金工 ― 2023年08月06日 00:07
金工(きんこう)は金属を素材とし、その特性である熔解性や伸展性を利用して成形し、それに様々な技法を施す工芸技術である。
- 概要 金工の主な技法にには、鋳金、鍛金、彫金の3つがある。 金工技術が日本にもたらされたのは、弥生時代初期、紀元前200年頃とされる。 弥生時代には銅剣、銅鐸、装身具などが作られ、材料として青銅、やがて鉄が使われた。 古墳時代には金工により馬具や甲冑を製作するようになる。
参考文献
- 石野博信(2006)『古代住居のはなし』吉川弘文館
楽浪郡 ― 2023年08月06日 00:31
楽浪郡(らくろうぐん)は、中国の漢帝国が朝鮮半島に設置した古代中国の直轄地の一つである。紀元前108年から紀元313年まで朝鮮半島の中西部に置かれていた。
概要
漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼして、紀元前108年に漢四郡、すなわち真番郡、臨屯郡、玄菟郡、楽浪郡を設置した。漢の東方支配の根拠地となった。伊藤 一彦(2020)は『「郡」とは,古代中国の地方行政制度「郡県制」の上位組織であり,朝廷=中央政府が派遣する太守の支配下にあった』とする。郡は植民地なのか、漢の領土の一部なのかという論争がある。楽浪郡の行政区域として県が設けられ、郡には太守、県には令の役職があった。楽浪郡は漢の滅亡後は魏、晋に引き継がれた。その後、紀元前82年(始元5年)に漢は真番郡・臨屯郡を廃止し、玄菟郡を移転させ、その範囲の大部分を楽浪郡に併合した。これを「大楽浪郡」という。 西暦313年10月、高句麗の美川王は楽浪郡を占領し、男女二千余人を捕虜にし、楽浪郡は消滅した。
公孫氏
中国東北部の遼東太守となった公孫度は、南半分を支配し帯方郡とした。238年に魏の太尉・司馬懿の率いる四万の兵に襄平城を囲まれ、長期の兵糧攻めにより公孫淵とその子・公孫脩は滅びた。魏は劉昕と鮮于嗣をそれぞれ帯方太守、楽浪太守に任じ楽浪郡・帯方郡を支配した。楽浪郡は魏の直轄地となった。
朝貢窓口
楽浪郡は朝鮮半島北西部を支配したが、楽浪郡は朝鮮系諸民族、北東の濊族や貊族(後の高句麗)、南の韓民族、さらに海を越えた倭からの朝貢使節などを受け入れ、漢の出先機関としての役割を果たした。後漢時代にも継承された。
漢書地理志
「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国となる。歳時を以て来り献見すと云う。」と書かれる。日本人が中国の史書に登場する最初であり、当時の倭人が楽浪郡に朝貢していたとみられる。楽浪郡は漢の出先機関として朝鮮系諸民族、北東の濊族や貊族(後の高句麗)、南の韓民族、さらに海を越えた倭(日本)からの朝貢使節をうけいれていた。漢書地理志によれば、戸数は6万2,812戸、口数は40万6,748人とされる。
比定場所
現在の北朝鮮の平壌市とするのが通説である。平壌市の大同江の南部に楽浪郡の墳墓群がある。
異説
北朝鮮の学界と韓国の一部在野研究者は楽浪郡が朝鮮半島にあったことを否定し、中国の遼東半島にあったと主張する。
遺跡
- 徳星里墳墓
- 所羅里土城
- 万景台墳墓
- 金石里墳墓
- 智塔里土城
- 葛城里甲墳
- 台城里墳墓
- 青山里土城
- 富徳里墳墓
- 冠山里墳墓
- 伏獅里墳墓
- 天柱里墳墓
- 於乙洞土城
- 上里墳墓
- 龍秋里墳墓
- 黒橋里墳墓
- 金灘里墳墓
参考文献
- 鳥越憲三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA
- 奥野正男(1989)『邪馬台国発掘』PHP研究所
- 石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
- 井上秀雄(2004)『古代朝鮮』2講談社学術文庫,pp.75-76
- 伊藤 一彦(2020)「7世紀以前の中国・朝鮮関係史」経済志林87巻3,4号、pp.163-190
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