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金海貝塚2023年08月18日 00:27

金海貝塚(きんかいかいづか)は韓国(大韓民国)慶尚南道にある古代の貝塚である。1~4世紀とされる。鳳凰洞遺跡貝塚展示館で出土品を展示する。

概要

鳳凰台の東麓の東西に長い小さな丘陵の上にある、朝鮮半島南部にある原三国時代の代表的な貝塚である。規模は東西長さ120メートル、南幅30メートル、高さ6メートル。

調査

明治40年8月、今西龍が発見した。 1914年(鳥居龍藏)、1915年(黑板勝美)、1917年(鳥居龍藏)などによる部分的発掘が行われ、1920年(浜田耕作ㆍ梅原末治)、1934年と1935年(榧本杜人)によって本格的な発掘調査が行われた。

出土

叩き文のある赤褐色素焼、黝青色陶質土器、鉄斧、多数の骨角器(鹿角製鉄刀子柄、骨鏃、骨針など)が出土している。1920年の発掘時に王莽の「新」王朝の貨幣「貨泉」が発掘された。炭化米、ガラス製棗玉など。支石墓1基、石棺5基、甕棺3基と竪穴住居址・炉址・石の堤防が発掘された。特に3基の甕棺のうち、第3号の甕棺から碧玉製管玉2点と細形銅剣2点、銅鉇8点が出土した。甕棺から細形銅剣、銅鉇、碧玉製管玉、箱式石棺は磨製石鏃、丹塗磨研壺が検出された。

遺物

  • 骨角器 - 刀子柄、鏃、針、銛、錘
  • 打製石器
  • 砥石
  • 黒褐色素焼
  • 土製品
  • 鉄器
  • 装飾品 瑠璃製棗玉
  • 古銭

倭国との交流

金海式土器は対馬、壱岐、北九州から出土している。弥生時代から古墳時代での交流が伺える。

所在地等

  • 名称:鳳凰洞遺跡貝塚展示館((봉황동유적))
  • 所在地:大韓民国 慶尚南道 金海市 鳳凰洞 158
  • 見学時間:午前9時から午後6時まで
  • 入場料:無料
  • 年代:青銅器時代~鉄器初期
  • 規模:90,295㎡
  • 史跡:1963年1月21日 指定 史跡第2号

飯豊青皇女2023年08月18日 23:51

飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)は5世紀末の女性皇族である。 飯豊女王(日本書紀)、飯豊王(古事記)、飯豊郎女(古事記)、青海郎女(古事記)、靑海良女(古事記)、忍海部女王(日本書紀)、忍海飯豊青尊(日本書紀)、忍海郎女(古事記)、青海皇女(日本書紀)、靑海皇女尊(先代旧事本紀)などの別名がある。

概要

古事記によれば履中大王の皇女で、母は葦田宿禰(葛城襲津彦の子)の女(娘)の葛城・黒比賣命(くろひめ)とされる。日本書紀は履中天皇の息子である市辺押羽皇子と葛城氏出身の荑媛(はえひめ)の間に生まれた娘とする。

飯豊天皇

古事記では清寧大王がなくなったとき皇后はなく、子もいなかったため、忍海郎女(飯豊王)が政務をとった(「葛城の忍海の高木の角刺宮に坐ましき」)と書かれる。 日本書紀では清寧大王が5年1月に没したとき、弘計王と億計王とで大王位の譲り合いをして大王が決まらなかった。そこで姉の飯豊青皇女は忍海角刺宮で朝政を取ったとされる。 そして同年11月に亡くなった。葛城埴口丘陵の埋葬した。 短期間であれ政務をとったという意味で、大王になったと解釈される。また日本書紀は天皇にしか使わない「崩」を用いている(『日本書紀』第15巻)。 『扶桑略記』は「飯豊天皇廿四代女帝」とし、『本朝皇胤紹運録』は「飯豊天皇 忍海部女王是也」とし、歴代天皇に含めている。

記載の矛盾

古事記では履中大王と黒比賣との子とされる。『日本書紀』第15巻(顕宗)では、市辺押磐皇子と荑媛(はえひめ)との子で、仁賢と顕宗の兄弟とする。別名が多くまた親に二説あることから、実在性が薄い。表記は天皇(大王)扱いであるのに、古事記と日本書記はどちらも歴代天皇に含めていない。

伝承地

葛城市歴史博物館の南にある角刺神社は、飯豊が政務を執った忍海高木角刺宮の伝承地である。祭神は飯豊青尊。

陵墓

宮内庁は「北花内大塚古墳」を飯豊青皇女の陵墓に比定する。飯豊は亡くなった後「埴口丘陵(はにくちのおかのみささぎ)」に葬る、と書かれる。「陵」は天皇の墓にのみ用いられない表現であるから、扱いの上では飯豊は大王(天皇)であった。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 倉野憲司(1963)『古事記』岩波書店