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恵慈2023年10月14日 00:26

恵慈(えじ、生年不詳- 推古31年2月22日)は飛鳥時代の高句麗から渡来した僧である。 「慧慈法師」とも書かれる。「恵灌」「恵観」は別人とも思われる。

概要

595年(推古3年)に高句麗僧の恵慈が来日して厩戸皇子の師となったとされる(『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』)。厩戸皇子に仏教を講義したものと思われる。『三国仏法伝通縁起』(鎌倉時代)によれば三論宗の学匠で成実宗にも通じていたという。隋に赴き嘉祥大師吉蔵に三論宗を学んだ。 厩戸皇子が経典の意味が分からないころを質問したところ、師も分からなかった時は、太子は夢からヒントを得て、起きてからそれを解決した。師にこれを伝えると師もこれを了解した。同様の事は二度三度とあったという。 615年(推古23年)に恵慈は高句麗に帰国した。帰国時に『三経義疏』を持ち帰ったとされる。推古30年、恵慈は太子の死を高句麗で聞いて悲しみ、私は来年の2月22日に死ぬだろう。あの世で太子に巡り合い、浄土で仕えようと語る。果たして恵慈は推古31年2月22日に亡くなった。 高句麗人は恵慈もまた大聖なりと評したという。

恵灌との関係

625年(推古33年)の『日本書紀」記事によれば、高句麗国王に推挙されて「恵灌」が来日したとされる。これを同一人物とする説もあるが、推古三年の記事から30年異なるし、恵慈は推古31年に亡くなったとされるから恵灌と恵慈とは別人であろう。

史料1 『日本書紀』巻第廿二 推古三年五月戊午朔丁卯

  • (原文)高麗僧慧慈歸化、則皇太子師之。
  • (大意)高句麗僧の恵慈が帰化して、皇太子(厩戸)の師となった。

史料2 『上宮聖徳法王帝説』

  • (読み下し)上宮王、高麗の恵慈を師とす。

史料3 『日本書紀』巻第廿二 推古卅三年春正月

  • (原文)高麗王貢僧惠灌。仍任僧正。
  • (大意)高句麗僧の王は僧惠灌を推薦したので、僧正に任じた。

史料4 『日本書紀』巻第廿二 推古四年冬十一月

  • (原文)法興寺造竟、則以大臣男善德臣拜寺司。是日、慧慈・慧聰二僧始住於法興寺。。
  • (大意)法興寺の造営が完成し、恵慈と慧聰は法興寺に住み始めた。

史料5 『上宮聖徳法王帝説』

  • (読み下し)太子問う所の義、師の通じざるところあらば、太子、夜夢に金人の来り解けざるの義を教うるを見る。太子、醒むる後、すなわちこれを解く。すなわち以て師に伝え、師もまた領解する。

史料6 『日本書紀』 巻第廿二 推古廿三年十一月癸卯

  • (原文)高麗僧慧慈歸于國。
  • (大意)高句麗僧の恵慈は帰国した。

史料7 『日本書紀』 巻第廿二 推古廿九年春二月

  • (原文)是月、葬上宮太子於磯長陵。當于是時、高麗僧慧慈、聞上宮皇太子薨、以大悲之、爲皇太子請僧而設齋。
  • (大意)太子を磯長陵に埋葬した。このとき高麗僧の慧慈は太子の逝去を悲しみ、僧を集めて斎会を催した。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀4』岩波書店
  2. 井上光貞、笹山晴生(2020)『日本書紀』中央公論新社
  3. 東野治之(2013)『上宮聖徳法王帝説』岩波書店

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