する上質紙十八張を張り付いだ、縦25.8cm、横1474.0cmの長大な巻子である。楷書体で記された墨書の上に、一辺8.7cmの天皇御璽の印が料紙全体に三段ずつ押される。白檀の撥型軸に白麻紙を継いだ本紙に唐風の楷書を丁寧に書き、その上に「天皇御璽」印を489か所に捺印する。
構成
巻頭に皇太后の願文を書き、以下、御袈裟、御帯、牙笏、弓箭、刀剣、書法、楽器など六百数十点を列挙する。現存するものはそのうち百余点である。 通称は願文にある「国家の珍宝等を捨す」に由来している。 巻末に藤原仲麻呂、藤原永手、巨萬福信、賀茂角足、葛城戸主がそれぞれ自書する。
書体
国家珍宝帳に記された文字は端正な楷書体とされている。しかし、堀江知彦は王羲之系統の書体の影響によるものと、特異な右払いを含む楷書体の2通りがあると指摘している。唐において最新の様式であった顔真卿初期の書体の影響を国家珍宝帳が受けていることを指摘されていた。書道史研究者の魚住和晃・神戸大学名誉教授は「国家珍宝帳」は王羲之の書法を極めた欧陽詢から唐代の新派につながる書法で書かれていると指摘する。
管理概要
- 名称 - 国家珍宝帳
- 管理番号:北倉 158
- 形態:紙本 墨書
- 用途 : 書蹟・地図
- 技法 : 紙
- 寸法 : 本紙縦25.9cm 全長1474cm 軸長29.3cm
- 材質・技法 : 本紙白麻紙18張 墨書 朱印 軸端は白檀 軸木は杉
出展歴
- 名称:国家珍宝帳
- 1956年 - 第10回
- 1966年 - 第19回
- 1981年 - 特別展『正倉院宝物』(東京国立博物館)
- 1990年 – 第42回
- 2006年 - 第58回
- 2019年 - 正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―(東京国立博物館)
参考文献・注
- 藤田経世編(1972)『校刊美術史料 寺院篇 中巻』中央公論美術出版
- 奈良国立博物館編(2019)正倉院学術シンポジウム「宝物のはじまりと国家珍宝帳」思文閣
金工 ― 2023年08月06日 00:07
金工(きんこう)は金属を素材とし、その特性である熔解性や伸展性を利用して成形し、それに様々な技法を施す工芸技術である。
- 概要 金工の主な技法にには、鋳金、鍛金、彫金の3つがある。 金工技術が日本にもたらされたのは、弥生時代初期、紀元前200年頃とされる。 弥生時代には銅剣、銅鐸、装身具などが作られ、材料として青銅、やがて鉄が使われた。 古墳時代には金工により馬具や甲冑を製作するようになる。
参考文献
- 石野博信(2006)『古代住居のはなし』吉川弘文館
楽浪郡 ― 2023年08月06日 00:31
楽浪郡(らくろうぐん)は、中国の漢帝国が朝鮮半島に設置した古代中国の直轄地の一つである。紀元前108年から紀元313年まで朝鮮半島の中西部に置かれていた。
概要
漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼして、紀元前108年に漢四郡、すなわち真番郡、臨屯郡、玄菟郡、楽浪郡を設置した。漢の東方支配の根拠地となった。伊藤 一彦(2020)は『「郡」とは,古代中国の地方行政制度「郡県制」の上位組織であり,朝廷=中央政府が派遣する太守の支配下にあった』とする。郡は植民地なのか、漢の領土の一部なのかという論争がある。楽浪郡の行政区域として県が設けられ、郡には太守、県には令の役職があった。楽浪郡は漢の滅亡後は魏、晋に引き継がれた。その後、紀元前82年(始元5年)に漢は真番郡・臨屯郡を廃止し、玄菟郡を移転させ、その範囲の大部分を楽浪郡に併合した。これを「大楽浪郡」という。 西暦313年10月、高句麗の美川王は楽浪郡を占領し、男女二千余人を捕虜にし、楽浪郡は消滅した。
公孫氏
中国東北部の遼東太守となった公孫度は、南半分を支配し帯方郡とした。238年に魏の太尉・司馬懿の率いる四万の兵に襄平城を囲まれ、長期の兵糧攻めにより公孫淵とその子・公孫脩は滅びた。魏は劉昕と鮮于嗣をそれぞれ帯方太守、楽浪太守に任じ楽浪郡・帯方郡を支配した。楽浪郡は魏の直轄地となった。
朝貢窓口
楽浪郡は朝鮮半島北西部を支配したが、楽浪郡は朝鮮系諸民族、北東の濊族や貊族(後の高句麗)、南の韓民族、さらに海を越えた倭からの朝貢使節などを受け入れ、漢の出先機関としての役割を果たした。後漢時代にも継承された。
漢書地理志
「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国となる。歳時を以て来り献見すと云う。」と書かれる。日本人が中国の史書に登場する最初であり、当時の倭人が楽浪郡に朝貢していたとみられる。楽浪郡は漢の出先機関として朝鮮系諸民族、北東の濊族や貊族(後の高句麗)、南の韓民族、さらに海を越えた倭(日本)からの朝貢使節をうけいれていた。漢書地理志によれば、戸数は6万2,812戸、口数は40万6,748人とされる。
比定場所
現在の北朝鮮の平壌市とするのが通説である。平壌市の大同江の南部に楽浪郡の墳墓群がある。
異説
北朝鮮の学界と韓国の一部在野研究者は楽浪郡が朝鮮半島にあったことを否定し、中国の遼東半島にあったと主張する。
遺跡
- 徳星里墳墓
- 所羅里土城
- 万景台墳墓
- 金石里墳墓
- 智塔里土城
- 葛城里甲墳
- 台城里墳墓
- 青山里土城
- 富徳里墳墓
- 冠山里墳墓
- 伏獅里墳墓
- 天柱里墳墓
- 於乙洞土城
- 上里墳墓
- 龍秋里墳墓
- 黒橋里墳墓
- 金灘里墳墓
参考文献
- 鳥越憲三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA
- 奥野正男(1989)『邪馬台国発掘』PHP研究所
- 石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
- 井上秀雄(2004)『古代朝鮮』2講談社学術文庫,pp.75-76
- 伊藤 一彦(2020)「7世紀以前の中国・朝鮮関係史」経済志林87巻3,4号、pp.163-190
サヌカイト ― 2023年08月07日 07:35
サヌカイト(さぬかいと, sanukite)は安山岩の一種で、今から約1300万年前の瀬戸内海地域の火山活動によってできた火山岩である。「讃岐岩」または「カンカン石」とも呼ばれる。
概要
1891年にドイツ人の地質学者(Ernst Weinschenk)が来日して研究し、産地に一つである讃岐にちなんで、サヌキット(Sanukit)と命名して報告した。英語読みではサヌカイト(Sanukite)となる。
性質
サヌカイトは、黒色、緻密、硬堅で、通常の玄武岩や安山岩と比べて斑晶が少ない。古代では石器材料として使われ、打製石器、磨製石器に加工され使われた。
産地
香川県の「五色台」、大阪府と奈良県にまたがる二上山周辺、坂出市の金山や城山など数か所でしか採取できない。
参考文献
- 奈良国立博物館(2008)『正倉院展六十回のあゆみ』奈良国立博物館
野場Ⅰ遺跡 ― 2023年08月07日 23:58
野場Ⅰ遺跡(のばいちいせき)は、岩手県田野畑村にある縄文時代晩期の遺跡である。
概要
田野畑村の漁港から2.2km内陸側にある。三陸鉄道リアス線カンパネルラ田野畑駅の西側2.5kmである。野田Ⅰ遺跡の範囲は東西1600m、南北400m、60万m2の広大な領域である。
調査
平成24年度には縄文時代住居跡21棟、土坑45基、溝状落とし穴7基、焼土遺構1基を検出した。 平成25年4月4日~6月28日の調査期間では、縄文時代住居跡69棟、溝状落とし穴22基、焼土遺構15基を検出した。沢沿いの微高地中央付近に竪穴式建物が繰り返し建てられた。中心に石囲の炉があり、全体から大量の縄文土器や石器が出土した。 沢に面した微高地の先端部に貯蔵穴が集結していた。沢の上流部で縄文時代後・晩期の獣をとらえるための落とし穴が多数見つかった。『独鈷石(とっこいし)』と呼ばれる珍しい石器の破片が見つかった。
遺構
- 竪穴式建物 直径5m
遺物
史跡
アクセス等
名称:野場Ⅰ遺跡
- 所在地: 岩手県下閉伊郡田野畑村羅賀193-1
- 交通:
参考文献
- 岩手県田野畑村(2015)『野場Ⅰ遺跡発掘調査報告書』岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第635集
- 文化庁『発掘された日本列島 2013』朝日新聞出版
最近のコメント