法興年号 ― 2023年08月14日 22:44
法興年号(ほうこうねんごう)は、一般に私年号とされるが、飛鳥時代に使われた年号である。
法興年号
法興は私年号とされるが、法興元年は崇峻4年(591年)である。大矢透の説では、591年を仏法が興る元年においたとする。癸未年は623年であるから、法興元年は591年となる。 また、『釈日本紀』所収の「伊予国風土記逸文」に、「法興六年」(596年)と記載される。 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘には法興31年が使われる。これは621年である。
聖徳太子年号仮説
591年は崇峻が暗殺される前年である。 592年10月4日に、猪を献上する者があり、崇峻は笄刀を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言した。そのことを聞きつけた蘇我馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。崇峻が暗殺されたあと、聖徳太子が天皇として即位した可能性が考えられる。1年の違いをどう考えるかが、問題である。仮説としては1年前の591年に崇峻が暗殺され、聖徳太子が即位し、法興の年号を使い始めたとすると、それらの辻褄があう。この仮説では推古の即位はあったのかという疑問が残る。 隋の使節が倭国に到来し男王にあったのが608年(大業4年)であるから、これともつじつまがあう。『元興寺伽藍縁起』所引の丈六光銘に、大隋国使主鴻臚寺掌客裴世清と使副尚書祠部主事遍光高らの来朝の記事を伝える。つまり使者の裴世清があったのは、倭王の聖徳太子であったとするとすべて辻褄があう。女性の推古大王では、記録と矛盾する。中国の皇帝は男性が原則であるから、女性であったら正確に報告し、隋書に記載されるであろう。 すなわち聖徳太子の存命中は法興年号が使われたと考えると、金石文、中国史料と合理的に矛盾なく説明できる。31年続いた王朝が使用する年号が私年号とは言いにくいのではなかろうか。
『釈日本紀』が引用する「伊予風土記」逸文
- 法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王与慧慈法師及葛城臣
- 道遙夷予村正観神井 歎世妙験 欲叙意 聊作碑文一首
- 惟夫 日月照於上而不私 神井出於下無不給 万機所以妙応
- 百姓所以潜扇 若乃照給無偏私 何異干(天の誤りか)寿国
- 随華台而開合 沐神井而?(癒)疹 ?(言巨)舛于落花池而化弱
- 窺望山岳之巌?(愕) 反冀子平之能往 椿樹相?(蔭)而穹窿実想
- 五百之張蓋臨朝啼鳥而戯?(峠の山が口) 何暁乱音之聒耳
- 丹花巻葉而映照 玉菓弥葩以垂井 経過其下 可以優遊
- 豈悟洪灌霄霄庭 意与才拙実慚七歩 後之君子 幸無蚩咲也
指定
参考文献
- 東野裕之(2004)『日本古代金石文の研究』岩波書店
- 卜部兼方(1975)『釈日本紀』吉川弘文館
石上神宮 ― 2023年08月14日 23:00
石上神宮(いそのかみじんぐう)は日本最古の神社のひとつで、古代の豪族物部氏の総氏神とされる。
概要
崇神天皇7年、勅命により物部氏の祖 伊香色雄命が、石上布留高庭(現在地)に武甕雷神(たけみかづちのかみ)を祀り、石上大神と称えたのが創建とされる。日本書紀崇神7年8月に伊香色雄命を神班物者とする記事がある。物部の八十平瓮を祭神としたところ国内の疫病が収まったという。我が国の霊剣は草薙剣を除いて当宮に祀られることになっている。
祭神
- 布都御魂大神:神剣「韴霊(ふつのみたま)」に宿る霊威を称え布都御魂大神という。佐土(さじ)布都神とも いい、神代に武甕雷神がおびていた霊剣であり、平国之剣(くにむけのたち)ともいわれる。天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)に宿る霊威を称えるとも言われる。天璽十種瑞宝は、饒速日命が天津神から授けられた十種の神宝をいう。
宝物
- 七支刀
- 国宝。古代の遺品で、社伝では「六叉鉾」 と称されていた。現在は刀身に記された銘文により「七支刀」と称する。『日本書紀』に百済から献上された「七枝刀」と考えられている。
- 鉄盾
- 重要文化財。神庫に「日の御盾」と称して収蔵されてきた伝世品で、2面ある。1面は東京国立博物館に委託されている。製作年代は、5世紀後半と推定される。
- 色々威腹巻
- 重要文化財。腹巻は行動性を重視した形式の甲で、当神宮のものは白・紫・紅・萌黄という鮮やかな色の糸でつづり合わせている。足利尊氏が奉納したものと伝えられる。奈良国立博物館に委託されている。
- 硬玉勾玉
- 重要文化財。濃緑または淡緑の翡翠を加工した勾玉で合計11個. 古墳時代前期の副葬品に見られる勾玉と類似する。
- 碧玉管玉
- 重要文化財。合計で293個。古墳時代前期。
- 琴柱形石製品
- 重要文化財。
- 弧状管玉
- 重要文化財。乳灰色の硬玉で作られた弦月状の管玉
- 硬玉棗玉
- 重要文化財。軟玉製で、合計で9個あり、紋様の有無・緑色の濃淡など多様。
- 環頭大刀柄頭
- 重要文化財。環形の装飾をした大刀の柄頭
- 銅鏃
- 重要文化財。古式の柳葉形のやじりで、長さは7.2cm、良質の白銅製。
- 銅境
- 重要文化財。草花文鏡と萩菊双雀鏡の2面。作されたのは平安時代後期と推定
- 金銅垂飾品
- 2個の環を直角に組み合わせてその上に小さな環をとりつけたもの。長さ4.6cm、
- 金銅鐶
- 重要文化財。銅製を鍍金したものが2個、銅製を鍍銀したものが1個の計3個。
建築
- 拝殿
- 国宝。拝殿としては現存最古。建築様式は鎌倉時代初期の建立。白河天皇が、当神宮の鎮魂祭のために、永保元年(1081年)に宮中の神嘉殿を寄進したとされる。入母屋造、檜皮葺。
- 本殿
- 明治43年から大正2年にかけて神剣「韴霊」を奉安するために本殿を建立する。
- 楼門
- 重要文化財。鎌倉時代末期、第96代後醍醐天皇、文保2年(1318年)に建立されたと伝わる。
- 摂社 出雲建雄神社拝殿
- 国宝。元は内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿を大正3年に現在地に移築。内山永久寺は鳥羽天皇の永久年間(1113~18)に創建された大寺院。
- 神庫
- 禁足地の南西の隅に建っている二戸前の校倉造の建物。現在の神庫は嘉永4年(1851)に再建されたもの。
アクセス等
- 名称:石上神宮
- 拝観料:無料
- 拝観時間:御門内での参拝は日の出より日没まで
- 所在地:〒632-0014 天理市布留町384
- 交通: JR・近鉄 天理駅 苣原行きバス「石上神宮前」下車 徒歩7分
参考文献
野中寺弥勒菩薩半跏像 ― 2023年08月14日 23:04
野中寺弥勒菩薩半跏像(やちゅうじみろくぼさつはんかぞう)は大阪府羽曳野市にある野中寺にある弥勒菩薩半跏像である。
概要
1918年(大正7年)5月に、野中寺宝蔵の塵埃の中から発見された。像高18.5cmである。 「5月17日田澤、中両氏と河原古市町の西野々上の野中寺を訪ひ、塵挨にまみれつつ宝蔵内を検索したるに、蔵の一隅塵芥中から偶然にも一つの金銅佛像を見出した。像は高さ一尺に満たないが行相から見ると疑いもない弥勒像で、八角獅子座の上に半跏趺坐した円満具足の霊像であつた。」「左手を膝に右手を届めて、指頭で軽く左頬を指し、隻足を座から浮き出た八分開きの蓮座の上に軽く置いて居る。」(大阪毎日新聞、大正7年(1918)5月21日付) 毎月18日に開帳される。金銅弥勒菩薩半跏像で飛鳥時代の数少ない年紀銘がある作例である。飛鳥様式から白鳳様式への転換を象徴する基準作例とされる。 「丙寅年」は666年(天智5年)である。4月8日が「癸卯」にあたるのは、天智5年(666)のみである。
栢寺
木崎愛吉は「刻銘にある「栢寺」を、「橘寺」と解釈し」、「四十八体佛は最初橘寺より法隆寺に伝はり、近歳更に献納されて御物となるに至れりといふ記録上(法隆寺の写本古今一陽集)の実証を提供せるものというべく、殊に当初四十九体ありきといえるその不足の一体は、この新発見の弥勒仏を得て、何となくその件数を補へるもののように思い当るをなしとせず。」と書く。銘文の「栢寺」を、「橘寺」と解する見方は、最有力の説であったが、現在は「栢寺」をどの寺院に該当するかの定説はない。
中宮天皇
「天智天皇説」、「斉明天皇説」、「間人皇后説」があるこの時期に「天皇」文字が使われているのは古い事例といえる。鍋田(1954)は中宮天皇は斉明天皇を示すという。しかし、斉明天皇は661年に亡くなっているので、前後関係が合わない。
製作技法
装飾文様に魚々子鏨を使用していない。白鳳期の金銅仏には着衣や装身具などに魚々子鏨で装飾文様をあらわす作例が多く見られるが、本像の装飾文様には魚々子鏨が全く使用されていない。魚々子鏨を用いると簡便かつ鮮明に表現できるように思える箇所でも、通常の鏨を用いて彫りあらわしている。飛鳥時代の仏像にみられる「古拙の微笑」は見られない。裳や台座などの各所にはタガネで文様を刻む。
偽銘説
東野(2000)は野中寺・弥勒半跏像は刻銘は、近代、明治末年以降の偽銘と指摘した。 藤岡穣は「刻銘をめぐっては従来さまざまな疑義が呈され、像そのものを近代の作とみるむきもあつた。これに対し、近年の研究で元禄12年(1699)成立の『青龍山野中律寺諸霊像目録』に『弥勒大士金像』の文言が見出され、大阪・大聖勝軍寺で江戸時代の作とみられる本像の模刻像が再確認されたことにより、少なくとも擬古作との疑念は払拭された」と書く。
指定
- 1921年(大正10年)8月8日 重要文化財 指定
釈文
- 丙寅年四月大朔八日癸卯開記柏寺智識之等詣中宮天皇
- 大御身労坐之時誓願之奉弥勒御像也
- 友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也
野中寺
飛鳥時代、聖徳太子が蘇我馬子の助力を得て建立したと伝えられる寺。太子町・叡福寺の「上の太子」、八尾市・大聖勝軍寺の「下の太子」とならぶ「河内三太子」のひとつ。飛鳥時代の創建伽藍は南北朝時代の兵火で焼失。
- 宗派:高野山真言宗
- 所在地:〒583-0871 大阪府羽曳野市野々上5丁目9-24
- 交通:近鉄南大阪線「藤井寺駅」より「野々上」バス停下車
参考文献
- 礪波恵昭(2015)「野中寺弥勒菩薩半跏像の再検討」皇學館大学紀要53, pp.1-32
- 松田真平(2010)「野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証」『佛教藝術』313号、毎日新聞社
- 小泉惠英(1994)「法隆寺献納宝物一五六号と野中寺弥勒像」大橋一章編著『論争奈良美術』、平凡社
- 東野治之(2000)『野中寺弥勒像台座銘の再検討」『国語と国文学』・77巻11号
- 藤岡穣(2014)「野中寺弥勒菩薩像について」ミューゼアム649号
- 藤岡穣(2915)「白鳳 花ひらく仏教美術 開館120年記念特別展 図録」奈良国立博物館
- 鍋田一(1954)_天皇という文字の初出の時期についてー覚書3
飛鳥大仏 ― 2023年08月14日 23:08

飛鳥大仏(あすかだいぶつ)は奈良県奈良県高市郡明日香村飛鳥に飛鳥寺の本尊である釈迦如来である。
概要
飛鳥大仏は日本最古の大仏といわれる。飛鳥寺は豊浦寺、葛城寺、建興寺、法師寺、建通寺ともよばれていた。日本書記によれば先に寺を作り始め、606年(推古14年)夏4月8日。銅と刺繍の丈六の仏像を作り終えたとされ、606年(推古14年)に仏像が完成したこととされる。当時は銅15t、黄金30kgを用いて造られたという。しかし飛鳥大仏像の完成は、『元興寺縁起』による609年の完成説が定説となっている(和田萃(2003))。 国の重要文化財に指定されている。
後補と当初
奈良国立文化財研究所は1973年(昭和48年)に坐像の調査を行ない、その結果、当初部分と考えられるのは頭部の額から下、鼻から上の部分と、右手の第2~第4指のみと判断した。 その後、早稲田大学文学学術院の大橋一章教授(文学部)らは、飛鳥大仏の約150カ所に含まれる金属の割合をⅩ線分析によって調査した結果、造立当初の箇所(左鼻梁、右手第二指甲)と鎌倉時代以降に補修したとされる箇所(鼻下、左襟、左膝上)の銅などの金属組成に際立った差異がないことが判明した。ほとんどが飛鳥時代当初のままである可能性が高いと判定された(大橋一章(2013))。 犬塚 将英・早川 泰弘らは2017年に蛍光X線分析を行い、飛鳥大仏の材質調査を行った。キューブライトとテクノライトの比が測定個所により一定でないことが判明した。また当初と後補との明確な関係は見いだされなかった。テクノライトを指標として、当初と後補を判断することは直ちにできないと判断した(犬塚 将英・早川 泰弘他(2017))。 鋳造専門家の調査では銅を複数回注いだ継ぎ目の跡があり、奈良時代以前の技法と推定されている。
飛鳥寺
710年(和銅3)の平城遷都に伴い奈良に新寺を建立して新元興寺と称したが、飛鳥の寺は本元興寺(もとがんごうじ)とよばれ、徐々に荒廃し、現在は安居院に飛鳥大仏を残すのみとなった。飛鳥寺は887年と1196年の落雷で火災にあい、本堂が焼け落ちている。
日本書記(訳)
- 推古元年春1月15日。法興寺の刹柱の基礎中に仏舎利を置いた。
- 即位4年冬11月。法興寺の造営が終わり大臣(蘇我馬子)の息子、善徳臣を寺司とした。この日に慧慈・慧聡は初めて法興寺に行った。
- 推古13年夏4月1日。天皇は皇太子と大臣(蘇我馬子)と諸々の王と諸々の臣に詔して、共に誓願した。銅と刺繍の丈六の仏像を、1体ずつ作ることとした。そこで鞍作鳥(鞍作止利 )に命じて仏像を造らせた。
日本書記(原文)
- 元年春正月壬寅朔丙辰、以佛舍利置于法興寺刹柱礎中、丁巳建刹柱
- 四年冬十一月、法興寺造竟、則以大臣男善德臣拜寺司。是日、慧慈・慧聰二僧始住於法興寺。
- 推古十三年夏四月辛酉朔、天皇、詔皇太子大臣及諸王諸臣、共同發誓願、以始造銅繡丈六佛像各一軀。乃命鞍作鳥、爲造佛之工。是時、高麗国大興王、聞日本国天皇造佛像、貢上黃金三百兩。
- 十四年夏四月乙酉朔壬辰、銅繡丈六佛像並造竟。是日也、丈六銅像坐於元興寺金堂)。
指定
- 重要文化財 - 1940年指定
元は国宝
1940年(昭和15)年に旧国宝に指定された。その後、1950年(昭和25年)に文化財保護法が施行され、それまでの国宝は重文に変更された。その上で国宝が選び直されたが、飛鳥大仏は選から漏れていた。理由は、オリジナルの部分は目周辺や右手中央の指の3本だけと考えられていたからであった。しかし前期の通り、かなりの部分がオリジナルであれば、国宝に再指定される可能性もある(産経新聞2018年10月27日記事)。
参考文献
- 犬塚 将英・早川 泰弘・皿井 舞・藤岡 穣(2017)「可搬型X線回折分析装置を用いた銅造釈迦如来坐像(飛鳥大仏)の材質調査」保存科学56号、pp.65-75
- 大橋一章(2013)「飛鳥大仏の制作と火難」奈良美術研究 / 早稲田大学奈良美術研究所 編 (14), pp.71-76
- 和田萃(2003)『飛鳥-歴史と風土を歩く』岩波書店
- 「日本最古級の仏像「飛鳥大仏」、国宝に返り咲くか」産経新聞,2018年10月27日
蘇我馬子 ― 2023年08月14日 23:12
蘇我馬子(そがのうまこ、?-626年)は敏達から推古まで活動した飛鳥時代の豪族である。 「蘇我馬古」、「有明子」、「嶋大臣」、「汙麻古」とも記される。
概要
蘇我稲目の子、蘇我蝦夷の父。飛鳥時代の初期に活躍した政治家・豪族である。 敏達元年に大臣となる。 敏達、用明、崇峻、推古の4代の大王に渡りヤマト政権の中枢で活動した。仏教を広めるため物部守屋と対立し、これを滅ぼした。
大臣就任
敏達元年夏四月に百済の大井に宮殿を作り、物部守屋を元のように大連とし、蘇我馬子を大臣としたとされる。百済の大井とは百済大井宮である。
- (原文)以物部弓削守屋大連爲大連如故、以蘇我馬子宿禰爲大臣。
再任か初任か
しかし、これ以前に物部守屋を大連とした記載は見当たらない。父が大連だったからというなら、馬子の父の蘇我稲目も大臣であったから、ことさら物部守屋だけを前の通りという理由は不明である。
- 垂仁廿六年秋八月 天皇勅物部十千根大連曰
- 履中二年春正月 當是時、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・圓圓、此云豆夫羅大使主、共執國事
- 雄略三年冬十月 以平群臣眞鳥爲大臣、以大伴連室屋・物部連目爲大連。
- 淸寧廿三年八月 「於是、大伴室屋大連、言於東漢掬直曰」
吉備派遣
敏達三年(574年)冬十月に吉備に派遣されて白猪屯倉や児嶋屯倉などを設置し、管理したとされる。
- (原文)遣蘇我馬子大臣於吉備國、増益白猪屯倉與田部
仏教僧の育成
敏達13年(584年)、蘇我馬子は百済から渡来した木像と石像の仏像2体を貰い受け、鞍部村主司馬達等・池辺直氷田を使者として派遣して、修行者を探させた。播磨国に僧還俗の高麗の恵便がいたので、大臣は師とした。司馬達等の娘の嶋・善信尼11歳を出家させた。善信尼の弟子の二人漢人の夜菩の娘の豊女、二人目は錦織壺の娘の石女惠善尼である。 最初の日本の僧3名はいずれも女性であった。3人とも渡来人の家系のようである。
物部守屋との争い
- 用明2年4月(587年)、用明大王は病気になり仏教を信仰したいと諮った。物部守屋と中臣勝海は反対したが、蘇我馬子は詔を奉じて、穴穂部皇子に僧の豊国をつれて来させた。 ほどなく用明天皇は崩御し、物部守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、6月、馬子が先手を打ち炊屋姫を奉じて穴穂部皇子を殺害した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすこととし、諸皇子、諸豪族の大軍を伴い挙兵した。守屋は抵抗したが、厩戸皇子は四天王像を彫り戦勝祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。迹見赤檮が守屋を射殺し、馬子は勝利した。8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とした。 馬子は請願通り、法興寺(飛鳥寺)を建立した。
- (原文) 於譯語田宮御宇天皇之世、蘇我馬子宿禰、追遵考父之風、猶重能仁世之教。而餘臣不信、此典幾亡。天皇、詔馬子宿禰而使奉其法。於小墾田宮御宇天皇之世、馬子宿禰、奉爲天皇造丈六繡像・丈六銅像、顯揚佛教、恭敬僧尼。
百濟に留学生を派遣
崇峻元年(588年)、馬子は百済僧らに受戒の法を訊ね、善信尼らを百濟國の使者「恩率首信」等らにつけて学問留学させた。また法興寺を創建した。
帝紀の編纂
推古28年(620年)に厩戸皇子と馬子は「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」を編纂した。
- (原文)是歲、皇太子・嶋大臣共議之、錄天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部幷公民等本記。
病気と死去
- 書紀 蘇我馬子は日本書紀では推古34年(626年)5月20日に亡くなったとされる。桃原墓に埋葬されたとされる。評するに「武略有りて、また弁がたつ。仏教の三宝を恭敬して、飛鳥川のほとりに住んでいた。庭の中に小さい池を作った。小島を池の中にはなつ。人は島大臣といった」(書紀推古34年)とされる。桃原は石舞台古墳のあるあたりと考えられている。
- (原文) 夏五月戊子朔丁未、大臣薨、仍葬于桃原墓。大臣則稻目宿禰之子也、性有武略亦有 辨才、以恭敬三寶。家於飛鳥河之傍、乃庭中開小池、仍興小嶋於池中、故時人曰嶋大臣。
- 帝説 上宮聖徳法皇帝説では、病気になったのは推古34年(626年)8月、馬子のため男女千人が出家したとされる。馬子の死去は推古35年(627年)6月とする。
馬子の墓
明日香村にある石舞台古墳は、馬子の墳墓とする説が有力である。
蘇我氏の系譜
蘇我氏の系譜は武内宿繭を祖とする(太田亮(1942))。 武内宿繭 - 蘇我石川- 蘇我満智 – 蘇我韓子 – 蘇我高麗 – 蘇我稲目 –蘇我馬子
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 東野治之(2013)『上宮聖徳法皇帝説』岩波書店
蘇我日向 ― 2023年08月14日 23:18
蘇我日向(そがのひむか、7世紀中頃)は飛鳥時代の古代豪族である。 「曽我日向子」とも記される。名は「身刺(むさし)」(大化5年)「身狭」「武蔵」「無耶志」。
概要
蘇我馬子の孫、蘇我倉麻呂の子。飛鳥時代に活躍した政治家・豪族である。 親の「蘇我倉」が苗字とすれば、なぜ「蘇我日向」に戻るのであろうか。
密通事件
皇極三年一月一日条[中大兄皇子は蘇我倉山田麻呂の娘と婚約したが、その日の夜に一族の蘇我日向に偸(ぬす)まれたとされる。次女の遠智娘が身代わりとなって皇子に嫁いで事は収まった。蘇我日向はここでは「身狭」として登場する。飛鳥時代のことを、後代の知識により書いている可能性も考えられる。その証拠に本件で蘇我日向はまったく罰せられていない。異母兄の娘なので、姪にあたる。
- (書紀原文)而長女、所期之夜、被偸於族。族謂身狹臣也。由是、倉山田臣憂惶、仰臥不知所爲。
大宰府帥
大化五年(649年)三月、蘇我日向は中大兄に倉山田大臣(蘇我倉山田麻呂)が反乱しようとすると讒言した。蘇我倉山田麻呂大臣は息子の法師と赤猪を連れて、山田寺まで逃げたが蘇我日向と大伴狛が軍勢を差し向けたため自害した。倉山田大臣の最後の様子を中大兄に報告したところ、中大兄は倉山田大臣の無実を悟った。そこで中大兄は日向を太宰帥に任じた。世人は左遷と噂した。密通事件の密告を恨んでいた可能性もある。しかし、倉山田大臣を追い落とすため中大兄が仕組んだワナとの見方もある。左遷ではなく、栄転ではないかとの解釈もある。また同族の蘇我日向と蘇我倉山田麻呂との抗争の見方もある。5年後には般若寺を創建しており、所在地が尼寺廃寺跡とすれば、九州には赴任していなかった可能性は高い。古代史の謎の一つであろう。
- (原文)戊辰、蘇我臣日向日向字身刺譖倉山田大臣於皇太子曰。僕之異母兄麻呂、伺皇太子遊於海濱而將害之、將反其不久。 『上宮聖徳法皇帝説』に孝徳大王の時代に蘇我日向は筑紫大宰の帥に任じられたと記される。
般若寺創建
白雉五年(654年)、孝徳の病気平癒のため蘇我日向は般若寺を建立したとされる(東野治之(2013),p.85)。般若寺の場所には2説があり、一つは福岡県筑紫野市の般若寺跡(塔原廃寺)と二番目は奈良県香芝市の般若寺・般若尼寺(尼寺廃寺跡)である(東野治之(2013),p90)。規模や遺構からすると、後者が有力と考えられる。
蘇我氏の系譜
蘇我氏の系譜は武内宿繭を祖とする(太田亮(1942))。 蘇我高麗 –蘇我稲目 –蘇我馬子 -蘇我倉麻呂-蘇我日向
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 東野治之(2013)『上宮聖徳法皇帝説』岩波書店
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