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太子塚古墳2023年10月15日 01:49

太子塚古墳(たいしづかこふん)は群馬県高崎市箕郷和田山地区に所在した古墳時代中期末(5世紀末)築造、全長24mの帆立貝式古墳である。

概要

榛名山東南の麓の山麓にある丘陵の先端にある5世紀末の古墳である。墳丘が残存せず、調査により直径20mの後円部と幅11mの後円部を持つ帆立貝式古墳と判明した。 古墳の大きさに対して、埴輪の数が極めて多い。

規模

遺構

遺物

  • 馬形埴輪
  • 鹿形埴輪
  • 盾持人埴輪
  • 弾琴男男子埴輪
  • 戟をもつ盾持人埴輪
  • 矢が刺さったシカの埴輪
  • 円筒埴輪

被葬者

築造

5世紀末

指定

  • 名称: 太子塚古墳
  • 所在地: 群馬県高崎市箕郷和田山地区
  • 交通:

参考文献

  1. 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社

会稽東冶2023年10月15日 14:39

会稽東冶(かいけいとうや)は古代中国の会稽郡東冶県である。

概要

魏志倭人伝に「会稽」は2か所に登場する。倭国は「會稽東冶の東にある」と書かれる。 會稽とは漢書に現れる会稽郡であり、東冶県は冶県の前身である。 後漢の成立に冶県は分割され、東は東冶県に改名され、県西部は侯官県が設置された。 つまり會稽東冶の東とは会稽郡東冶県の東の意味である。 東冶県の県都は現在の福建省の省都である福州市である。 位置は、台湾の北、沖縄の西にある。 すなわち、三国志の筆者は倭国を現在の沖縄付近と理解していたことになる。

会稽東治

魏志倭人伝の版本には「会稽東治」とサンズイがついている。この場合は「会稽の東部地域の治所」と解釈され、現在の江蘇省蘇州市辺に理解される。その距離は580km北になり、会稽東治では鹿児島県鹿屋市付近が対応する。大きな違いである。 しかし、版本は会稽東冶の誤植である。理由は魏志倭人伝の版本は綿々と筆写されてきた手書き複製を宋代に印刷したものであるから、その時点かまたはその前の誤りが生じたものと思われる。また「東治」という地名はないこと、東にあるということから「東冶」は地名として出しているので、治所という曖昧な場所で示す理由はないこと、『三国志』には會稽と東冶はセットで登場することなどが挙げられる。

魏志倭人伝

  • (原文1)夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害
  • (大意1)
  • (原文2)計其道里、當在會稽東冶之東。

漢書地理志 地理志上

  • (原文1):東南曰揚州:其山曰會稽,藪曰具區,川曰三江,寖曰五湖;其利金、錫、竹箭;民二男五女;畜宜鳥獸,穀宜稻。
  • (原文2):會稽郡,戶二十二萬三千三十八,口百三萬二千六百四。縣二十六:吳,曲阿,烏傷,毗陵,餘暨,陽羨,諸暨,無錫,山陰,丹徒,餘姚,婁,上虞,海鹽,剡,由拳,大末,烏程,句章,餘杭,鄞,錢唐,鄮,富春,冶,回浦。

漢書地理志 地理志下

  • (原文3)其君禹後,帝少康之庶子云,封於會稽,文身斷髮,以避蛟龍之害。後二十世,至句踐稱王,與吳王闔廬戰,敗之雋李。夫差立,句踐乘勝復伐吳,吳大破之,棲會稽,臣服請平。後用范蠡、大夫種計,遂伐滅吳,兼并其地。度淮與齊、晉諸侯會,致貢於周。周元王使使賜命為伯,諸侯畢賀。後五世為楚所滅,子孫分散,君服於楚。後十世,至閩君搖,佐諸侯平秦。漢興,復立搖為越王。是時,秦南海尉趙佗亦自王,傳國至武帝時,盡滅以為郡云。

三国志46巻・呉書・孫策伝

  • (原文4)虎等群盜,非有大志,此成禽耳。遂引兵渡浙江,據會稽,屠東冶,乃攻破虎等

参考文献

府中熊野神社古墳展示館2023年10月15日 22:54

府中熊野神社古墳展示館(ふちゅうくまのじんじゃこふんてんじかん)は東京都府中市にある古墳に関する展示館である。

概要

2011年(平成23)年、国史跡武蔵府中熊野神社古墳展示館が開館した。

展示

武蔵府中熊野神社古墳についてのパネルや出土した鞘尻金具のレプリカ、古墳の土層断面のはぎ取りなどの展示のほか、施設西側には実物大の石室模型などを展示する。

アクセス等

  • 名称:国史跡武蔵府中熊野神社古墳展示館
  • 所在地:〒183-0031 府中市西府町2丁目9番地(熊野神社境内)
  • 休館日:月曜日(祝日・振替休日に当たる場合は直後の平日)
  • 開館時間: 4月1日から10月31日 午前9時から午後5時
    • 11月1日から3月31日 午前10時から午後4時
  • 入館料:無料
  • 交通: JR南武線西府駅より徒歩8分/京王線府中駅から京王バス「西府町2丁目」「西府町3丁目」下車徒歩4分

参考文献

府中熊野神社古墳2023年10月15日 23:13

府中熊野神社古墳(ふちゅうくまのじんじゃこふん)は東京都府中市にある上円下方墳である。

概要

国史跡武蔵府中熊野神社古墳は、墳丘に石がふかれたものとしては、国内最大・最古の上円下方墳である。上円下方墳は全国でも数は少ない。正式に確認されている上円下方墳の中では最大である。全体が河原石で覆われ、上面は貼石、側面は葺石という。 埋葬施設は南側に入口をもつ横穴式石室で、全長約8.8m、玄室・後室・前室の複室構造で、羨道の南側にハの字型の前庭部が付く。石材は凝灰岩の切石である。鉄釘は玄室から90本、後室から一塊にまとまった形で55本見つかった。 玄室からは漆が塗られた木棺と絹片が見つかった。被葬者は絹布で覆ったヒノキ材の木棺に安置され、埋葬された可能性を指摘されている。

規模

1段目が約32メートルの方形、2段目が約24メートルの方形、3段目が直径約16メートルの円形を呈する3段築成の古墳である。高さは復元高で約6メートルを測る。3段目は古墳完成当時は5メートル程度の高さがあったものと推定される。版築工法で築造される。

遺物

石室内に、埋葬時の副葬品は、ほとんど残っていなかった。

  • ガラス玉・
  • 銀象嵌鞘尻金具
  • 環金具
  • 太刀の一部の鞘尻金具に「七曜文」が刻まれる。

築造

土器が出土していないため、築造年代の推定は難しいものの、石室形態や出土遺物から7世紀中頃の築造と推定されている。

関連項目

府中熊野神社古墳展示館

アクセス等

  • 名称:国史跡武蔵府中熊野神社古墳
  • 所在地:〒183-0031 府中市西府町2丁目9番地(熊野神社境内)
  • 交通: JR南武線西府駅より徒歩8分、京王線府中駅から京王バス「西府町2丁目」「西府町3丁目」下車徒歩4分

参考文献