渤海 ― 2023年10月26日 22:52
渤海(ぼっかい,698年-926年,발해)は8世紀から10世紀にかけて朝鮮半島北部から中国東北部にかけて高句麗の移民が建国した国である。
概要
遼東地方で大祚栄が自立して、高句麗を復興させるとして、698年に震国(または振国)を建て、高王と称して即位した。正式に渤海国となったのは762の第三代大欽茂の時からである。渤海は唐の冊封体制に組み込まれ、頻繁に遣唐使を派遣、唐の律令制度と仏教文化を積極的に受け入れ、唐風の文化が華やいだ。冊封体制下の国家は中国の年号を用いるところであるが、固有の年号を用いるなど、高句麗の後継国家を意識していた。
日本との関係
渤海の支配領域は満州から朝鮮半島北部に及んだため、新羅とは対立関係にあった。新羅の後に位置する日本(奈良朝から平安朝)とは、727年の最初の遣使が出羽に来航し、日本からも遣渤海使を派遣するなど、密接な交流が続いた。最初の渤海使は、大使の高仁義らは往路で死亡し、多くは蝦夷に捕らえられてしまうという苦難を超えて、生き残った高斉徳ら8名が出羽国から上京し、12月に聖武天皇に拝謁した。日本からの使節も何人かは渤海に到達できず行方不明になった。 727年から929年まで34回、日本に遣使した。日本からはこの間、13回遣使した。 航路は明確なコースは不明であるが、直接日本海を横断し、主として季節風を利用して冬は渤海から日本へ来航し、夏にその逆のコースを取ったと推定されている。遣唐使が新羅との関係悪化により、朝鮮半島西側の航路を取れなくなったとき、渤海経由で派遣されたことがある。
参考文献
- 上田雄(1992)『渤海国の謎―知られざる東アジアの古代王国』講談社
- 浜田 耕策(2000)『渤海国興亡史』吉川弘文館
百済 ― 2023年10月21日 19:37
百済(くだら, 백제,ペクチェ)は朝鮮の三国時代の国家の一つで、朝鮮半島の南西部を占めた古代国家である。
概要
漢城時代
『魏志倭人伝』の頃に馬韓は50国に分かれており、大きな国でも1万余家、小さな国は数千家であった。そのうちの一つが百済の前身となる伯済国であった。314年、高句麗と協力して帯方郡を滅ぼした。 345年頃、朝鮮の三韓のひとつ、馬韓の地の50余国を伯済国が統一した。都は漢城(現在のソウル)である。百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられている。 近肖古王は中国から文字を取り入れ、初めて記録を残すようにした。384年には東晋から僧が到来して、仏教が伝来した。 475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城した。第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死した。
熊津(公州)時代
長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津に遷したが、478年には兵官佐平の解仇によって暗殺された。反乱で動員された百済の兵力は、『三国史記』の記述によれば2,500名あまりで、百濟の弱体化がみえる。第24代東城王が479年に王位につき、新羅、倭との関係を改善し、小国が分立していた伽耶地方への拡大を図り、百済王権と国力の回復に成果を挙げた。しかし晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、暗殺される。501年に即位した第25代 武寧王の時代に百済王権の回復を見せる。次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させる。武寧王の亡き後に即位した、第26代 聖王(日本書紀の「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南の 泗沘(サビ)、今の扶余へ遷都した。
泗沘(扶余)時代
泗沘に遷都した聖王は国号を「南扶余」とした。551年、聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧都の漢城地方を取り戻す。しかし552年、高句麗と連合した新羅に奪われ、同盟関係にあった新羅と対立する。聖王は554年に新羅との戦いで戦死する。百済は高句麗と同盟を結び、百済最後の王となる第31代義慈王は、新羅に攻め入る。孤立した新羅の善徳女王は唐に救援を求め、3度にわたる高句麗制圧が失敗に終わった唐は新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えた。660年、唐は13万人の大軍を動員、新羅の5万の兵と連合して、百済に攻め入る。百済軍は、黄山之原で決戦に挑み、善戦したが新羅軍に大敗する。唐軍に泗沘城を包囲され、一時義慈王は旧都の熊津城に脱れやが降伏し、百済は滅亡した。
百濟の語源
- (1)地名説 「くだら(百済)」の項で語誌について、「「百済」をクダラと訓む由来には諸説あるが、馬韓地方に原名「居陀羅」と推定される「居陀」という地名があり、これがこの地方の代表地名となり、百済成立後、百済の訓みになったという説が紹介される。(伊藤亜人監修『朝鮮を知る事典』平凡社)
- (2)大きなムラ説 語源説として「クは大の意。タラは村落の義」日本では大村などを意味する朝鮮の古語を訓読して(くだら)と呼びならわしている。」と説明される(『朝鮮を知る事典』)
- (3)大国説 「クン」は大きいを表す「ナラ」は国の意味。「クンナラ」(大きな国)がクダラに変化した説。
- (4)有力100家説。 『隋書』「百済伝」は、移動の際に百家で海を済ったので、それに因んで百済という国名となったと伝る。
参考文献
- 日本国語大辞典第二版編集委員会(2001)『日本国語大辞典第4巻』小学館
- 伊藤亜人監修(2000)『朝鮮を知る事典』平凡社
高句麗 ― 2023年10月19日 00:43
高句麗(こうくり.고구려)は古代に中国東北部、朝鮮半島北部に勢力を築いた民族と国家である。別名を貊(はく)と言う。日本では「高麗」「貊(狛)」を「こま」と読む。
概要
古代の朝鮮の三国時代に、中国東北地方から朝鮮半島にかけて支配した強国であった。最盛期には中国東北部南部から、ロシア沿海地方の一部、朝鮮半島の大部分を支配した。 本来の国名は高句麗であるが、金石文と歴史記録をもとにして長寿王の時代に「高麗」と改称したとされる。韓国の英文国号の「コリア」も高麗に由来する。道教、仏教、律令、太学などの制度を導入し、体系的な制度を整備して国家を運営した。民衆は君主を「天帝之子」(천제지자)と呼んだ。
歴史
最も古い記録は『漢書』「地理志」に玄菟郡の首県として高句驪県が言及されているもので、玄菟郡の設置は前漢の武帝の時代、前107年であった。 部族連合国家の高句麗は、後漢末に遼東の太守公孫氏に追われ、209年、鴨緑江流域に移り、その北岸に丸都城を築いた。これが実質的な建国となる。 中国東北部から朝鮮半島北部にかけて活動していたツングース系の貊人が鴨緑江流域に建国したとされる。順次領土を拡大し、 高句麗の第15代美川王は遼東郡に出兵し、さらに313年に楽浪郡を滅ぼし、翌314年には帯方郡も攻略した。馬韓は百済が統一し、辰韓は新羅が統一した。4世紀後半からの朝鮮半島は百済、新羅、高句麗の三国時代に移行した。 4世紀の第19代広開土王(在位394~412年)のとき、最盛期を迎える。396年には百済と朝鮮半島に進出した倭人(倭国)と戦い。これを破った。その他、周辺に盛んに遠征して領土を広げ、その勝利を記念する石碑である広開土王碑が次の長寿王により首都丸都城付近に建てられた。嬰陽王(在位:590年-618年)の時代に隋は611年、613年、614年の3回に亘り、高句麗への遠征を行ったが、これを制圧することはできなかった。 高句麗の第28代・最後の王の宝蔵王(在位642年 - 668年)は中国の隋・唐の侵攻に強く抵抗したが、668年の第3次侵攻で平壌長安城を落とされ、唐に滅ぼされた。
仏教
高句麗の小獣林王(在位371~384年)は国力の充実を図った。372年、華北を統一支配していた前秦(五胡の一つ氐が建国した)の苻堅は高句麗に僧順道や仏像・経典を高句麗に送り、これが朝鮮仏教の始まりとなった。
参考文献
金海貝塚 ― 2023年08月18日 00:27
金海貝塚(きんかいかいづか)は韓国(大韓民国)慶尚南道にある古代の貝塚である。1~4世紀とされる。鳳凰洞遺跡貝塚展示館で出土品を展示する。
概要
鳳凰台の東麓の東西に長い小さな丘陵の上にある、朝鮮半島南部にある原三国時代の代表的な貝塚である。規模は東西長さ120メートル、南幅30メートル、高さ6メートル。
調査
明治40年8月、今西龍が発見した。 1914年(鳥居龍藏)、1915年(黑板勝美)、1917年(鳥居龍藏)などによる部分的発掘が行われ、1920年(浜田耕作ㆍ梅原末治)、1934年と1935年(榧本杜人)によって本格的な発掘調査が行われた。
出土
叩き文のある赤褐色素焼、黝青色陶質土器、鉄斧、多数の骨角器(鹿角製鉄刀子柄、骨鏃、骨針など)が出土している。1920年の発掘時に王莽の「新」王朝の貨幣「貨泉」が発掘された。炭化米、ガラス製棗玉など。支石墓1基、石棺5基、甕棺3基と竪穴住居址・炉址・石の堤防が発掘された。特に3基の甕棺のうち、第3号の甕棺から碧玉製管玉2点と細形銅剣2点、銅鉇8点が出土した。甕棺から細形銅剣、銅鉇、碧玉製管玉、箱式石棺は磨製石鏃、丹塗磨研壺が検出された。
遺物
- 骨角器 - 刀子柄、鏃、針、銛、錘
- 打製石器
- 砥石
- 黒褐色素焼
- 土製品
- 鉄器
- 装飾品 瑠璃製棗玉
- 古銭
倭国との交流
金海式土器は対馬、壱岐、北九州から出土している。弥生時代から古墳時代での交流が伺える。
所在地等
- 名称:鳳凰洞遺跡貝塚展示館((봉황동유적))
- 所在地:大韓民国 慶尚南道 金海市 鳳凰洞 158
- 見学時間:午前9時から午後6時まで
- 入場料:無料
- 年代:青銅器時代~鉄器初期
- 規模:90,295㎡
- 史跡:1963年1月21日 指定 史跡第2号
楽浪郡 ― 2023年08月06日 00:31
楽浪郡(らくろうぐん)は、中国の漢帝国が朝鮮半島に設置した古代中国の直轄地の一つである。紀元前108年から紀元313年まで朝鮮半島の中西部に置かれていた。
概要
漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼして、紀元前108年に漢四郡、すなわち真番郡、臨屯郡、玄菟郡、楽浪郡を設置した。漢の東方支配の根拠地となった。伊藤 一彦(2020)は『「郡」とは,古代中国の地方行政制度「郡県制」の上位組織であり,朝廷=中央政府が派遣する太守の支配下にあった』とする。郡は植民地なのか、漢の領土の一部なのかという論争がある。楽浪郡の行政区域として県が設けられ、郡には太守、県には令の役職があった。楽浪郡は漢の滅亡後は魏、晋に引き継がれた。その後、紀元前82年(始元5年)に漢は真番郡・臨屯郡を廃止し、玄菟郡を移転させ、その範囲の大部分を楽浪郡に併合した。これを「大楽浪郡」という。 西暦313年10月、高句麗の美川王は楽浪郡を占領し、男女二千余人を捕虜にし、楽浪郡は消滅した。
公孫氏
中国東北部の遼東太守となった公孫度は、南半分を支配し帯方郡とした。238年に魏の太尉・司馬懿の率いる四万の兵に襄平城を囲まれ、長期の兵糧攻めにより公孫淵とその子・公孫脩は滅びた。魏は劉昕と鮮于嗣をそれぞれ帯方太守、楽浪太守に任じ楽浪郡・帯方郡を支配した。楽浪郡は魏の直轄地となった。
朝貢窓口
楽浪郡は朝鮮半島北西部を支配したが、楽浪郡は朝鮮系諸民族、北東の濊族や貊族(後の高句麗)、南の韓民族、さらに海を越えた倭からの朝貢使節などを受け入れ、漢の出先機関としての役割を果たした。後漢時代にも継承された。
漢書地理志
「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国となる。歳時を以て来り献見すと云う。」と書かれる。日本人が中国の史書に登場する最初であり、当時の倭人が楽浪郡に朝貢していたとみられる。楽浪郡は漢の出先機関として朝鮮系諸民族、北東の濊族や貊族(後の高句麗)、南の韓民族、さらに海を越えた倭(日本)からの朝貢使節をうけいれていた。漢書地理志によれば、戸数は6万2,812戸、口数は40万6,748人とされる。
比定場所
現在の北朝鮮の平壌市とするのが通説である。平壌市の大同江の南部に楽浪郡の墳墓群がある。
異説
北朝鮮の学界と韓国の一部在野研究者は楽浪郡が朝鮮半島にあったことを否定し、中国の遼東半島にあったと主張する。
遺跡
- 徳星里墳墓
- 所羅里土城
- 万景台墳墓
- 金石里墳墓
- 智塔里土城
- 葛城里甲墳
- 台城里墳墓
- 青山里土城
- 富徳里墳墓
- 冠山里墳墓
- 伏獅里墳墓
- 天柱里墳墓
- 於乙洞土城
- 上里墳墓
- 龍秋里墳墓
- 黒橋里墳墓
- 金灘里墳墓
参考文献
- 鳥越憲三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA
- 奥野正男(1989)『邪馬台国発掘』PHP研究所
- 石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
- 井上秀雄(2004)『古代朝鮮』2講談社学術文庫,pp.75-76
- 伊藤 一彦(2020)「7世紀以前の中国・朝鮮関係史」経済志林87巻3,4号、pp.163-190
狗邪韓国 ― 2023年07月26日 23:33
狗邪韓国(くやかんこく)は、『魏志倭人伝』に記載された3世紀中頃の国のひとつである。伽耶の中の国の一つである。
概要
3世紀の朝鮮の弁辰十二国のうちの一つであり、『三国志』韓伝に記載される「弁辰狗邪国」と同じである。後の金海加羅、金官加羅である。帯方郡から対馬国に至る間にある。狗邪韓国は倭と朝鮮半島の帯方郡への通交の中継地となっていた。玄界灘をはさんだ狗邪韓国と末盧国が出入国の窓口であった。
倭の北岸
倭人伝に「倭の北岸」と記載されたのは、当時において韓人に混じって倭人が住んでいたからとの説がある。狗邪韓国は『三国志』韓伝に「弁辰狗邪国」として登場するので、倭の範囲とは認識されていなかったと理解できる。
比定場所
現在の韓国金海市である。
魏志倭人伝
- 大意
- 帯方郡から倭国に至るには海岸を水行し、韓国をへて南に向かい、その北岸の狗邪韓國に到達する。
- 『倭人伝』原文
- 從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國
遺跡
- 会峴里貝塚
- 良洞里遺跡
- 大成洞遺跡
- 府院洞遺跡
- 池内洞遺跡
- 茶戸里遺跡
参考文献
- 鳥越慶三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA
- 石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
三国史記 ― 2023年07月23日 14:40
三国史記は古代3韓の新羅・高句麗・百済の歴史を記載した文献である。
概要
高麗17代仁宗の命を受けて金富軾ら10名の史官が1143年に執筆開始し、1145年に完成した歴史書である。1145年に高麗王に進上された。 前57年の新羅始祖の朴赫居世の即位から約1000年を記載する。
構成
『漢書』以後の中国の正史の形式に準じて、新羅本紀12巻、高句麗本紀10巻、百済本紀6巻、年表3巻、雑志9 巻(祭祀、色服、車騎、器用、屋舎、地理、職官) 、列伝10巻の合計50巻である。完本は李朝中宗代(1506~44)に慶州で刊行された木版本が現存最古となる。
前史料
1010年以前に旧『三国史』となる歴史書(書名は不明)があったとされる。 旧『三国史』では、高句麗本紀、新羅本紀の順であったが、『三国史』では順番が逆転した。 また中国の史料を大量に採用し、高句麗史料をかなり削除したとされる。
引用原典
引用原典として新羅関係で新羅固有史料41種、中国史料42種、日本資料1種、高句麗関係で、高句麗固有史料10種、中国史料17種、百濟関係で百済固有史料6種、中国史料11種が用いられた。最も古い原典は高句麗原典が4世紀後半、新羅原典は545年編纂の国史、百濟原典は5世紀末の編纂とされる。朝鮮側の史料として『古記』・『海東古記』・『三韓古記』・『本国古記』・『新羅古記』・金大問『高僧伝』・『花郎世記』などが第一次史料として使用された。いずれも現存していない。 固有史料の史実性については、歴史書編纂の60年以内が奈良・平安朝の歴史書から推定される限界とされる。
参考文献
- 上田正昭(1980)『ゼミナール日本古代史 下』光文社
- 金富軾 (1980) 『三国史記 1』平凡社
- 金富軾 (1983) 『三国史記 2』平凡社
- 金富軾 (1986) 『三国史記 3』平凡社
- 金富軾 (1988) 『三国史記 4』平凡社
- 金富軾・井上秀雄訳(1986)『三国史記〈3〉年表・志』平凡社
- 金富軾・井上秀雄;訳(1988)『三国史記〈4〉列伝』平凡社
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