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超明寺石碑2023年08月10日 00:37

超明寺石碑(ちょうめいじせきひ)は滋賀県にある超明寺の古代石碑である。

概要

滋賀県大津市月輪の超明寺に江戸時代から保存されている石碑である。高さ40.3cm。幅18.5cm、厚さ14.2cmと小型である。表面は平滑である。 江戸時代1676年、新田開発中に月輪大池から出土し、発見者の子孫・清水与兵衛から、超明寺(浄土真宗本願派)が寄進を受けた。 しかし『大日本金石史』(木崎愛吉)では偽作とされ、それ以後は顧みられなくなった。 理由は明確でないが、養老元年は十一月の改元で、十月十日は霊亀三年が正しいこと、『集古十種』の拓本があいまいであることによるとされる。 しかし国立歴史民俗博物館の企画展示図録に収録され、再評価されるようになった。 真贋は未確定であるものの、以下の点で贋作と断定しにくい。

  1. 銘文は山ノ上碑、額田寺伽藍並条里図、阿波国造碑に通じるところがある。
  2. 書風は7世紀以来の古い書体と通じている。
  3. 太安万侶墓誌の書風とも似ている。
  4. 碑の形態は阿波国造碑、采女氏塋域碑と共通する。
  5. 枠線の存在は、朝鮮古碑と共通する。

碑文

  • 養老元年十月十日石柱
  • 立 超明僧

大意

  • 717年(養老元年)十月十日、超明法師がこの石碑を建てた。

参考文献

  1. 木崎愛吉(1921) 『大日本金石史』好尚会出版部
  2. 松平定信編(1800)『集古十種』碑銘 2
  3. 東野治之(2004)『日本古代金石文の研究』岩波書店
  4. 東野治之,平川南(1999)『よみがえる古代の碑』国立歴史民俗博物館振興会

阿波国造碑2023年08月10日 09:53

阿波国造碑(あわこくぞうひ)は徳島県名西郡石井町の中王子神社の神体とされていた奈良時代の塼製の碑である。徳島県指定有形文化財である。中王子神社が所蔵し、本館中庭に固定設置される。

概要

明治時代に出土して奉納されたと伝わるが、出土状況は不明である。723年(養老7年)の紀年銘をもつ墓碑で、中王子神社(徳島県名西郡石井町)の御神体である。正面に3行・19字、向かって左側面に2行・10字の銘文が楷書体で刻まれる。銘文には、阿波国造であった名方郡大領の粟凡直弟臣の墓で、養老7年に建立したと書かれる。土製小碑である。 上下にほぞがあることから、製作時に台座と笠にあたる部分が付いていた可能性が高い。

製作者

碑文によれば粟国造で名方郡の郡司(大領)であった粟凡弟臣が723年(養老七年)頃に没したため、同年に造られた墓碑である。「大領」は当時の都の長官である。「栗凡直」は氏族名で、吉野川下流で勢力があった豪族である。「葬送令」に従った墓碑であり、字体、焼成から奈良時代のものとされる。墓誌としては最古級である。律令制では墓碑を製作できるのはは三位以上の位階を持つ者に限定されているので、正七位下の栗凡直弟臣が製作できた理由を検討する必要がある。

寸法

  • 縦  28.7cm
  • 横  13.7cm
  • 高さ 9.9cm

碑文

表面

  • 阿波国造
  • 中方郡大領正七位下
  • 栗凡直弟臣墓

裏面

  • 養老七年歳次癸亥
  • 年立

指定

  • 平成2年11月27日 徳島県指定文化財

書体

管理概要

  • 名称 - 阿波国造碑
  • 所在地 -徳島県名西郡石井町石井字石井1784

参考文献・注

  1. 平河南他(2004)『支配と文字』「(文字と古代日本1」吉川弘文館
  2. 栄原永遠男編(2005)『神仏と文字』「(文字と古代日本 4」吉川弘文館

額田寺伽藍並条里図2023年08月10日 13:54

額田寺伽藍並条里図(ぬかたでらがらんならびにじょうりず)は奈良県大和郡山市にある額安寺に伝来した伽籃と条里の図面である。

概要

額安寺は古くは額田寺であった。古代豪族の「額田部」の氏寺であった。戦国時代の戦乱で多くの伽藍を失い、五重塔は豊臣秀吉により四天王寺に移された。条里図は麻布四枚を横継ぎにして料紙とし、北を上にして条里を示し、額田寺伽藍及び周辺の寺領を描いている。

絵図

絵図には奈良盆地の北西部に位置する額田寺の伽藍を中心に佐保川と初瀬川の合流点およびその北方の額田部丘陵が描かれる。 その記載範囲は南北は約1100メートル、東西は約700メートルほどである。条里は大和国平群郡九條三里(19から36坪)・四里(1から18坪)、十條三里(2から36坪)・四里(1から6坪)を千鳥式に現わし、中央下部に大安寺式伽藍配置の額田寺の堂塔伽藍、諸門、雑舎等を朱墨を交えて描いている。

記載内容

寺領境界の要所に結界石を示し、その他寺領の地目や面積などが注記され、本図が寺領絵図であることを示している。額田寺の堂塔,雑舎,寺領田畠,岡,林,池,また〈法花寺庄〉〈公田〉〈中臣朝臣毛人畠〉〈日根連千虫家〉〈巨勢朝臣古万呂家・地〉〈調使□畠〉〈石柱〉等を記入する。 製作年代は未詳であるものの、墨書注記人名等から天平宝字年間頃とみられる。東大寺以外に伝来した現存唯一の麻布條里図として価値が高い。 中級貴族の氏寺が解明できる史料である。

指定

  • 1977年06月11日 - 国宝指定

アクセス

  • 所在地:国立歴史民俗博物館

参考文献

下田東遺跡2023年08月10日 18:09

下田東遺跡(しもだひがしいせき)は奈良県香芝市にある縄文時代から江戸時代まで続く複合遺跡である。

概要

下田東遺跡は古墳時代から室町時代まで一貫して有力者の拠点であった。 昭和53年の水路改修で縄文土器が採取されて、知られるようになった。

調査

五位堂駅前北第二土地区画整理事業に伴う埋蔵文化財発掘調査として、平成13年度から同20年度まで、香芝市教育委員会が発掘を実施した。 平成13年の第一次調査、14年の第二次調査で墳丘長21mの下田東1号古墳を検出した。その古墳から、円筒埴輪、家形埴輪、人物埴輪、馬形埴輪、鳥形埴輪などの形象埴輪が出土した。古墳の南側の自然河道内で古墳時代から奈良時代の土師器、須恵器の完形品が大量に出土した。平成15年度には、5世紀中頃にまでさかのぼる最古級とみられる木製の鞍(後輪)が出土した。平成17年度には、9世紀初頭の井戸から「種蒔日」や「田刈」など農作業に関係する木簡が出土し、平成19年度には下田東2号墳の周濠から木棺底板が完全な形で出土した。

下田東古墳

第五トレンチで前方部端を検出し、第6,9トレンチを拡幅し、古墳の全形を確認した。埋葬施設や墳丘は失われていた。平安時代前期に削平されたとみられる。古墳の規模は基底部で後円部直径約16m、前方部幅10m、前方部長約5m。築造時期は5世紀末から6世紀と推定される。

遺構

  • 古墳
  • 土坑
  • 柱穴

遺物

  • 打製石鏃 –縄文砂層より出土、サヌカイト製
  • 打製石斧
  • 磨製石斧
  • 石包丁

古墳時代

  • 土師器
  • 須恵器
  • 埴輪 -円筒埴輪、朝顔形、盾型、蓋形、家形、鳥形、馬形、人物形、馬形
  • 人面墨書土器
  • 木製埴輪
  • 鴟尾
  • 金属製品
  • 石製品
  • 縦櫛
  • 子持勾玉

指定

アクセス等

  • 名称:下田東遺跡
  • 所在地:奈良県香芝市下田東3丁目
  • 交通:

参考文献

  1. 香芝市教育委員会(2006)『下田東遺発掘調査概報』
  2. 山下隆次(2006)「奈良・下田東遺跡」『木簡研究』28

土器棺墓2023年08月10日 18:34

土器棺墓(どきかんぼ)は遺体を土器に収納して埋葬した墓である。 土器の形状により甕棺墓(かめかんぼ)、あるいは壷棺墓(つぼかんぼ)もいう。

概要

埋葬用に作った特別の土器を使い場合もあるが、日常的な土器も使われる。一部を打ち欠いて穴をあけることもある。またふたつ以上の土器を組み合わせて、ふたと身にする場合もある。土器が小さな場合には、小児、あるいは遺骨の埋葬の可能性がある。角南聡一郎(1999)は西日本の土器棺墓ほとんどが小児の埋葬であるとした。 縄文、弥生時代から近世まで、さまざまな形で行われた埋葬方法である。

四ツ池遺跡

堺市の四ツ池遺跡の墓はは木棺墓、土器棺墓、土壙墓、方形周溝墓の4種類がある。土器棺墓は乳幼児を埋葬したものと考えられている。

参考文献

  1. 角南聡一郎(1999)「西日本の土器棺墓と埋葬遺体」奈良大学大学院研究年報

銅剣2023年08月10日 19:52

銅剣(どうけん,Bronze sword)は銅製のである。

概要

日本の弥生時代の銅剣は,大陸から輸入された実用的利器と、刃が鈍く扁平でもっぱら祭器として使用された国産品の2種類があった。 日本では縄文時代の石剣、銅剣にかわって、弥生時代中期中ごろに鉄剣に変った。鉄製武器到来までの時期的な差が短いため、銅剣が戦場で使用されていた時期は比較的短じかかったと考えられている。銅剣は九州地方、中国・四国地方などに特に集中分布する。 日本で銅剣が作られ始めるのは弥生時代中期初頭であり、朝鮮半島から銅剣が伝わった直後から日本で銅剣の製作が開始された。当初の製作拠点は有明海沿岸から玄界灘沿岸にかけての地域に集中し、福岡市内では志賀島の勝馬で細形銅剣の鋳型が出土している。

形の変化

日本には弥生時代に 朝鮮半島製の短剣が入った。日本では朝鮮半島の細形銅剣とは異なる独自の形態に変わり、銅剣の使い方は武器から祭器に変化するにつれて本来の銅剣とは全く異なる形へ変化する。 当初は実用武器として使用したものの、しだいに実用を離れて祭祀・儀式用となっていった。

鉄剣

弥生後期中葉頃から終末期の長茎・細茎の長剣等は舶載品であり、短剣は日本列島製が含まれている可能性が言われている。朝鮮半島南部の上位層に副葬されるる長剣・鉄刀等は日本海から日本列島に流通していた(会下和宏(2007))。

形態

形態としては細形銅剣・中細形銅剣・平形銅剣がある。細形銅剣は中国製、中細形銅剣・平形銅剣は国産である。主として瀬戸内海中部から発見される。

出土例

  • 伝香川県善通寺市出土
    • 平形銅剣で身は薄く、刃は研ぎだされていないなど実用性は失われ、わずかに茎や樋に痕跡が残る。弥生時代に瀬戸内海周辺で盛行する平形銅剣である。弥生時代 前1世紀から後1世紀頃。
  • 荒神谷遺跡
    • 昭和59年、谷あいの斜面の発掘調査で358本の銅剣が出土した。50cm前後の中細形銅剣で、「出雲型銅剣」と呼ばれる。

参考文献

  1. 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社
  2. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  3. 会下和宏(2007)「弥生時代の鉄剣・鉄刀について」日本考古学14 巻 23 号

勾玉2023年08月10日 20:02

勾玉(まがたま)は縄文時代弥生時代から古墳時代の装身具である。曲玉とも記される。

概要

「曲っている玉」が語源といわれる。日本の勾玉の歴史は約5000年前にさかのぼる。多くは逆C字型に湾曲し、膨らんだ頭部に孔がある。縄文時代の勾玉は多種の材料を用い、形も一定でない。 「三種の神器」のひとつに勾玉がある。翡翠の勾玉は祭祀の捧げ物や死者の副葬品に用いられた。

地域

発達した勾玉は朝鮮半島と日本に限られる。日本や朝鮮の一部地域で発見される。起源については獣牙起源説、月神象徴説、胎児模倣説、半環石起源説等がある。

使い方の変遷

縄文時代は丸く膨らんだ端に穴を開けて紐を通し、首飾りとした。古墳時代には、勾玉は威信財となった。頭の部分は日(太陽)、尾の部分は月を表すとの説がある。

材料

弥生時代は硬玉、ガラス玉、蛇紋岩石製が多い。古墳時代前期は硬玉製で形が優美となる。中期は碧玉、後期は瑪瑙性が多くなるが金属製もある。勾玉には翡翠など緑色の石が多い。

表記

古事記では「勾玉」、日本書記では「曲玉」と書かれる。

参考文献

  1. 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房