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山添村歴史民俗資料館2023年08月16日 00:10

山添村歴史民俗資料館(やまぞえむられきしみんぞくしりょうかん)は奈良県山辺郡山添村にある歴史と民俗の資料館である。

概要

桐山和田遺跡や大川遺跡など縄文時代の遺跡から発見された石器や土器を中心にこれまで山添村で行われた発掘調査の結果を展示する。明治36年(1903年)に建造された旧春日小学校の講堂を利用する。入母屋造り妻入りの屋根など明治和風建築で、学校建築としては特異な手法を用いた建物である。農機具や生活用具など村の文化を知ることができる民俗資料も展示する。

展示

アクセス等

  • 名称:山添村歴史民俗資料館
  • 所在地:〒630-2343 奈良県山辺郡山添村春日1770番地
  • 休館日: 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)、祝日の翌日、毎年12月25日~1月5日
  • 開館時間:午前9時~午後4時
  • 入館料:無料
  • 交通: JR・近鉄天理駅からバスで50分(国道山添バス停下車徒歩2.0km)

参考文献

飯田市考古博物館2023年08月16日 00:13

飯田市考古博物館(いいだしこうこはくぶつかん)は長野県飯田市にある考古博物館である。

概要

1993開館。旧石器時代、縄文、弥生、古墳、奈良、平安時代の特徴的な考古資料を通し、各時代の人々が伊那谷の風土を活かしてどんな暮らしをしていたかを展示する。

展示(常設展示)

  • 狩猟・採集社会の生活(旧石器・縄文時代) 石細工の達人・縄文カレンダー・大地への祈り・粘土から器へ・最古の芸術家の5テーマ
  • 農耕社会の発展(弥生時代) ヒノキの年代と弥生時代の到来・広がるムラ・段丘を耕す・段丘のムラ・段丘の秋の5テーマ
  • 古代社会のくらし(古墳時代、奈良・平安時代) 大きなクニへ・江戸時代の考古学者・土の中からのメッセージ・古墳時代のやきもの・律令社会と伊那郡、奈良・平安時代のくらしの6テーマ
  • モノのうつりかわり 主な器や道具を縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良・平安時代、現代で配列。

アクセス等

  • 名称:飯田市考古博物館
  • 所在地:〒395-0003  長野県飯田市上郷別府2428-1
  • 休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)、祝日の翌日
  • 開館時間:午前9:30 ~ 午後5:00 ※入館終了/午後4:30
  • 入館料:一般(大人)200円、高校生150円
  • 交通:JR飯田線伊那上郷駅から徒歩10分

参考文献

琥珀2023年08月16日 09:01

琥珀(こはく,amber)は地質時代に樹脂などが地中に埋没してできた化石の一種である。

概要

1千万年~数億年前頃、地上に繁茂していた樹木の樹脂が土砂などに埋もれて化石となったものである。生成の過程で古代の昆虫、葉、花、樹の皮などが自然に入りこんでいる石がある。これは、大変希少性が高い。色は、黄、茶、赤、白、青、緑、黒など多彩で約250色があると言われる。世界最古の琥珀は約3億年前のもので、イギリスのノーサンバーランドや、シベリアで発見されている。琥珀のもとになる樹木は広葉樹から針葉樹までさまざまである。経過年数が180万年以内(第4紀)の炭化水素物質は、琥珀と呼ばず「コパル」と呼ぶ。生物起源の琥珀は飽和食塩水に浮くに浮く唯一の宝石と云われ、比重値は1.05の最も軽い宝石である。飽和食塩水は1リットルの水に対し160グラム以上の食塩が必要である。

展示例

  • 久慈琥珀博物館 久慈市、岩手県

出土例

  • 飛鳥池工房遺跡 琥珀・水晶?・ガラスなどを組み合わせた玉生産の工房があった。
  • 平原遺跡 割竹形木棺の棺内から琥珀丸玉、ガラス勾玉、管玉、連玉、小玉、瑪瑙管玉、など多量の玉類が発見された。
  • 高松塚古墳 琥珀製丸玉 2個が発見された。

水晶2023年08月16日 09:13

水晶(すいしょう,crystal)は石英が無色透明な六角柱状に結晶したものである。

概要

古くから信仰対象や宝飾、ジュエリーに利用されてきた天然石である。結晶化した二酸化ケイ素が長い年月をかけて規則正しく積み重なってできた層であり、その塊(原石)を研磨したものが天然水晶玉である。古くは玻璃と呼ばれて珍重されていた。水晶が1mm成長するのに約100年かかると言われており、10cmの大きさになるには1万年以上もかかる計算となる。

展示例

  • 水晶宝石博物館 山梨県甲府市猪狩町

出土例

  • 馬場平遺跡 縄文時代とみられる水晶製石器の未製品、500点近い大量の水晶片が出土した。
  • 上ノ山古墳 山口県下関市、6世紀、水晶勾玉が出土した。

静岡市立登呂博物館2023年08月16日 18:13

静岡市立登呂博物館(しずおかしりつとろはくぶつかん]]は静岡県駿河区にある弥生時代の遺跡の遺物や図面、資料を展示する博物館である。

概要

登呂遺跡の発掘調査で出土した遺物資料約30,000点の他、発掘調査に関する図面や写真資料、 遺跡の保存設備に関わる記録資料などを収蔵する。

  • 名称 静岡市立登呂博物館
  • 休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)祝日・振替休日の翌日
  • 利用時間:9:000~16:00
  • 入館料:一般 300円,大学生・高校生 200円, 小学生・中学生 50円
  • 所在地:〒422-8033 静岡市駿河区登呂五丁目10番5号
  • 交通:JR静岡駅南口バスターミナル22番のりば 石田街道線『登呂遺跡』行き 『登呂遺跡(終点)』バス:約10分

企画展「登呂遺跡で考えるSDGs」

  • 会期 2023年6月17日(土)~2023年8月27日(日)
  • 会場 静岡市立登呂博物館 2階 特別・企画展示室
  • 開催時間 9:00~16:30
  • 休館日  月曜日、祝日の翌日
  • 観覧料  一般300円、高・大学生200円、小・中学生50円
  • 会期 2023年6月17日(土)~2023年8月27日(日)
  • 会場 静岡市立登呂博物館 2階 特別・企画展示室
  • 開催時間 9:00~16:30
  • 休館日  月曜日、祝日の翌日
  • 観覧料  一般300円、高・大学生200円、小・中学生50円

参考文献

飛鳥寺2023年08月16日 19:25

飛鳥寺

飛鳥寺(あすかでら)は奈良県明日香村に建立された日本で最初の本格的な寺院である豪族の蘇我馬子が創建した日本最古の寺とされる。

概要

588年(崇峻元年)に造営を開始し、590年に用材の伐採が始まった。592年、本堂と回廊の建設に着手し、593年に百済からもたらされた仏舎利を塔の心礎に収め、塔の建設に着手した。596年(推古4年)に塔が完成し、馬子は息子の膳徳を寺司に任命し僧を居住させた。605年(推古13年)、本尊の鋳造を開始する。高麗国の大興王から黄金三百両を送られた。寺院全体は606年(推古14年) 本尊の金銅釈迦如来像が完成し金堂に安置した。この時点で完成したと考えられている(参考文献1)。建設地は飛鳥真神原である。

百済の支援

倭国は自力で寺院建立ができなかったため、技術指導を百済]]に要請し、6人の僧、寺工(寺大工)、露盤博士、瓦博士、画工などの技術者の派遣を受けた。。『元興寺縁起』の塔露盤銘によれば、 東漢氏が建設にあたり、金工は忍海・朝妻・鞍部・山西の各氏が統率したとする。595年には高句麗僧恵慈が渡来し、596年百済僧恵聡とともに飛鳥寺に居住し、「三宝の棟梁」となった。

その後

当初「法興寺」、「元興寺」とも呼ばれたが、平城京遷都の8年後に平城京に移り、「元興寺」となる。飛鳥に残った寺院は「本元興寺」の名称となった。

発掘調査

1956年、1957年の奈良国立文化財研究所による発掘調査で、伽藍配置は一塔三金堂 式伽藍配置と判明した。南大門、中門、塔、中金堂、講堂と一直線上に並び、塔の東西に金堂を配置している。この形式は同時代の百済には見られず、高句麗時代の清岸里廃寺(平壌、創建478年)と同じである。すなわち高句麗の影響で建てられていることが分かる。 飛鳥寺の西門は正門の南門よりも大きく、壮大な門であることが発掘調査で判明している。 第3次調査で出土した埋納物はわが国初の寺院の塔の舎利荘厳具として貴重なものである。硬玉・碧玉・琥珀水晶・銀・ガラスなどで作られた勾玉・管玉・水晶の切子玉・空玉・トンボ玉などの多数の玉類、金環、金銀の延板と小粒、金環、金銅製打出金具・金銅鈴・金銅製瓔珞、青銅製馬鈴、挂甲、蛇行状鉄器、刀子、馬鈴など1750点の遺物が出土した。

出土する瓦は軒丸瓦であり、蓮華文は蓮先端の切れ込みや蓮子の大きさが百済の扶余から出土する蓮華文に似ている。

現在

創建時の伽藍はすべて失われ、塔や金堂の礎石だけが残る。現在はその飛鳥寺中金堂跡に「安居院」という小さな寺院が建つ。香久山にあった寺僧が飛鳥寺に隠居し、寺号を「安居院」と改め、破損していた飛鳥大仏を補修した。

飛鳥大仏

飛鳥大仏」と呼ばれる釈迦如来坐像が本尊で、606年の作。日本最古の丈六仏である。幾度もの火災にあって後世の補修が多いが、顔の上部と右手の中央の指3本は当時のまま残る。本尊の銅造釈迦如来坐像は国の重要文化財となっている。

展示

奈良文化財研究所飛鳥資料館に高松塚古墳をはじめとする古墳の出土遺物、日本最初の水時計である水落遺跡や飛鳥寺・川原寺など、飛鳥を代表する遺跡の出土品と模型が展示される。

アクセス等

  • 名称:安居院(飛鳥寺)
  • 所在地: 奈良県高市郡明日香村飛鳥682
  • 交通:橿原神宮前駅東口から明日香周遊バス17分 飛鳥大仏前下車 歩1分

参考文献

  1. 熊谷公男(2008)『大王から天皇へ』講談社。

天皇木簡2023年08月16日 21:14

天皇木簡/飛鳥資料館蔵

天皇木簡(てんのうもっかん)は「天皇」の文字が書かれた古代の木簡である。

概要

最古の「天皇」の文字が書かれた天皇木簡は飛鳥池工房遺跡出土のものである。同時に出土した土器の特徴や木簡の記載などから、7世紀後半の天武・持統朝につくられたものと判定された。 「天皇」称号の使用開始時期には諸説あるものの、少なくとも天武朝期に「天皇」という称号が存在していたことが証明された。

木簡作成の時期

この木簡は飛鳥池工房遺跡の北地区の、持統朝を下限とする溝のさらに下層から出土しており、この遺構から伴出した木簡の「サト」表記は、すべて「五十戸」であった。飛鳥から出土した多量の荷札木簡から、「サト」が「五十戸」から「里」に切り替わったのは、681年から683年頃であることが判明している。これらから「天皇」の語が墨書きされた木簡は、683年(天武12年)以前に書かれたものと推定できる。「天皇」木簡が出土した同じ遺構から「庚午」天智9年(670年)、「丙子」天武5年(676年)、「丁丑」天武6年(677年)の紀年木簡が伴出している。「天皇」号の表記は677年(天武6年)/676年頃の時点では使用されていたといえる。

木簡の意味

木簡には、「天皇聚露弘□□」(□は確認できない文字)と記されている。「天皇が露を集めて広く…」と読めるが、文章の一部のため文意は分からない。 同じ南北の溝から見つかった木簡に「丁丑年12月三野国刀支評次米」と書かれている。「丁丑年」は677年(天武6年)年に当たるので、新嘗祭に用いる次米(すきのこめ)が、刀支評から上納された際の荷札木簡と考えられている。木簡は天武天皇の祭祀に関わる新米とも考えられる。

参考文献