山内清男 ― 2023年05月28日 21:35
山内清男(やまのうち すがお、1902年1月2日 - 1970年8月29日)は考古学者である。元東京大学講師、元成城大学教授。日本先史考古学の父とも言われる。
概要
綿密な観察と層位学的研究手法を用いて縄文土器の年代決定を行い、縄文土器の編年体系を構築した。時間的経過とともに事象の変化生成を明らかにする学問では、その時間経過の体系、すなわち編年が重要となる。大正末期から昭和初年にかけて科学的考古学が確立された。山内は編年体系の基礎として、型式と系統という二つの概念を用いた。型式は一定の形態と装飾を持つ一群の土器であって、他の型式とは区別される特徴を持つとされる。系統は諸型式間における時間的、空間的関連をたどるさいの指標となる。相似の形態、相同の形態、その他の概念で表される。
ミネルヴァ論争
「縄文時代終末論争」とも呼ばれる。歴史学者の喜田貞吉は宋銭と亀ヶ岡式土器が併出した事例により東北地方の縄文時代の終わりを鎌倉時代頃まで引き上げた。これに対して山内は『ミネルヴァ』創刊号で各地の時や文化の編年研究(縦)と,それらの地域間のつながり(横)を検討し、縄文文化の終末時期は日本各地で大差ないと反論した。
経歴
- 1902年(明治35年)1月2日、東京府東京市下谷区谷中清水町に生まれる。
- 1919年に鳥居の勧めで東京帝国大学理学部人類学科選科に進学。
- 東京帝国大学理学部人類学科選科卒業。
- 1924年、東北帝国大学医学部解剖学教室の副手となる。
- 1924年(大正13)、千葉市若葉区加曽利貝塚発掘で、土器型式の差が年代の違いによることを明らかにした。、
- 1933年に東北帝国大学医学部を依願解職する。
- 1946年、東京帝国大学理学部人類学教室非常勤講師となる。
- 1962年、京都大学より文学博士の学位授与。
- 1962年4月、成城大学文芸学部教授に就任
- 1970年8月29日、死去、
著書/論文
- 山内清男(1934)「真福寺貝塚の再吟味」『ドルメン』第3巻第12号 岡書院
- 山内清男(1938)「縄紋土器型式の大別と細別」『先史考古学』第1巻第1号 先史考古学会
- 山内清男(1958)「縄紋土器の技法」「図版解説」 『世界陶磁全集 第一巻』 河出書房
- 山内清男(1968)「縄紋土器の改定年代と海進の時期について」『古代』48号,早稲田大学考古学会
- 山内清男(1969)『先史考古学論文集〈新第1-3集〉』先史考古学会
- 山内清男(1969)「縄紋草創期の諸問題」 『MUSEUM』224 東京国立博物館
- 山内清男(1979)『日本先史土器の縄紋』先史考古学会
共著
- 山内清男編(1964)『日本原始美術 第1』講談社
参考文献
- 山内 清男(1936)「日本考古学の秩序」『ミネルヴァ』 第1巻 第4号,pp.1-10.
- 日本人類学会(1971)「山内清男博士略歴」人類学雑誌79(2),pp.6-10
by 南畝 [古代史人物団体] [コメント(0)|トラックバック(0)]
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/05/28/9590061/tb
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。