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蘇我馬子2023年08月14日 23:12

蘇我馬子(そがのうまこ、?-626年)は敏達から推古まで活動した飛鳥時代の豪族である。 「蘇我馬古」、「有明子」、「嶋大臣」、「汙麻古」とも記される。

概要

蘇我稲目の子、蘇我蝦夷の父。飛鳥時代の初期に活躍した政治家・豪族である。 敏達元年に大臣となる。 敏達、用明、崇峻、推古の4代の大王に渡りヤマト政権の中枢で活動した。仏教を広めるため物部守屋と対立し、これを滅ぼした。

大臣就任

敏達元年夏四月に百済の大井に宮殿を作り、物部守屋を元のように大連とし、蘇我馬子を大臣としたとされる。百済の大井とは百済大井宮である。

  • (原文)以物部弓削守屋大連爲大連如故、以蘇我馬子宿禰爲大臣。

再任か初任か

しかし、これ以前に物部守屋を大連とした記載は見当たらない。父が大連だったからというなら、馬子の父の蘇我稲目も大臣であったから、ことさら物部守屋だけを前の通りという理由は不明である。

  1. 垂仁廿六年秋八月 天皇勅物部十千根大連曰
  2. 履中二年春正月 當是時、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・圓圓、此云豆夫羅大使主、共執國事
  3. 雄略三年冬十月 以平群臣眞鳥爲大臣、以大伴連室屋・物部連目爲大連。
  4. 淸寧廿三年八月 「於是、大伴室屋大連、言於東漢掬直曰」

吉備派遣

敏達三年(574年)冬十月に吉備に派遣されて白猪屯倉や児嶋屯倉などを設置し、管理したとされる。

  • (原文)遣蘇我馬子大臣於吉備國、増益白猪屯倉與田部

仏教僧の育成

敏達13年(584年)、蘇我馬子は百済から渡来した木像と石像の仏像2体を貰い受け、鞍部村主司馬達等・池辺直氷田を使者として派遣して、修行者を探させた。播磨国に僧還俗の高麗の恵便がいたので、大臣は師とした。司馬達等の娘の嶋・善信尼11歳を出家させた。善信尼の弟子の二人漢人の夜菩の娘の豊女、二人目は錦織壺の娘の石女惠善尼である。 最初の日本の僧3名はいずれも女性であった。3人とも渡来人の家系のようである。

物部守屋との争い

  • 用明2年4月(587年)、用明大王は病気になり仏教を信仰したいと諮った。物部守屋と中臣勝海は反対したが、蘇我馬子は詔を奉じて、穴穂部皇子に僧の豊国をつれて来させた。 ほどなく用明天皇は崩御し、物部守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、6月、馬子が先手を打ち炊屋姫を奉じて穴穂部皇子を殺害した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすこととし、諸皇子、諸豪族の大軍を伴い挙兵した。守屋は抵抗したが、厩戸皇子は四天王像を彫り戦勝祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。迹見赤檮が守屋を射殺し、馬子は勝利した。8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とした。 馬子は請願通り、法興寺(飛鳥寺)を建立した。
  • (原文) 於譯語田宮御宇天皇之世、蘇我馬子宿禰、追遵考父之風、猶重能仁世之教。而餘臣不信、此典幾亡。天皇、詔馬子宿禰而使奉其法。於小墾田宮御宇天皇之世、馬子宿禰、奉爲天皇造丈六繡像・丈六銅像、顯揚佛教、恭敬僧尼。

百濟に留学生を派遣

崇峻元年(588年)、馬子は百済僧らに受戒の法を訊ね、善信尼らを百濟國の使者「恩率首信」等らにつけて学問留学させた。また法興寺を創建した。

帝紀の編纂

推古28年(620年)に厩戸皇子と馬子は「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」を編纂した。

  • (原文)是歲、皇太子・嶋大臣共議之、錄天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部幷公民等本記。

病気と死去

  • 書紀 蘇我馬子は日本書紀では推古34年(626年)5月20日に亡くなったとされる。桃原墓に埋葬されたとされる。評するに「武略有りて、また弁がたつ。仏教の三宝を恭敬して、飛鳥川のほとりに住んでいた。庭の中に小さい池を作った。小島を池の中にはなつ。人は島大臣といった」(書紀推古34年)とされる。桃原は石舞台古墳のあるあたりと考えられている。
  • (原文) 夏五月戊子朔丁未、大臣薨、仍葬于桃原墓。大臣則稻目宿禰之子也、性有武略亦有 辨才、以恭敬三寶。家於飛鳥河之傍、乃庭中開小池、仍興小嶋於池中、故時人曰嶋大臣。
  • 帝説 上宮聖徳法皇帝説では、病気になったのは推古34年(626年)8月、馬子のため男女千人が出家したとされる。馬子の死去は推古35年(627年)6月とする。

馬子の墓

明日香村にある石舞台古墳は、馬子の墳墓とする説が有力である。

蘇我氏の系譜

蘇我氏の系譜は武内宿繭を祖とする(太田亮(1942))。 武内宿繭 - 蘇我石川- 蘇我満智 – 蘇我韓子 – 蘇我高麗 – 蘇我稲目 –蘇我馬子

参考文献

  • 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  • 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  • 東野治之(2013)『上宮聖徳法皇帝説』岩波書店

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