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石舞台古墳2023年05月23日 21:19

石舞台古墳/外観

石舞台古墳(;いしぶたいこふん)は奈良県明日香村ある7世紀前半の古墳である。

概要

墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な両袖式の横穴式石室が露出している。天井石の上面が広く平らであり、舞台のように見える形状から「石舞台」と言われている。 巨石30個を積み上げた石室古墳である。周囲に幅8.4mの濠がある。7世紀前半の築造とされる。1829年(文政12)年の津川長道の「卯花日記」では、蘇我馬子の墓ではないかという考察があり、島の庄遺跡の調査からも可能性は高いとされている。石の総重量は2,300トンと推定されている。

構造

墳丘上部が失われており、墳丘は二段築成の方墳か、上円下方墳と考えられている。石室は南西に開口している。墳丘下半部は西南辺長約50m、南東辺長約51mである。2mから3mの高さを示す。墳丘をめぐる堀は西南側で約8mの幅、他は約7mである。外堤の幅は基部で約10mである。墳丘及び外堤斜面に花崗岩玉石を貼る。 横穴式石室は花崗岩を用いた両袖型素形の平面をもつ。全長約19.1m、玄室長約7.5m、幅約3.45m、高さ約4.7m、羡道長約11.5m、幅2.5m高さ2.4mである。側壁面は平滑で壁面調整を行う。奥壁は1石2段積、側壁は3段積、羡道側壁は1段積を基本とする。玄室天井は石は2石で構成する。玄室奥・側壁に沿い排水溝をめぐらせ、奥壁中央から玄室床面下を通過し、羡道部排水溝につながる。玄室内から凝灰岩の破片が出土しており、石棺の存在を示唆する。

調査

6世紀代の小古墳を壊して築造されていた。

  • 第一次調査
    • 1933年(昭和8)年、奈良県と京都大学による発掘調査が行われた。京都大学考古学研究室浜田耕作教授指導の下、末永雅雄博士が調査した。石室の構造や築造技術の把握、墳丘形態の復元を目的とする。測量、棺が納められた玄室への通路である羨道の発掘、玄室内の発掘時の写真が残されている。1辺51mの方形墳で、空濠と外堤を伴うことが確認されている。石室内部を中心とした調査であり、石室内に堆積した土砂を排出するために軽便軌条を敷設して手押運搬車を導入するとともに、羨道部の崩落石を除くためにチェーンブロックや人力式ウィンチを活用するなど、従来にはない方法を用いたものであった。その結果、石室は両袖式の横穴式石室で全長が19.4mを測ることなどが明らかとなった。また、土師器須恵器のほか、二上山凝灰岩片が出土し、家形石棺の存在が示唆された。
  • 第二次調査
    • 1935年(昭和10年)実施。墳丘などの外部構造を把握するための調査で、墳丘が一辺約50mの方墳で、周囲に最大幅8.4mの周濠と幅7mの外堤が存在することが判明した。貼石列もみつかる。
  • 第三次調査
    • 1951年(昭和29年)実施。周濠の様相等が明らかとなった

遺構

南側の天井石の重量は77トン、北側は約64tに達する。巨石の運搬法、石室の構築法、古墳に築造日数を考慮すると現在でも最高水準とされる、

出土遺物

石室の内外から、土師器や須恵器の破片や、金属製尾錠1、金銅製菊座金具、金銅製帯金具が出土する。石棺の一部と思われる凝灰岩などが出土したた。出土遺物の写真は8枚。これらの遺物には、古墳の築造よりも後の時代に属するものも含まれている。

アクセス

  • 名称:石舞台古墳
  • 所在地: 奈良県高市郡明日香村島庄254番地
  • 営業期間:8:30~17:00
  • 入場料:一般 300円、高校生~小学生100円
  • 交通:橿原神宮前駅下車→奈良交通バス【行き】橿原神宮駅・東口2番のりば[飛鳥駅行き]バス停「石舞台」下車徒歩3分

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 辰巳俊輔(2020)「明日香村の文化財を活かした歴史体感プログラム」遺跡整備・活用研究集会報告書
  3. 関西大学考古学研究室(2012)「石舞台古墳解説書」奈良県明日香村
  4. 浜田耕作(1937)「大和島庄石舞台の巨石古墳」京都帝国大学文学部研究報告報告14

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