青塚茶臼山古墳 ― 2024年12月08日 00:34
青塚茶臼山古墳(あおつかこふん)は愛知県犬山市にある前方後円墳である。 「茶臼山古墳」、「青塚古墳」、「王塚古墳」とも言われる。
概要
犬山市の南部 古墳の規模は断夫山古墳に次ぎ愛知県内2番目である。かつては十数基の古墳があり、古墳群をなしていたが,現在は古墳の南西部に小円墳が数基だけ残る。前方部墳頂に方形壇状の遺構があり、周囲を川原石と割石による配石と石敷、さらにその周囲に円筒埴輪がめぐる。内部構造は未調査のため不明、墳丘形態や出土遺物(鍬形石、壺形埴輪)などから4世紀中頃と見られる。壺型埴輪(つぼがたはにわ)が約2メートル間隔で配置されていた。自然の地形を利用した濠があり,東側には陸橋が確認されている。方形壇上遺構は,古墳築造後に新たにつくられた可能性が高い。配石遺構は後円部の北西側に複数があり,前方部の上に確認されている。規模は全長3メートル,幅1メートル前後。 1584年(天正12年)の小牧長久手の戦いの際に、秀吉陣の砦として使用されたことから、「青塚砦」とも呼ばれる。古墳域は現在は大縣神社(犬山市宮山、尾張国二宮)の社有地である。 圃場整備事業に伴い消滅の危機となったが、地元住民の保護運動で残された。
発掘調査
規模
- 形状 前方後円
- 築成 前方部:2段、後円部:3段
- 墳長 123m
- 後円部径 径78m 高12m
- 前方部 幅62m 長45.5m 高7m
主体部
外表施設
- 円筒埴輪 円筒Ⅱ式
- 葺石 あり
遺物
- 壺形埴輪
- 円筒埴輪
- 樽形埴輪
- 鏃形石製品
- 鰭付朝顔形埴輪
築造時期
- 4世紀中葉(古墳時代前期)頃
被葬者
展示
- 青塚古墳史跡公園
- 青塚古墳ガイダンス施設「まほらの館」
考察
指定
- 1983年(昭和58年)2月8日 国史跡
アクセス等
- 名称 :青塚古墳
- 所在地 :〒484-0945 愛知県犬山市青塚22-3
- 交 通 :名鉄楽田駅 徒歩 30分
参考文献
古代の交通ルール ― 2024年12月09日 00:20
'古代の交通ルール(こだいのこうつうるーる)は2024年12月08日に開催された古代の交通ル-ルに関する講演会である。
概要
- タイトル 「古代の交通ルール」
- 主催 国分寺市教育委員会
- 会場 いずみホール
- 講師 近江俊秀(文化庁主任文化財調査官)
- 日時 2024年12月08日(日曜日)14時00分から16時00分
要旨
講演は主として時代の逆順で行われたが、ここでは時代順で説明する。
弥生時代
弥生時代にすでに道路交通ルールがあった。『魏志倭人伝』に道で偉い人に出くわしたら、身分が下位のものが道を譲ると書かれる。道を譲る行為は身分の上下関係の可視化とみられる。
飛鳥時代
670年(天智9年)、天智大王が「行路の相避ることを宣ふ」(『日本書紀』第廿七 天智九年春正月条、宣朝庭之禮儀與行路之相避)と勅したと日本書紀に書かれる。道路で出会ったら互いに避けるという意味である。弥生時代と同様の交通ルールである。
奈良時代
奈良時代の太宰府の条坊から奈良時代の柵の跡、道路と側溝が発見された(大宰府条坊跡第 357 次調査)。路面幅は約3m、東側溝は幅約2m、深さ0.5m、西側溝は幅約2.5m、深さ0.5mの直線道路であった。路面に幅5cmの筋状の溝(轍の跡)が残り、また牛の足跡も残る。「荷物を運ぶ車両は道路を通り、それ以外の人や牛は側溝を歩いていたのではないか。車両と歩行者を分離していたとも考えられる」とされるので、歩車分離の交通と見られる。牛の蹄の跡から左側通行と推定されている。
平安時代
公家の礼法では牛車がすれ違うとき、左に避けるルールがあった。しかし平安京の発掘調査では車の轍は道の中央を通っていた。
鎌倉時代
『宇治拾遺物語』では左側に避けている(大膳の大夫以長、前駆の間の事)。『極楽寺殿御消息』(北条重時、1198年~1261年)では相手が高貴なら左に避けると書かれる。公家社会のルールであったと想定される。
戦国時代・安土桃山時代
『石山寺縁起絵巻』(巻1)で人は左側を通行している。『中島摂津守宗次気』(1558)は路地でで輿に出会ったら右に退き、左を輿に通す。
江戸時代
平和の時代 右側によける戦国時代のルールは変化する。理由は敵意がないことを示すため(刀を使えない)自分から見て左側に避けるようになった。身分を示す刀が相手に当たらないようにする意味がある。『海陸行程細見記』(増補:1836年)は右に除けると無礼になると示している。武士のルールが庶民まで広がったと見られる。
考察
右側または左側の通行は「礼」と密接に関係する。何らかの社会的な合意がないと、無用な衝突が起こる。江戸時代の生麦事件も交通のお約束(ルール)を知らなかったために起きた歴史的事件である。
参考文献
- 近江俊秀(2024)『「人は右、車は左」 往来の日本史』朝日新聞出版
- 近江俊秀(2024)「古代の交通ルール」講演資料
武蔵国分寺跡 ― 2024年12月10日 17:41
武蔵国分寺跡(むさしこくぶんじあと)は奈良時代に建てられた武蔵国分寺の跡である。
概要
741年(天平13年)3月24日の聖武天皇の詔(続日本紀)により全国に国分寺が建立された。武蔵国分寺は東西880メートル南北550メートルの広大な敷地が充てられた。敷地の東に野川が流れ、西は東山道武蔵路が走る。北に国分寺崖線があり、その坂を下ったところに武蔵国分寺跡がある。当時は僧寺には20人の僧侶、尼寺には10人の尼僧が住んでいた。
伽藍配置
①経典の講義などを行う講堂-本尊を安置する金堂-中門-南門が南北一列に中軸線を揃えて並び、②中軸線の東側に鐘楼と東僧坊が、対する西側に経蔵と西僧房がシンメトリーに建つ。③これらの建物を中門から両翼に延びる掘立柱塀(築地塀に建て替え)と大小複数の溝で囲まれる。④七重塔跡は、金堂・講堂跡から東方200メ-トルに位置する。
講堂
講堂跡は、創建時は桁行5間(東西約28.5 m )、梁行4間( 南北約16.6 m)であったが、再建時に桁行7間(東西約36.2m)、梁行4間(南北約16.6m)と建て替えられた。創建時の基壇は、東西約34.3 m、南北約22.6 mで8世紀中頃に生産された南比企窯跡群産の有段男瓦が多用され、一方の再建時の外装瓦は創建期から9世紀中頃までの製品が混在して使用された。
金堂
金堂の建物は、桁行7間( 東西約36.2 m )、梁行4間( 南北約16.6 m ) で、再建時の講堂跡とほぼ同規模である。屋根構造は入母屋造もしくは寄棟造と考えられる。軒の出は、廂部分に相当する礎石の位置から基壇縁、及びその外周雨落石敷まで約16 ~ 17 尺を有するが、国分寺の金堂としては最大級の規模である。基壇は河原石による乱石積外装で、規模は東西約45.4 m、南北約26.3 mである。礎石は基壇上に19 個残存する。付帯施設として基壇の南と北に階段が存在する。いずれも河原石積の構造で、北面階段は大凡建物中央間一間分( 約4.5 m ) の幅で、階段の出は約1.35 mを測る。
中門
金堂と南門との間にある中門は創建期の礎石建てから、その後掘立柱建物の門に建て替えられたことが判明した。底面に敷かれた瓦は創建期段階のもので、「高( 高麗郡)」の押印、「播( 播羅郡)」のヘラ書き資料が出土した。屋根の構造は寄棟もしくは入母屋と推定された。各地の国分寺の中門の両側には回廊が巡り、金堂や講堂などの建物と連結している伽藍配置であるが、武蔵国分寺(僧寺)では回廊はなく、伽藍中枢部は塀と大溝で囲まれていることが判明した。
南門
薬師大門と呼ばれた場所に明治時代の肇は礎石が3、4個あったが、大正11年には1つもなくなっていた。昭和33年度に日本考古学協会により調査され、4つの礎石据え付け痕跡が発見された。平成20年度調査で地表した0.55mから0.75mの位置で遺構確認を行った。金堂心から南に115m、礎石建築で二本の親柱と背後に控柱が各1本が伴う。間口1.5m、親柱と控え柱の距離は2.3mであった。
鐘楼跡
鐘楼跡は礎石建ちの南北棟総柱建物で、桁行3間(南北9.6m)、梁行2間(東西6.0m)の規模であり、廂を伴わないことから屋根構造は切妻造りと見られる。
七重塔
七重塔は3間(約10メートル)四方の礎石建物であり、高さ約60メートルと推定されている。中央にほぞ穴がある心礎を含め7個の礎石が残る。
焼失
武蔵国分寺の伽藍は1333年(元弘3年)の分倍河原の合戦で焼失したと伝えられる(寺伝)。その後、新田義貞は金堂付近に薬師堂を建立したとされる。
遺構
- 金堂跡
- 講堂跡
- 七重塔跡
遺物
展示施設
- 武蔵国分寺跡資料館
指定
- 大正11年(1922年)10月12日 国史跡
考察
アクセス等
- 名称: 武蔵国分寺跡
- 所在地: 国分寺市西元町1丁目から4丁目
- 交通: 西国分寺駅徒歩15分
参考文献
- 国分寺市遺跡調査会(2010)「国指定史跡 武蔵国分寺跡」国分寺市教育委員会
麻生田大橋遺跡 ― 2024年12月11日 00:20
麻生田大橋遺跡(あそうだおおばしいせき)は愛知県豊橋市にある縄文時代晩期から弥生時代にかけての複合遺跡である。
概要
遺跡は昭和11年、12年頃に発見された。大量の土器棺墓が発見されたことで有名である。弥生時代中期の遺構から6基の方形周溝墓が発見されている。東名高速道路豊川インターチェンジの500m南を中心として、南北120m、東西130mの規模である。麻生田当月津遺跡と合わせて、麻生田遺跡と総称されていた。しかし、麻生田当月津遺跡では縄文時代中期中葉から弥生時代前期の遺物が検出されるのに対し、麻生田大橋遺跡では縄文時代晩期中葉から弥生時代前期の遺物が検出され、活動時代が異なるため、異なる別の遺跡と認識されるようになった。
土器種
麻生田大橋遺跡から出土した縄文時代晩期後葉から弥生時代前期にかけての時期の土器には、(1)探鉢形土器、(2)甕形土器、(3)壷形土器、(4)鉢形土器、(5)浅鉢形土器、(6)注口土器の6種類の器種があるとされる。
遺構
縄文時代
- 土器棺墓
- 土坑
- 集石
- 溝
遺物
縄文時代
- 土器棺
- 石錘
- 石剣
- 石刀
- 石鏃
- 石斧
- 凹石
- 石棒
- 磨石
- 石皿
- 敲石
- 砥石
- 玉
弥生時代
- 土偶
- 弥生土器
展示施設
- 豊川市桜ヶ丘ミュージアム
指定
考察
アクセス等
- 名称: 麻生田大橋遺跡
- 所在地: 愛知県豊川市麻生田町大橋
- 交通:
参考文献
- 財団法人愛知県埋蔵文化財センター(1991)「麻生田大橋遺跡」愛知県埋蔵文化財センター調査報告書第21集
纒向矢塚古墳 ― 2024年12月11日 23:55
纒向矢塚古墳(まきむくやづかこふん)は奈良県桜井市にある古墳時代の前方後円墳である。
概要
纒向型前方後円墳である。後円部はやや東西に長い楕円形である。周濠は後円部のみで地形に合わせて前方部に向かう途中で途切れ、後円部南側では堀削直後にブロック状の盛土が築かれる。後円部径と前方部長の比率が2:1となる「纒向型前方後円墳」の典型例である。
調査
第1次調査は1971年(昭和46年)、導水溝と周濠の接続部付近から庄内3式期と推測される土器群が出土する。第3次調査は2007年(平成19年)、古墳の範囲を確認するための調査。前方部前面側から周濠外側の地山の位置、削平を受けている可能性があるものの、前方部墳丘との距離から本来の長さを考えると、纒向型前方後円墳の形式であることが確認された。周濠部の発掘調査において、幅23mの濠が確認されている。
規模
- 墳長 96m
- 後円部 高7m
- 前方部 幅40m 長32m 高2m
- 葺石 - あり
- 周濠 - あり(幅20m、深さ1m)。
遺構
埋葬施設は未調査である。墳頂に板石が散乱しており、竪穴式石室の存在が想定されている。
出土品
土器は庄内2式から3式以降の土師器である。布留式の土器はない。
築造時期
- 古墳時代前期初頭(3世紀中頃以前)
展示
指定
- 2006年1月26日 - 纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定された。
アクセス等
- 名称:纒向矢塚古墳
- 所在地:桜井市東田町字矢塚
- 交通:JR巻向駅から徒歩12分
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 桜井市教育委員会(2009)『平成19年度国庫補助により発掘調査報告書』桜井市教育委員会
丸墓山古墳 ― 2024年12月12日 00:20
丸墓山古墳(まるはかやまこふん)は埼玉県行田市にある古墳時代古代の円墳である。
概要
関東ローム層の低台地である北足立台地の縁辺にある。周堀の上端での計測で径約105mとされる円墳である。高さは周堀の上端から約18.2mである。埼玉古墳群で最も高い標高となる。 以前は日本最大規模の円墳であったが、2017年に富雄丸山古墳(径110m)に抜かれ、日本で第二位の円墳となった。頂上に登ることができる。周堀は一重である。葺石は全面ではないが存在する。『新編武蔵風土記稿』では「丸墓山古墳」と呼ばれている。その頃、頂上に大日堂があったとされる。周堀の幅は約37m、深さは約2.8mの空堀がある。埼玉古墳群において唯一葺石を伴う古墳である可能性が指摘されている。 昭和50年頃まで「円墳」は疑問視されていた。 その理由は以下の通り。
- 埼玉古墳群に現存する大型古墳は全[前方後円墳なのに、丸墓山古墳だけ円墳はおかしい
- 築造年は稲荷山古墳に次いでいる
- 墳丘は葺石で覆われていた 「稲荷山→丸墓山→二子山」の順に築造されたとされる。 被葬者は武蔵国造の笠原直使主と同族の小杵が武蔵国造の地位を争って殺され(武蔵国造の乱)、丸墓山に埋葬されたと伝わる。
調査
第一次調査
- 昭和48年11月24日から昭和49年2月8日まで。 西方外堀確認用トレンチ調査を行った周堀の落ち込みを検出し、埴輪が出土した。平面図、土層断面図を作成。
第二次調査
- 昭和60年10月16日から12月6日まで。 古墳北側の第一、第二トレンチを設定した。埴輪、埴輪片が出土する。埴輪片で多いのは円筒埴輪の破片である。外面はタテハケメ、一部はナナメハケメ。内面はタテナデ。後縁部は外反させる。タガは台形やM字型である。透かしは円形を確認できた。今までの調査結果から円墳と考えるべきである。周堀の立ち上げ上端で直径は105mとされた。円筒埴輪は川西編年のⅤ期に相当すると考えられた。丸墓山古墳の年代は六世紀前葉と考えられた。墳丘裾部から多量の川原石が出土したことから、埼玉古墳群において唯一葺石を伴う古墳である可能性が指摘された。墳頂部にあった石造物7基を墳丘外に移した。
第三次調査
墳丘テラスで葺石の一部と推測される配石遺構が検出された。
規模
- 形状:円墳
- 直径:105m
- 高さ:18.2m
出土品
埴輪は川西編年のⅤ期に相当する。
- 円筒埴輪、
- 形象埴輪
- 人物埴輪
- 土師器
- 須恵器
築造時期
6世紀前半の築造と推定されている。
石田堤
1590年(天正18年)の小田原攻めに際し、石田三成は2万の軍勢を率いて北条氏に従う忍城を総大将として攻めるよう秀吉から命じられた。忍城城主の成田泰親は北条氏の援軍として将兵数百騎と小田原城に籠城していた。忍城では城代の成田泰季らが忍城の守りに当たっていた。1590年6月7日に城代の成田泰季が急死し、代わって息子の成田長親が城代になったと「成田記」に記される。沼や深田などの足場の悪さから城攻めは進捗せず、三成は攻めあぐねた。三成は、丸墓山古墳に本陣を設け、城を水攻めにする計画を立てた。忍城を取り囲む総延長28 km(14km説もある) 、比高1.8-3.6 mをわずか1週間で構築したと言われる。川をせき止めるため、全長およそ28kmに及ぶ「石田堤」を築き、丸墓山古墳を本陣とした。丸墓山古墳から忍城がよく見えた。 現在、駐車場から古墳に続く道の一部は石田三成の忍城を水攻めにしたときの堤防の跡である。 石田三成は近辺の農民に米や金銭を与えて突貫工事をしたとされる。
指定
- 1959年(昭和34年)3月20日 石田堤 県指定記念物
- 1938年(昭和13年) 国指定史跡(埼玉古墳群)
アクセス等
- 名称:丸墓山古墳
- 所在地:埼玉県行田市埼玉4834
- 交通: JR行田駅から市内循環バスで埼玉古墳公園前停留所下車
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 埼玉県立さきたま資料館(1988)『丸墓山古墳 埼玉1~7号墳、将軍山古墳』埼玉県教育委員会埼玉古墳群発掘調査報告書第六集
- 埼玉県立さきたま史跡の博物館(2023)『特別史跡埼玉古墳群 丸墓山古墳・奥の山古墳整備事業報告書』埼玉県教育委員会
張政 ― 2024年12月13日 00:06
張政(ちょうせい)は邪馬台国に派遣された帯方郡の武官である。
概要
237年に壹與が帯方郡に使者の派遣したときの塞曹掾史である。
来倭は247年
「冊府元亀」巻九百六十八 外臣部 朝貢第一に「247年(正始八年)、倭国の女王である壹與は、大夫の掖邪狗たちを派遣して(洛陽の)尚書台に至らせ、男女の生口(奴隷)三十人を献上し、白珠を五千枚、青大句珠を二枚、異文雑錦を二十匹を朝貢した。」と記事がある。『魏志倭人伝』にも247年(正始八年)に塞曹掾史の張政等を派遣したと書かれるので、同じ時期である。
滞在中の出来事
張政が帰国したとの記事は、すぐには見られず、卑弥呼の死、その後の戦乱、壱与の即位を見届けてから帰国した。『魏志倭人伝』「(卑弥呼死後)「更に男王立つも国中服さず。更に相誅殺し、時に当たりて千余人を殺す。また、卑弥呼の宗女台与を立て、年十三で王と為し、国中遂に定まる」とかかれる。張政は卑弥呼の死を見届け、その後の戦乱の仲介をし、台与を擁立するなど、大活躍をしたのであろう。『魏志倭人伝』の記事は、記述がリアルなので、張政の帰朝報告によるものであろう。
張政の帰国は265年
『魏志倭人伝』に「壱与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた」と書かれるが、『魏志倭人伝』にはこれがいつのことかは書かれていない。 しかし、晋書に「265年(泰始1)年、倭人来り方物を献ず」と(泰始初遣使重譯入貢)書かれるので、これは「掖邪拘等二十人を派遣」した記事に該当するので、張政はこのときに帰国したと見られる。なお『日本書紀』神功紀六六年条に、「泰初二年、倭の女王、訳を重ねて貢献を遣わす」と書かれており、晋書と1年異なるが同じ献使を指しているとみられる。 『日本書紀』の泰初は泰始の誤りであるが、張政は247年に倭国に来て、265年に帰国したとすれば、18年間に渡り倭国にいたことになる。
参考文献
- 石原 道博(1985)『新訂 魏志倭人伝』岩波書店
- 渡邉 義浩(2012)『魏志倭人伝の謎を解く』中央公論新社
- 坂本太郎, 井上光貞 (1994)『日本書紀』岩波書店
最近のコメント