櫛目文土器 ― 2023年10月25日 17:09
櫛目文土器(くしめもんどき)は櫛の歯のようなもので模様がつけられた土器である。
概要
平行する直線または曲線からなる文様である。櫛目文様は、土器の表面装飾法として広範囲に行われ,特に北方ユーラシアに広く分布する。器形は尖底あるいは丸底の砲弾形が基本である。日本では弥生時代中期に西日本(瀬戸内、中部、畿内)において独自に発生し、広く行われた。櫛の動かし方によって波状文、流水文、扇形文などができる。
韓国事例
紀元前5000年頃、「櫛目文土器」が中西部地域で作られ、瞬く間に韓半島全土に広まった。
出土例
- 櫛目文土器 - 曽畑貝塚、縄文時代前期、熊本県宇土市
- 櫛目文土器 - ソウル市岩寺洞(アムサドン)住居跡、
参考文献
水城 ― 2023年10月26日 22:00
水城(みずき)は古代において九州の博多湾から侵攻が予想される敵から太宰府を護るために、土塁と水堀によって築かれた巨大な防御壁である。
概要
663年、白村江において百済再興を目指す百済の残存勢力と倭派遣の連合軍と新羅・唐の連合軍が激突したが、「白村江の戦い」で大敗した。ヤマト王権は、勢いに乗った唐または新羅が自国に攻め入ってくると考え、各種の防衛策を講じた。そのひとつが、水城の建設である。水城は、土塁と水堀によって大野城跡から連なる丘陵をび、博多湾に接する福岡平野への太宰府の開口部を塞ごうとした。
土塁の構造
土塁はほとんどが人工の盛土で、大城山麓から下大利に至る全長1.2Km 、幅77m、高さ9mである。博多湾側に幅60mの水濠を掘り、さらにその内側に高さ9mもの土塁を築いた。外濠の水深は約4mあったとされる。土塁の最下層部には多量の枝葉を混入し、基礎地盤を強化する、敷粗朶(しきそだ)工法とし、上層部には質が異なる土を交合に突き固める版築工法で作られた。樹木は13種類(ヤブニッケイやクスノキ、コナラなど)が特定されており、いずれも5月中旬の若葉が多い。救援の2次軍が撤退した9月から半年後の晩春から夏にかけて伐採され、その後一気に堤防の築造にかかったことが実証された。
木樋
太宰府側の水路から地下を通して博多側の濠に水を流すための導水管が作られた。厚さ20センチのヒノキの大きな板を組み合わせて造られている。土塁の基底部を横断し、埋設された木樋は、長さ79.5メートル、内法幅1.2メートル、内法高さ0.8メートルである。
水門
土塁を通過する官道には東西それぞれに城門が設置された。水城に2カ所の門があった。県道112号線の水城3丁目交差点が東門、大野城市下大利4丁目に西門があった。東門では門の礎石や木樋(もくひ)がみつかっている。底板は2枚の板を長さ25cmの大きさの鉄製の鎹で留めている。西門は水城が築造された7世紀代は、瓦も葺かれない掘立柱式の門柱2本で扉を支える冠木門であった。
改修
唐・新羅軍の侵攻はなかったため使用されなかったが、奈良時代中期の765年(天平神護元年)に対新羅外交の緊張から改修された。
日本書紀
- 巻第廿七 天智天皇
- (原文 三年)是歳、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城。
- (大意)天智三年(664年)対馬嶋、壱岐嶋、筑紫国などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く。また、筑紫に、大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。
指定
- 1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「水城跡」に指定
アクセス等
- 名称 水城跡
- 所在地:福岡県太宰府市水城1-1
- 交通:(水城大堤まで)JR九州旅客鉄道鹿児島本線 水城駅から徒歩6分
参考文献
渤海 ― 2023年10月26日 22:52
渤海(ぼっかい,698年-926年,발해)は8世紀から10世紀にかけて朝鮮半島北部から中国東北部にかけて高句麗の移民が建国した国である。
概要
遼東地方で大祚栄が自立して、高句麗を復興させるとして、698年に震国(または振国)を建て、高王と称して即位した。正式に渤海国となったのは762の第三代大欽茂の時からである。渤海は唐の冊封体制に組み込まれ、頻繁に遣唐使を派遣、唐の律令制度と仏教文化を積極的に受け入れ、唐風の文化が華やいだ。冊封体制下の国家は中国の年号を用いるところであるが、固有の年号を用いるなど、高句麗の後継国家を意識していた。
日本との関係
渤海の支配領域は満州から朝鮮半島北部に及んだため、新羅とは対立関係にあった。新羅の後に位置する日本(奈良朝から平安朝)とは、727年の最初の遣使が出羽に来航し、日本からも遣渤海使を派遣するなど、密接な交流が続いた。最初の渤海使は、大使の高仁義らは往路で死亡し、多くは蝦夷に捕らえられてしまうという苦難を超えて、生き残った高斉徳ら8名が出羽国から上京し、12月に聖武天皇に拝謁した。日本からの使節も何人かは渤海に到達できず行方不明になった。 727年から929年まで34回、日本に遣使した。日本からはこの間、13回遣使した。 航路は明確なコースは不明であるが、直接日本海を横断し、主として季節風を利用して冬は渤海から日本へ来航し、夏にその逆のコースを取ったと推定されている。遣唐使が新羅との関係悪化により、朝鮮半島西側の航路を取れなくなったとき、渤海経由で派遣されたことがある。
参考文献
- 上田雄(1992)『渤海国の謎―知られざる東アジアの古代王国』講談社
- 浜田 耕策(2000)『渤海国興亡史』吉川弘文館
三韓 ― 2023年10月27日 21:22
三韓(さんかん)は古代において朝鮮半島の3つの地域「馬韓」「弁韓」「辰韓」をいう。 日本書紀では高句麗、百済、新羅を三韓とする。
概要
日本書紀は朝鮮古代の三つの国を三韓とする。『三国志』には「三種あり。位置に馬韓といい、二に辰韓といい、三に弁韓という」とする。馬韓には五十カ国があり、大国で1万余戸、小国は数千個、合計して十余万戸とする。後に百済となる伯済国が含まれる。辰韓は十二国からなる。弁韓も十二国からなる。4世紀には百済が馬韓を統一し、新羅が辰韓を統一した。
日本書紀 巻第九 神功皇后
- (原文 九年冬十月)於是、高麗・百濟二國王、聞新羅收圖籍降於日本國、密令伺其軍勢、則知不可勝、自來于營外、叩頭而款曰「從今以後、永稱西蕃、不絶朝貢。」故因以、定内官家屯倉。是所謂之三韓也。皇后從新羅還之。
参考文献
東漢直 ― 2023年10月28日 12:02
東漢直(やまとのあやのあたい)は大和国高市郡を本拠とする渡来系氏族である。 「倭漢直」とも書く。
概要
日本書紀に渡来系の阿知使主を氏祖とするとされる。『続日本紀』延暦4年(785年)6月条では、阿智王は七姓(朱・李・多・皀郭・皀・段・高の七姓漢人)と共に渡来したとされる。高句麗に滅ぼされた楽浪郡の遺民と言われる。大和国高市郡檜前村(奈良県高市郡明日香村)に居住したので、倭漢氏と呼ばれる。大和に居住する漢氏は東漢氏族となり、河内に本拠を持っていた漢氏は西漢氏族となった。雄略16年に漢部を集めて、その伴造になり直の姓を賜ったという。朝廷の文筆、財務、外交などに従事した。6世紀には渡来人を管轄する伴造となり、書、坂上、民、長、大蔵その他多くの枝氏族に分かれて蘇我氏と結んで活躍した。 もと東漢は後漢の別称であった。後漢の首都の洛陽が、前漢の首都の長安の東方に位置するために呼ばれたものである。宝皇女(皇極天皇)の子の漢皇子の養育に東漢直が当たったと考えられている。
日本書紀 巻第十四 応神天皇
- (原文 廿年秋九月)倭漢直祖阿知使主・其子都加使主、並率己之黨類十七縣而來歸焉。
- (大意)応神20年、倭漢直の祖先の阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)およびその郎党17県が来帰した。
日本書紀 巻第十四 雄略天皇
- (原文 七年八月)而病死者衆、由是、天皇詔大伴大連室屋、命東漢直掬、以新漢陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那等、遷居于上桃原・下桃原・眞神原三所。或本云「吉備臣弟君、還自百濟、獻漢手人部・衣縫部・宍人部。」
- (大意)病死するものが多かった。天皇は大伴大連室屋に勅して、東漢直に命じて新漢陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那らを上桃原・下桃原・眞神原の三か所に住まわせた。ある本には吉備臣弟君が百済から帰り、漢手人部・衣縫部・宍人を献じたとする。
- (原文 廿三年八月)遺詔於大伴室屋大連與東漢掬直曰「方今、區宇一家、煙火萬里、百姓乂安、四夷賓服。此又天意、欲寧區夏。所以、小心勵己・日愼一日、蓋爲百姓故也、臣・連・伴造毎日朝參、國司・郡司隨時朝集、何不?竭心府・誡勅慇懃。義乃君臣、情兼父子、庶藉臣連智力、内外歡心、欲令普天之下永保安樂。
- (大意)天皇の病気が重くなったとき大伴室屋と東漢掬を呼び、「民家の煙は万里の遠方からも立ち上る。四夷は服属した。臣・連・伴造は毎日朝參している。國司・郡司は随時に参集する」
日本書紀 巻第廿一 用明天皇
- (原文 五年十一月)癸卯朔乙巳、馬子宿禰、詐於群臣曰「今日、進東國之調。」乃使東漢直駒弑于天皇。或本云、東漢直駒、東漢直磐井子也。
- (大意)蘇我馬子は群臣に命じて「今日、東国の調を献上する」として東漢直駒に天皇を殺させた。ある本には東漢直駒は東漢直磐井の子とされる。
- (原文 五年十一月)丁未、遣驛使於筑紫將軍所曰「依於内亂、莫怠外事。」是月、東漢直駒、偸隱蘇我嬪河上娘、爲妻。
- (大意)馬子は筑紫將軍に使者を送り、内乱のために外事を怠るな」と命じた。東漢直駒は蘇我嬪河上娘(崇峻天皇の嬪と言われる、蘇我馬子の娘)を奪って妻とした。
日本書紀 巻第廿九 天武天皇
- (原文 六年六月)壬辰朔乙巳、大震動。是月、詔東漢直等曰「汝等黨族之自本犯七不可也。是以、從小墾田御世至于近江朝、常以謀汝等爲事。今當朕世、將責汝等不可之?以隨犯應罪。然頓不欲絶漢直之氏、故降大恩以原之。從今以後、若有犯者必入不赦之例。」
- (大意)天武天皇は東漢直らに「汝らは7つの大罪を犯した。小墾田の御代から近江朝まで汝らを操って陰謀が行われた。罪に処すところだが大恩により許すことにする。今後は罪を犯さないように」と述べた。
参考文献
藤岡歴史館 ― 2023年10月28日 18:15
藤岡歴史館(ふじおかれきしかん)は茨城県藤岡市にある発掘調査で出土した土器や石器などの埋蔵文化財を保管する埋蔵文化財の収蔵庫、重要文化財の保管が可能な特別収蔵庫を設備する藤岡市の埋蔵文化財収蔵庫である。地域の貴重な考古遺産を収蔵・展示している施設展示設備である。
概要
平成15年7月末に竣工し、平成16年7月22日にオープンした。藤岡市内の旧石器時代から中世までの通史展示を出土品や年表、解説パネル、模型等で解説する。埋蔵文化財収蔵庫で、地域の貴重な考古遺産を収蔵・展示している施設である。常設展示室では、国指定史跡の白石稲荷山古墳・七輿山古墳を中心とする白石古墳群や本郷埴輪窯址・猿田埴輪窯址についての展示コーナーがある。七輿山古墳と白石稲荷山古墳の中間に位置する。
展示
- 七輿山古墳
- 6世紀前半につくられた三段築成の前方後円墳。6世紀代の古墳としては東日本最大級で、全長145 m、後円部径87m、前方部幅106m、高さは前方部・後円部ともに16m。出土遺物の円筒埴輪は径50cm・ 高さ110cm、7条の凸帯が巡る大型である。
- 平井地区1号墳・皇子塚古墳
- ふたつの古墳は6世紀後半に造られたものである。平井地区1号古墳は、径24m、高さ4mの二段に造られた円墳で、葺石、埴輪列などが確認されている。石室から出土した装飾太刀などの副葬品や墳丘から出土した埴輪は国の重要文化財に指定されている。皇子塚古墳は、径31m、高さ6mの四段に造られた円墳で、墳丘からは円筒や朝顔形円筒、人物・馬などの埴輪が、石室からは人骨、馬具、刀装金具などが出土する。
- 白石稲荷山古墳
- 自然地形を利用した大型の前方後円墳である。規模は全 長 175m、くびれ部幅 50m、 前方部幅約 148m、高さは 後円部で 13.5m、前方部で 6m。墳頂部の東と西に竪穴式の礫郭が確認され、副葬品 に直刀、銅鏡、首飾りに使われた勾玉、管玉、臼玉などのほか、壷、杵、案、下駄、刀子などの石製模造品が出土する。豪族の館を彷彿させる家形埴輪が出土している。これらの出土品は、東京国立博物館に収蔵、展示される。
指定
アクセス等
- 名称:藤岡歴史館
- 所在地:群馬県藤岡市白石 1291 番地 1
- 休館日: 12月27日 ~ 1月4日
- 開館時間:9:00~17:00 入館は16:30まで
- 入館料:常設展示室は無料(団体は要予約)
- 交通:JR八高線 群馬藤岡駅から車で10分 アクセスは良好とはいえない。
参考文献
北杜市考古資料館 ― 2023年10月28日 18:43
北杜市考古資料館(ほくとしこうこしりょうかん)は山梨県北杜市にある北杜市内の遺跡で出土した旧石器時代から戦国時代までの土器、石器などを展示し、時代ごとの遺跡を解説・紹介する資料館である。
概要
縄文後期から晩期にかけての金生遺跡から出土した中空土偶を展示。
展示
旧石器から中世までの遺跡の出土品を展示する。特に縄文時代の土偶、耳飾り、石棒はユニークである。展示品の写真撮影はOK。
- 津金御所前遺跡出土品 -「出産文土器」と呼ばれる縄文時代中期中葉の大形土器。
- 諏訪原遺跡出土品 - 胴部に人体文様を施文した有孔鍔付土器。
- 石原田北遺跡出土品 -カエルとサンショウウオのような文様がつけられた縄文時代中期中葉の大形土器。
- 金生遺跡出土品 -
- 寺所第2遺跡出土品 - 縄文時代中期の貯蔵された黒耀石、人体文様をつけた土器の優品
- 竹宇遺跡出土品 - 津金御所前遺跡の出産文土器をより抽象的に表現した大形土器
指定
アクセス等
- 名称:北杜市考古資料館
- 所在地:山梨県北杜市大泉町谷戸2414
- 休館日:火曜日・水曜日(休日の場合は、その直後の休日でない日)
- 開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
- 入館料:一般(高校生以上) 200円
- 交通:JR中央本線小淵沢駅下車、北杜市民バス「JA大泉支店前」下車、徒歩約6分
- JR中央本線「長坂駅」からバスで15分(下車後徒歩10分)
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