石障 ― 2023年12月10日 22:51
石障(せきしょう)は横穴式石室の玄室の四壁の前に立てられた板状の石材である。
概要
横穴式石室の玄室内をいくつかの埋葬空間に区切るための仕切り板である。特に大きく高い仕切り板をいう。 羨道がつながる前壁側に置くものでは、通路を妨げないようにU字形に切り取ったものがある。玄室に向いた面に線刻で直弧文や円文があるものが多い。 熊井寺古墳や熊井寺千金甲1号墳などは線刻・浮き彫りに彩色を施す。 熊本を中心として分布する。 造山古墳第5古墳(千足古墳)の玄室には石障・玄門の立柱石と板石閉塞・穹窿状に積まれた壁面がある。
出土例
- 石障 - 千金甲古墳(甲号)、熊本県熊本市市、古墳時代
- 石障 - 千足古墳、岡山県岡山市北区井、古墳時代 、直弧文
- 石障 - 造山古墳第5古墳(千足古墳)、岡山県岡山市北区、古墳時代中期
- 石障 - 小田良古墳、熊本県宇土郡三角町、6世紀初め
参考文献
金印紫綬 ― 2023年12月12日 00:32
金印紫綬(きんいんしじゅ)は、紫色の紐(綬)付きの金製の印鑑である。
概要
志賀の島で発見された国宝の「漢委奴国王印」には紐を通す孔が開けられている。 中国の印の材料は官職の序列順に①玉、②金、③銀、④銅であった。 後漢の制度では、諸侯王が金爾、緑綟綬、侯・公は金印紫綬、九卿や郡太守が銀印・青綬であった。皇帝印を璽、官印や私印は印、将軍印は章と呼んだ。魏でも制度を概ね踏襲している。 239年の倭の献使に対して魏帝は卑弥呼を「親魏倭王」に封じ、「金印紫綬」を授けた。国外の王は「金印紫綬」がきまりであった。皇帝は難升米を率善中郎将とし、都市牛利を率善校尉とし、銀印靑綬を授けた。西域の烏孫に列侯として金印紫綬を与え、その臣下にも内臣に準じた銀印・銅印が下賜されているので、同等の扱いである。 243年の献使では大夫の掖邪拘らに「率善中郎将」の印綬を授けたが、これは「銀印青綬」と想定される。この「銀印青綬」の文字は、「親魏率善中郎将」と書かれていたことは、内蒙古自治区凉城県から出土した「晋鮮卑率善中郎将」駱駝紐銀印から類推できる。 なお動物の形状は漢から見て北方は羊・馬鈕、西域は駱駝鈕、南方は蛇・蟠蛇鈕・虺(キ)・螭(チ)、東方は亀鈕となる。倭国は漢から見て南方の国と認識されていたことになる。
漢委奴國王印
1784年(天明4年)の春、志賀島から「漢委奴國王」の金印が見つかったが、『後漢書東夷伝』に「倭奴国奉朝貢賀・・・光武賜以印綬」と記されている金印と考えられている。倭の奴国王が後漢の光武帝から授けられた金印である。蛇鈕の金印はその時点で他に出土例がないため、真贋論争が長く続いた。1956年に中国雲南省の漢墓から前漢の武帝が紀元前109年にテン族の王に与えた蛇鈕の金印「テン王之印」が発見されたため真物説が最有力となった。
出土例
参考文献
森将軍塚古墳 ― 2023年12月12日 12:35
森将軍塚古墳(もりしょうぐんつかこふん)は長野県千曲市にある前方後円墳である。
概要
善光寺平の南域を流れる千曲川の右岸にあり、長野県善光寺平の盟主的古墳である。丘陵の頂部に造営された前方後円墳で、墳丘は丘尾を切断し、自然の尾根に若干の盛土を行う。 有明山(標高490m)の平地から比高差130mの尾根上に築かれる。最も古い記録は1883年(明治16年)に「屋代村の将軍塚」として報告されている。 後円部は円より楕円形もしくは隅丸長方形となり、むしろ前方後方墳に近い形である。 平面形は地位の制約を受けてくの字形に曲がっており、後円部の中心線と前方部の中心線とは12度ずれている。葺石は有明山から集めた石英班岩を用いて積み上げる。竪穴式石室の石英閃緑岩は3km離れている倉科地区から運ばれている。石室や古墳に敷かれた玉砂利は約3km離れた千曲川の河川敷から運ばれた。
森将軍とは
森将軍という人物ではなく、森地区にいた有力者という意味である。善光寺平には「将軍塚」と呼ばれる古墳が11基ある。科野の国で最初の王と考えられる。
調査
昭和41、42年の発掘調査では、墓壙の構造、墳丘の築成法などで特異な事実が判明している。後円部のほぼ中央にある割石小口積の竪穴式石室は、二重に築かれた石垣状の墓壙の中に設けられている。石室は全長7.7メートル、幅平均2メートル、深さ2.1メートルを数え、その四隅が丸く作られている。盗掘の残存品として三角縁神獣鏡片、硬玉製勾玉等が出ており、副葬品や石室の構造等からみて古墳時代前期の築造であり、典型的な畿内型古墳の一つである。昭和41年から東京教育大学が発掘調査を行い、盗掘を受けた竪穴式石室と多量の埴輪を検出した。この調査を受け、昭和46年、東日本での古墳時代前期の前方後円墳の様相を知る上で重要であるとして史跡指定された。 更埴市教育委員会は、昭和56年から整備を目的として、古墳の内容を確認するための発掘調査を実施した。また昭和59年から平成2年にかけて復元工事に合わせて古墳の解体調査や13基の小古墳の発掘調査を行った。
最大の竪穴式石室
森将軍塚古墳の石室は床の幅が広く、床面が平坦である。一般的な古墳では、床幅は棺の幅に合わせた1mぜんごであり、床面は棺の形に合わせたU字形に窪んでいる。森将軍塚古墳の棺は幅が広く、そこは平らであったと考えられる。しかし多数回の盗掘により、木棺の痕跡は残っていない。赤い顔料の「ベンガラ」を壁面に塗り、棺の周りには高価な「朱」が まかれていた。
塚堀り六兵衛
通称「塚堀り六兵衛」は北村六左衛門のことで、江戸時代の終わりに生まれ、明治41年(1908年)に72歳で亡くなった人物である。現在の長野県千曲市土口に住んでいた。古墳を盗掘しては掘り出した副葬品を売り、酒を買って飲んでいた。明治38年ごろに森将軍塚を掘りに行ったが「俺より偉い奴がいて先を越された、何も持ち出せなかった」と語ったという。石室の短辺側の壁に穴を開け内部に侵入したという。「米一升10銭の時代に、(盗掘した副葬品の)勾玉一個が15銭」というのでかなりの稼ぎ口であった。六左衛門は近所の子供に飴をやり、穴掘りを手伝わせていたといわれる。
規模
墳丘
- 形状 前方後円墳
- 築成 後円部:2段
- 墳長99m
- 後円部 径最小43m 高11m
- 前方部 幅30m 長41m 高4m
外表施設
主体部
- 室・槨 ①竪穴式石槨②竪穴式石槨③竪穴式石槨
- 棺 ①割竹形木棺?③割竹形木棺?
遺物
- 【鏡】中国:④三角縁神獣鏡(破片)1。
- 【玉類】硬玉:④勾玉1、碧玉:③管玉12④管玉5、ガラス:③小玉24。
- 【武器・刀剣類】鉄剣:④3(破片)、鉄刀:④2(破片)、鉄槍:④2(破片)。
- 【武器・鏃】類銅鏃:④柳葉3。
- 【その他の武器】④刀子2(破片)。【武器・その他】④刀子2(破片)。
- 【農工具】農具:④鎌1(破片)。【土師器】④小形坩・壺(破片)。
指定
- 1971年3月16日(昭和46年3月16日) 史跡名勝天然記念物「埴科古墳群」
展示
- 森将軍塚古墳館- 出土品等を保管する。
アクセス等
- 名称:森将軍塚古墳
- 所在地:〒387-0007 長野県千曲市屋代29-1 (科野の里歴史公園内)
- 交通:しなの鉄道「屋代高校駅」から「森将軍塚古墳」まで 徒歩48分(2.9km)
- 「屋代高校駅」から森将軍塚古墳館まで徒歩25分(1.8km)
- 森将軍塚古墳館からはマイクロバスあり。
参考文献
- 千曲市教育委員会(2005)『千曲市森将軍塚古墳館ガイドブック』森将軍塚古墳館
- 更埴市教育委員会(1981)『森将軍塚古墳_第一次発掘調査概報』
- 更埴市教育委員会(1983)『森将軍塚古墳_第二次発掘調査概報』
兵庫鎖 ― 2023年12月14日 01:05
兵庫鎖(ひょうごくさり、Loop in Loop Chain)は楕円形の金属の輪を二つ折りにして、連ねた鎖である。
概要
輪の中に輪を通して作る鎖である。大陸で発達し、日本へは金製の兵庫鎖がつく頸飾りが4世紀に持ち込まれた。 金製の兵庫鎖の耳飾りは5世紀から6世紀にもたらされた。5世紀には鉄製の兵庫鎖のつく馬具を導入し、6世紀に普及する。 平安時代の馬具では、鎖を相互に固定する。 宇野愼敏(1999)は垂飾付耳飾の兵庫鎖をA種とB種に分けた。 初期垂飾付耳飾の分布などから、畿内政権による官営的工房で生産されたものが、地方豪族や首長層に下賜されたものと指摘する。 江田船山古墳出土の金製耳飾は兵庫鎖を介して空球と宝珠形・円錐形の垂飾を連結する。
用途
作例
- 金製垂飾付耳飾 - 新沢千塚126号墳出土、奈良県橿原市川西町、古墳時代
- 漆胡瓶 - 正倉院、銀製兵庫鎖がつく
- 鉄地黒漆塗壺鐙 - 五反島遺跡、平安時代前期の壺鐙に兵庫鎖が付属し、外面に黒漆を塗布する
- 兵庫鎖付素環轡 - 飛山4号横穴、大分県大分市
- 金製耳飾 - 江田船山古墳出土、熊本県和水町、古墳時代
参考文献
- 宇野愼敏(1999)「初期垂飾付耳飾の製作技法とその系譜」『日本考古学』第7号、pp.43-57
東名遺跡 ― 2023年12月14日 10:12
東名遺跡(ひがしみょういせき)は佐賀県佐賀市にある縄文時代早期の遺跡である。 国内最古の湿地性貝塚である、
概要
佐賀市中心部から北約4キロにある縄文時代早期末の遺跡である。 縄文時代早期末葉(約7000年前)で縄文海進の影響で、当時の海岸近くで生活を始めた。 標高3メートル以下の微高地で集石炉・墓地を主体とする集落域と標高0メートル以下の谷部に形成されたドングリ貯蔵穴を伴う貝塚から構成されている。 当時の日本列島は、温暖化により海水面が上昇しており(縄文海進)約6000年前にピークに達した。その後、遺跡全体は埋没し、厚い粘土層で覆われた。遺跡全体が厚い粘土層に覆われたことなど良好な保存条件に恵まれたため、国内最古級の様々な遺構・遺物が良好に残存している。 居住域・墓地・貝塚・貯蔵穴がセットで残されており、縄文時代のムラ全体の様子が良くわかる国内事例である。当時の食生活を中心とした生活様式や文化を鮮明に知ることができる。日本の生活文化の源流を考える上で極めて重要な遺跡である。 南北500m以上と広域に及ぶ国内最大級の貝塚群であり、6ケ所の貝層の総面積は約1,700㎡を超える。貝塚としては九州最古級で、縄文貝塚の空白地帯である有明海最奥部の佐賀平野で発見された。 炭素年代測定の結果から、7950年前から7400年前までの短めのい期間にいとまなれた遺跡と判明した。
発掘調査
巨勢川調整池の標高-0.5mから-2.5mまでの約5.5mから7.5m堀り込む過程で、標高3m付近、約2m程度堀り進んだ地点で縄文時代早期の集落跡や墓地が発見され、平成5年度から平成8年度にかけて発掘調査を実施した。約5m程度堀り進んだ標高0.5m地点で、縄文時代早期の貝塚が平成15年5月に発見され、平成16年9月より本格的に調査した。貝塚は全部で6箇所発見されており、貝層の面積は、約1,700m2に及ぶと想定されている。日本の土壌は、酸性土壌であり、酸化し劣化してしまうため木製品等の有機物は残りにくい土壌環境です。このような土壌環境のため、木製品や網籠が良好な形で残っていることが、全国的にも珍しい。国内最古の木製櫛をはじめとする日本最大級の木製品は、貴重な出土品である。
日本最古の編み籠
木製の網かごは日本最古で、731個(縄文時代の網かご全部の約60%)の量、10種類以上の編み方(縄文時代の網かごの編み方のすべてを網羅)という縄文時代の質の高さがうかがえる。網代編が最も多くみつかる。国内の縄文遺跡でみつかる多くの編み方が、縄文時代早期から登場していることが分かる。
日本最古の犬
発掘された犬の骨は、DNA鑑定の結果、秋田犬や柴犬と一致しており、鑑定で確認されたものとしては今の時点では最古の日本犬である。
ドングリ貯蔵穴
直径1m強の円形穴の中に、網代編みのかごが破損し、潰れた状態で残っていた。目印の可能性がある木の棒が刺さったままであった。ドングリ類は水に漬けて生のまま貯蔵していたとみられる。
遺構
- 貝層2 国内最古の湿地性貝塚
- 埋葬人骨5
- 縄文早期の人骨出土(7体分)
- 土坑155
- 集石167 – 一次
- 集石4 – 二次
- 石器集積19
- 炉3
- 配石3
- 木杭500
遺物
- 編み籠 - 700点以上 植物遺存体
- 六ツ目編(割り裂き材)
- 木製品(櫛)- <国内最古>
- 木製皿
- 土偶 – 関東地方より3500年早い
- 土製耳飾り
- 縄文土器(塞ノ神B式土器+轟A式土器+押型文土器)
- 石器
- 礫
- 縄文土器(塞ノ神式土器+押型文土器+条痕文土器)
- 貝製品
- 骨角製品 (鹿角製装飾品)
- 獣骨 (イヌ・カモシカ・カワウソ・タヌキ)
- 木製品
- 動物遺存体(貝+骨(獣+魚)
- 骨格器(鹿角製装飾品)
指定
- 平成28年10月3日 国指定史跡
展示
アクセス等
- 名称:東名遺跡
- 所在地:佐賀県佐賀市金立町千布字東名
- 交通: 伊賀屋駅 徒歩35分 3.2km/佐賀市営バス(二俣・金立公園線)「二俣」停留所から徒歩約20分
参考文献
- 文化庁(2007)『発掘された日本列島 2007』朝日新聞社
- 佐賀市「東名遺跡解説パンフレット(H25-改訂版)佐賀市」
小玉 ― 2023年12月14日 12:01
小玉(こだま)は古代に首飾りや」腕飾りなどに使われた直径5から6ミリの小粒の丸い玉である。
概要
多くはガラス玉である。弥生時代から古墳時代前期にかけてガラスの色ははほぼ水色に限られていた。古墳時代には小玉だけ、あるいは他の玉とともに連ねて、耳、首、手、足などの飾りとした。縄文時代には石製のものもあった。 弥生時代には、貝製小玉(臼玉)が北部九州、、山陰地方、瀬戸内海の沿岸部で顕著に分布する。3546個のガラス製小玉を出土した二塚山遺跡(佐賀県)がある。ガラス小玉は濃紺色と水色のものに大別できる。形態は臼玉・丸玉・棗玉様の三種がある。
命名
1888年に坪井正五郎が「小玉」と命名し、1991年に高橋健児が「管玉を短くすれば臼玉、臼玉の角を取れば小玉、小玉を大きくして高くすると元の丸玉」として、用語が定着した。高橋は両者の中間もあり、丸玉や臼玉との区別の基準は明確ではない。
流通
ガラスを国内で原料から生産していたものではなく、製品や資材として作られたものが国内に持ち込まれ、加工・流通していたものと考えられている。一部の遺跡から勾玉の鋳型なども見つかっているため、ガラス加工技術を持っていたと考えられる。奈良時代には玉以外にも、朝廷の保護のもとで仏教関連のガラス製品などが作られた。 ガラス小玉の製作法は次の3つがある。
- 管切り法
- 巻き玉の方法で作った管玉を冷えていない状態で引き伸し、細長い管とする。完成した管を細かく輪切りにした後に、熱を加えて断面の角をとっていく方法である。
- 巻き付け法
- 溶解したガラスを棒状の金属を回転させながら巻き取って形を作る方法である。トンボ玉など大きめの玉を作る場合に使われていた。
- 鋳造法
- 鋳型として粘土板や板状の砂岩に、径3~4mmの半球状の窪みを多数配置し、窪みの中央には径1mmほどの細かな穴を穿つ。細かな穴に針金のようなものを立て、周囲の窪みに溶かしたガラスを流し込んだり、ガラスの破片をおいた後に鋳型ごと熱して鋳型に溶かしたガラスを流し込む方法をとっていた。溶解したガラスが固まった後に、先ほどの針金状のものを抜き取ることで、糸を通す穴ができあがる。
用途
古代では男女とも地位のある人物は首飾り、 髪飾り、 腕飾りなどで身体を飾っていた。社会的地位の威儀を示すものだったと考えられる。
出土例
- ガラス小玉鋳型 - 薬師堂東遺跡
- 鋳型が使用された年代は、飛鳥時代であった。鋳型に残存するガラスの成分分析により朝鮮半島産の鉛ガラスが使用されていたことが判明した。
- 権現山51号墳
- 雀居遺跡
- 中原遺跡
- 天塚古墳
- 弘法山古墳
- 牽牛子塚古墳
- 将軍山古墳
- 山王塚古墳
- 豊田狐塚古墳
- 遠見塚古墳
- 姉崎二子塚古墳
- 安満宮山古墳
- 宮山遺跡 (総社市)
- 室宮山古墳
- 王塚古墳
- 西都原古墳群
- 吉島古墳
参考文献
- 木下尚子(1985)「貝製臼玉考」梅花女学院大学地域文化研究所紀要1
- 伊藤雅文(1991)「玉類」『古墳時代の研究 第8巻』古墳2 副葬品、雄山閣出版
東名縄文館 ― 2023年12月14日 12:18
東名縄文館(ひがしみょうじょうもんかん)は佐賀市金立町にある東名遺跡の遺物のる展示館である。
概要
国史跡東名遺跡に隣接し、遺跡のガイダンス展示コーナーを開設する。平成21年8月に開館した。 貝塚の剥ぎ取り、貝製や骨角製アクセサリーを展示する。巨勢川調整池管理棟の1階にある。復元品の「東名遺跡」から出土した国内最古とみられる編みかごを展示する。佐賀市は2028年に「東名遺跡ガイダンス・埋蔵文化財センター」の開設を目指している。
展示
- 装身具
- 腕輪、ネックレス、ペンダント。骨に模様を彫って、穴をあけ首から吊るしたとみられる装身具。貝やイノシシの牙、シカの角が、腕輪やペンダント、腰飾りに用いられ、サメの骨で作ったピアスなど。
- 骨角製品 鹿の角で作ったペンダント
- 東名遺跡で作成された証拠として、角がとれたところから、製品になるまでの過程の遺物が貝塚にそろって残っていた。
- 貝輪
- 貝を素材にした貝輪である。ベンケイ貝は有明海にはなく、外海でとれる貝で唐津または糸島の貝であろう。日本列島最古のオオツタノハ性の貝輪である。 オオツタノハは鹿児島の奄美群島より南の海でとれる貝であり、東名遺跡に来た経緯は解明されていない。
- 貝玉
- ハナマルユキという宝貝で、オオツタノハと同じく鹿児島より南の海でとれる貝である。
- 編みかご
- 国内最古の編みかご。発掘された現物と復元された編みかごを展示する。
- 東名遺跡の犬の骨。
- DNA鑑定の結果、柴犬・秋田犬など日本犬のDNAと一致し、最古の日本犬であることが分かった。犬の多くは猟犬として使われ、人間の最初のペットとなった。
- 縄文時代の「貝」
- 土器
- 南九州の塞ノ神式土器、
- 石器 - 石鏃・石銛・石錐
- 木製品
- 円形皿 - 木製の皿
- 鉢状容器 - 木製容器
- 櫛 - 国内最古の木製櫛
アクセス等
- 名称:東名縄文館(東名遺跡)
- 所在地:佐賀市金立町大字千布(巨勢川調整池内)
- 開 館:火曜~日曜日・祝日 10:00~16:00
- 休館日:月曜日(月曜日が祝日・振替休日の場合は翌日)、年末年始(12/29~1/3)
- 料 金:無料
- 交通:佐賀駅から佐賀市営バス(二俣・金立公園線)「二俣」停留所⇒徒歩約20分
- 佐賀駅から佐賀市営バス(兵庫・久保泉工業団地線)「渕頭」停留所⇒徒歩約15分
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