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国博士2023年10月20日 23:33

国博士(くにはかせ)は2つの意味がある。ひとつは大化の改新期の官名である。もうひとつは律令制において諸国に1名ずつ設けられた国学の教官である。

概要

大化の改新

蘇我本宗家の滅亡後に、沙門の旻法師と高向玄理が任命された官職である。 国の顧問とする。政治顧問として国政全般の諮問に応える役職と推定されている。 唐の諸制度を移入し制度化するためにおかれた政治顧問で、臨時的な職とされる。

律令期

律令制では、国ごとに国博士が1名置かれ、、学生の教授や課試、外国使節の応接にあたる。原則として国内から任用され、国内に任に堪える人材がいない場合には傍国からの任用を許した。当国の国博士は徭役、傍国のものは課役のすべてを免じられた。また職分田6段と公廨稲が支給された。

史料

  • 大化の改新期 
    • 『日本書紀』 巻第廿五 孝德天皇
    • (原文 皇極四年六月)中臣鎌子連、懷至忠之誠、據宰臣之勢、處官司之上。故、進退廢置計從事立、云々。以沙門旻法師・高向史玄理、爲國博士。
    • (大意)中臣鎌子は忠誠心をもち、官司を統率した。よって物事は計画通り進んだ。よって旻法師と高向玄理を国の博士(政治顧問)とした。 『日本書紀』 巻第廿五 孝德天皇 
    • (原文 五年春正月)是月、詔博士高向玄理與釋僧旻、置八省百官。
    • (大意)博士の高向玄理と釈僧旻とに詔して,八省百官を置かせた
  • 律令期
  • 『続日本紀』巻第二、文武天皇 大宝3年3月16日条
  • (大意)選任令によれば「国博士は国内か隣国から採用せよ」とあるが、旧来の例から見れば適用な人材は稀である。

参考文献

百済2023年10月21日 19:37

百済(くだら, 백제,ペクチェ)は朝鮮の三国時代の国家の一つで、朝鮮半島の南西部を占めた古代国家である。

概要

漢城時代

『魏志倭人伝』の頃に馬韓は50国に分かれており、大きな国でも1万余家、小さな国は数千家であった。そのうちの一つが百済の前身となる伯済国であった。314年、高句麗と協力して帯方郡を滅ぼした。 345年頃、朝鮮の三韓のひとつ、馬韓の地の50余国を伯済国が統一した。都は漢城(現在のソウル)である。百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられている。 近肖古王は中国から文字を取り入れ、初めて記録を残すようにした。384年には東晋から僧が到来して、仏教が伝来した。 475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城した。第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死した。

熊津(公州)時代

長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津に遷したが、478年には兵官佐平の解仇によって暗殺された。反乱で動員された百済の兵力は、『三国史記』の記述によれば2,500名あまりで、百濟の弱体化がみえる。第24代東城王が479年に王位につき、新羅、倭との関係を改善し、小国が分立していた伽耶地方への拡大を図り、百済王権と国力の回復に成果を挙げた。しかし晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、暗殺される。501年に即位した第25代 武寧王の時代に百済王権の回復を見せる。次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させる。武寧王の亡き後に即位した、第26代 聖王(日本書紀の「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南の 泗沘(サビ)、今の扶余へ遷都した。

泗沘(扶余)時代

泗沘に遷都した聖王は国号を「南扶余」とした。551年、聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧都の漢城地方を取り戻す。しかし552年、高句麗と連合した新羅に奪われ、同盟関係にあった新羅と対立する。聖王は554年に新羅との戦いで戦死する。百済は高句麗と同盟を結び、百済最後の王となる第31代義慈王は、新羅に攻め入る。孤立した新羅の善徳女王は唐に救援を求め、3度にわたる高句麗制圧が失敗に終わった唐は新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えた。660年、唐は13万人の大軍を動員、新羅の5万の兵と連合して、百済に攻め入る。百済軍は、黄山之原で決戦に挑み、善戦したが新羅軍に大敗する。唐軍に泗沘城を包囲され、一時義慈王は旧都の熊津城に脱れやが降伏し、百済は滅亡した。

百濟の語源

  • (1)地名説 「くだら(百済)」の項で語誌について、「「百済」をクダラと訓む由来には諸説あるが、馬韓地方に原名「居陀羅」と推定される「居陀」という地名があり、これがこの地方の代表地名となり、百済成立後、百済の訓みになったという説が紹介される。(伊藤亜人監修『朝鮮を知る事典』平凡社)
  • (2)大きなムラ説 語源説として「クは大の意。タラは村落の義」日本では大村などを意味する朝鮮の古語を訓読して(くだら)と呼びならわしている。」と説明される(『朝鮮を知る事典』)
  • (3)大国説 「クン」は大きいを表す「ナラ」は国の意味。「クンナラ」(大きな国)がクダラに変化した説。
  • (4)有力100家説。 『隋書』「百済伝」は、移動の際に百家で海を済ったので、それに因んで百済という国名となったと伝る。

参考文献

  1. 日本国語大辞典第二版編集委員会(2001)『日本国語大辞典第4巻』小学館
  2. 伊藤亜人監修(2000)『朝鮮を知る事典』平凡社

屯倉2023年10月21日 21:05

屯倉(みやけ)は大化の改新以前の大王家直轄領をいう。 「屯家」、「官家」、「御宅」、「三宅」とも書く。

概要

課税で得た収納物を保管する倉庫が語源である。のちに官倉に納める稲穀の耕地、付属の灌漑(かんがい)施設、および耕作民(田部(たべ))などを含めるようになった。屯倉は王室の財産であり、王家が直接支配する土地であった。 当初は大和・河内におかれ、池溝開発、築提作業の拠点として利用された。管理は地方豪族に任されていたが、大化の改新で廃止された。 日本書紀は「屯家」、「官家」と書く。 『古事記』・『風土記』・木簡では「屯家」「御宅」「三宅」「三家」と書かれる。

日本書紀

  • 巻第六 垂仁天皇
  • (原文 廿七年秋八月)是歲、興屯倉于來目邑。屯倉、此云彌夜氣。
  • (大意)
  • 巻第十四 雄略天皇
  • (原文 廿年冬)王曰「不可矣。寡人聞、百濟國者爲日本國之官家、所由來遠久矣。
  • (大意)

参考文献

  1. 石野博信編(2015)『倭国乱とは何か』新泉社
  2. 石野博信編(1987)『古墳発生前後の古代日本』大和書房

魏志2023年10月23日 21:43

魏志(ぎし)は中国の歴史書『「三国志』の中で、魏の国に関する史実を記した部分の通称である。 3世紀に成立した。

概要

30巻。「蜀志 」「呉志」とともに、晋の陳寿が著した著書である。「魏志」のの「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条が通称「魏志倭人伝」である。3世紀の日本の様子を知るための重要史料である。

参考文献

  1. 陳寿,裴松之,今鷹真(訳),井波律子(訳)(1992)『正史 三国志〈1〉魏書 1』筑摩書房
  2. 陳寿,裴松之,今鷹真(訳),井波律子(訳)(1993)『正史 三国志〈2〉魏書 2』筑摩書房
  3. 陳寿,裴松之,今鷹真(訳),井波律子(訳)(1993)『正史 三国志〈3〉魏書 3』筑摩書房
  4. 陳寿,裴松之,今鷹真(訳),井波律子(訳)(1993)『正史 三国志〈4〉魏書 1』筑摩書房

堅塩媛2023年10月23日 22:49

堅塩媛(きたしひめ,生没年不詳)は飛鳥時代の欽明天皇の妃である 岐多斯比売(古事記)ともいう。推古天皇の母である。

概要

同母妹小姉君とともに天皇の妃となり,13人の王子(皇子)・王女(皇女)を生んだ。欽明天皇の大后(皇后)には、宣化天皇の王女(皇女)である石姫皇女が立てられた。 蘇我氏本宗家(蘇我氏大臣家)が政治の実権を掌握するようになると、堅塩媛は、「大后」や「皇太夫人」と呼ばれる。ただし13人の子女をすべて一人で産んだかは疑問がある。。堅塩媛の名前は『日本書紀』編纂時の穢名との意見がある。『古事記』は、小姉君を『岐多志比賣の姨(おば)』としているので、姉妹ではなかった可能性がある。

埋葬

推古20年2月に改葬が行われているが、その前の葬儀と埋葬はいつどこで行われたか、日本書紀には書かれていない。改葬では推古天皇や大臣の蘇我馬子の言葉が代読されていることは、国家的な行事として改葬が行われたことになる。倉本一宏(2015)は堅塩媛が改葬前に葬られていた「檜隈陵」が現在の欽明天皇陵に治定されている平田梅山古墳との意見があるとしている。

檜隈大陵

檜隈大陵は平田梅山古墳が宮内庁は比定しているが、石室内に合葬された形跡が見られる五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)が有力とされている。

親族

  • 父:蘇我稲目 母は不明
  • 兄弟:蘇我小姉君・蘇我馬子・境部摩理勢・蘇我石寸名
  • 子:橘豊日大兄皇子(用明天皇)・磐隈皇女・臘嘴鳥皇子・豊御食炊屋姫尊(推古天皇)・椀子皇子・大宅皇女・石上部皇子・山背皇子・大伴皇女・桜井皇子・肩野皇女・橘本稚皇子・舎人皇女

日本書紀

  • 巻第十九 欽明天皇
  • (原文 二年春三月)次蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛堅鹽、此云岐陀志氣。
  • (大意)二番目の妃は蘇我大臣の娘の堅塩姫である。
  • 巻第廿一 用命天皇
  • (原文)橘豐日天皇、天國排開廣庭天皇第四子也、母曰堅鹽媛。
  • (大意)用明天皇は第四皇子で、母は堅塩姫である。
  • 巻第廿二一 推古天皇
  • (原文 廿年二月)二月辛亥朔庚午、改葬皇太夫人堅鹽媛於檜隈大陵。是日、誄於輕術。
  • (大意)堅塩媛を欽明天皇の檜隈坂合陵に改葬した。

参考文献

  1. 倉本一宏(2015)『蘇我氏 古代豪族の興亡』中央公論新社
  2. 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店

蘇我稲目2023年10月24日 23:57

蘇我稲目(そがのいなめ、? - 570年)は古墳時代の豪族で中央の政治家である。

概要

大和国高市郡曾我(現、奈良県橿原市曽我町)を本拠とする豪族であったとする説がある(通説)。ほかに大和国葛上郡(御所市一帯)に比定する説、河内国石川郡(大阪府富田林市東半・南河内郡一帯)を本願地に比定する説がある。 蘇我稲目は葛城氏の女性を妻に迎え、後継者に馬子を得た。 稲目は、欽明大王の命により吉備に派遣され、白猪屯倉や児嶋屯倉などの設置・管理にあたった。娘を欽明・用明の妃とした。

仏教伝来

仏教伝来では崇仏派の代表として、大連の物部尾輿と連の中臣鎌子と争う。自邸を向原寺と称した。 百済の聖王(聖明王)の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた。天皇は仏像を礼拝するの可否を群臣に求めると、蘇我稲目は「西蕃諸国々はみなこれを礼拝しており、日本だけがこれに背けるだろうか」と述べる。反対派の物部尾輿と連の中臣鎌子は「蕃神を礼拝すると国神の怒りをまねく」と反対した。

韓国出自説

蘇我氏は朝鮮半島の百済から渡来したのではないかという仮説がなされる。蘇我氏の祖先系譜では蘇我石川宿祢に続く3代の名前が満智・韓子・高麗と、朝鮮三国に関わり名であったことを理由とする。高麗の子が稲目とされる。しかし満智に始まる3代は系譜上で加えられた架空の人物とする説がある。蘇我石川宿祢から高麗までの4代の系譜は、河内国石川地域を本拠とした蘇我倉氏(後の石川氏)が作り出した祖先系譜との説がある。

大臣就任

大臣には宣化2年2月に就任したとされる。

日本書紀 巻第十八 宣化天皇

  • (原文 二年二月)又以蘇我稻目宿禰爲大臣、阿倍大麻呂臣爲大夫。
  • (大意)蘇我稲目を大臣とし、阿倍麻呂を大夫とした。稲目の記事の初見である。
  • (原文 二年五月)蘇我大臣稻目宿禰、宜遣尾張連、運尾張國屯倉之穀。
  • (大意)蘇我稲目は尾張連を派遣し、尾張の屯倉の穀を運ばせよと(大王は)勅した。

日本書紀 巻第十九八 欽明天皇

  • (原文 二年十二月二月)尊皇后曰皇太后、大伴金村大連・物部尾輿大連爲大連、及蘇我稻目宿禰大臣爲大臣、並如故。

参考文献

  • 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  • 東野治之(2013)『上宮聖徳法皇帝説』岩波書店

櫛目文土器2023年10月25日 17:09

櫛目文土器(くしめもんどき)は櫛の歯のようなもので模様がつけられた土器である。

概要

平行する直線または曲線からなる文様である。櫛目文様は、土器の表面装飾法として広範囲に行われ,特に北方ユーラシアに広く分布する。器形は尖底あるいは丸底の砲弾形が基本である。日本では弥生時代中期に西日本(瀬戸内、中部、畿内)において独自に発生し、広く行われた。櫛の動かし方によって波状文、流水文、扇形文などができる。

韓国事例

紀元前5000年頃、「櫛目文土器」が中西部地域で作られ、瞬く間に韓半島全土に広まった。

出土例

  • 櫛目文土器 - 曽畑貝塚、縄文時代前期、熊本県宇土市
  • 櫛目文土器 - ソウル市岩寺洞(アムサドン)住居跡、

参考文献