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短里説2023年07月17日 09:27

短里説(たんりせつ)は魏志倭人伝の里程記事は「短里」により書かれているとする説である。

古田の短里説

古田武彦は魏志倭人伝の里程記事が「短里」で書かれていると主張する。古田は「1里約 76~77m」としているようだ(古田武彦・谷本茂(1994))。この計算では、末盧國から伊都国まで38kmとなり、30.6kmに近くなる。しかし、漢代に「短里」が使われていた確実な証拠があるかどうかが問題となる。

短里説への反論

山尾幸久(1986)がこれを詳しく論じている。山尾によれば、中国の公定尺は『晋書』律歴志と『随書』律歴志が基本資料となる。中国の学者の計算では、周尺・前漢尺は23.1cm、後漢尺は23.8cm、魏尺は24.2cm、東晋尺は24.5cmになるとされる(薮田(1969))。 中国の古い物差しも出土している。戦国時代から前漢までの尺はおおむね23cmで、バラツキは7mm以内とされる(山尾幸久(1986))。三国時代の魏の遺品は正始五年の銘を持つ弩機の尺が24.3cmであった。3世紀の中国で使用されていた1尺は24cm前後といえる。 3世紀においても「里」は「歩」が基準で、「歩は「尺」と関係づけられる。『春秋穀梁伝』によれば、300歩四方の土地を里といい、その1辺も「里」と称した。 この「歩」は今でいう1歩(いっぽ)ではなく、1復歩(ふたあし)を指す。つまり約1.4mである。『史記』秦始皇帝本紀に「六尺を歩となす」と書かれる。 したがって、1里の長さは以下となる。  1里=300歩=1800尺=1800×23cm=414m これはいわゆる「長里」である。

短里説の考察

洛陽と遼東の距離を『三国志』は四千里と書く。これは長里計算では1656km(=4000×414m)となる。現実は1740kmなので、それほど違和感はない。「短里」とすると、300km程度しかないことになるから、現実には合わないことになる。『三国志』の中で魏志倭人伝の記載部分だけが「短里」だったとする奇説があるが、合理的な根拠がなく採用できない。

参考文献

  1. 山尾幸久(1986)『魏志倭人伝』講談社
  2. 古田武彦・谷本茂(1994)は『古代史のゆがみを正す』新泉社
  3. 古田武彦(1992)『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞
  4. 古田武彦(1977)「邪馬台国九州説10の知識」『歴史読本』新人物往来社,昭和52年8月号

田久松ヶ浦遺跡2023年07月17日 11:21

有柄式磨製石剣/田久松ヶ浦遺跡

田久松ヶ浦遺跡(たくまつがうらいせき)は福岡県宗像市にある縄文時代から古代までの複合遺跡である。

概要

宗像市の鞍手郡との境にある丘陵の先端部標高16mから37mの稜線と斜面に位置する遺跡である。丘陵地開発の申請を期に、土壙墓、竪穴遺構、住居跡、貯蔵穴があることが分かり、発掘調査を行い、記録を残す事になった。西側1kmには曲香畑遺跡があり、東側1kmには'田久爪が坂遺跡がある。田久松ヶ浦遺跡は宗像市で最も古い弥生時代の墳墓遺跡である。

石槨木棺墓

石川日出志(2014)は「九州でみたこともないような堅固な石積みの埋葬施設で、朝鮮半島の実例に近い。握りのついた剣(有柄式磨製石剣)、長い石鏃(有茎式磨製石鏃)、北部九州の弥生土器の添え方など、埋葬施設、副葬品、小壺の添え方など朝鮮半島の南部と同じである」とする。朝鮮半島の影響が明確に表れた遺跡である。

発掘調査

平成10年(1999)に調査が行われた。弥生時代前期の墳墓は土壙墓三・石槨墓二・木棺墓九・甕棺墓一が列状に分布している。SK206は二段掘りの土坑に木棺を据え、側石を積上げたのち蓋石を架ける石槨墓である。墓壙の東側側面から有柄式磨製石剣、有茎式磨製石鏃、副葬小壺が出土した。墓壙は二段掘り込みで、墓壙の南寄りに平面隅丸長方形の埋葬壙が彫り込まれている。墓石は8個の石材を掛け渡し、隙間を石材で埋めているが、不完全なため石蓋直下まで覆土が流入していた。

遺構

縄文時代

  • 落穴状遺構 6基

弥生時代

  • 住居跡 11基
  • 貯蔵穴 7基
  • 木棺墓 11基
  • 土壙墓 3基
  • 甕棺墓 1基

遺物

  • 有柄式磨製石剣 2点
  • 有茎式磨製石鏃 12点 -縄文晩期後半
  • 扁平片刃石斧 1点 -板付Ⅰ式併行期
  • 石包丁
  • 砥石
  • 壺 10点
  • 高坏

指定

アクセス等

  • 名称:田久松ヶ浦遺跡
  • 所在地: 福岡県宗像市大字田久1172-1ほか
  • 交通: JR九州鹿児島線 赤間駅 から徒歩11分。

参考文献

  1. 宗像市教育委員会(1999)『田久松ケ浦-福岡県宗像市田久所在遺跡の発掘調査報告』宗像市文化財調査報告書第47集
  2. 石川日出志(2014)『邪馬台国を再考する』いせキング宗像シンポジウム2014講演
  3. 原俊一・白木英敏・(2000)_宗像地域における弥生時代前期の集落と墓制_日本考古学第9号,pp.123-135

邪馬台国2023年07月17日 18:46

邪馬台国

邪馬台国 (やまたいこく、やまとのくに)は、『魏志倭人伝』に記載された倭国の国のひとつである。

概要
『魏志倭人伝』によれば、邪馬台国が当時の倭国の盟主であったとする。邪馬台国に倭の女王である卑弥呼の宮室があったとされる。二世紀後半から三世紀半ばまで女王卑弥呼が統治していた。約30の国からなる倭国連合の女王として邪馬台国に卑弥呼は居住していた。卑弥呼の没後はその宗女で十三歳の壱与(台与)を王に立てた。

邪馬台国の政治力
魏志倭人伝には対馬国、一支国(壱岐国)、伊都国、末盧国はすべて女王国に従うとされている(「皆統屬女王國」)。邪馬台国は統治のための官僚を現地に派遣している。邪馬台国には7万余戸の人口があり、国の以北(方位は不正確の可能性あり)にある諸国を検察するため伊都国に常駐していた一大率という官を特置し諸国はこれを畏憚していた。対馬国には官として卑狗(ヒコ)、副官として卑奴母離(ヒナモリ、夷守)を派遣していた。不弥国にも長官として多摸、副官としては卑奴母離を派遣していた。投馬国にも長官の弥弥、副官弥弥那利(ミミナリ)を派遣していた。邪馬台国には長官の伊支馬、副官の彌馬升、さらに彌馬獲支、奴佳鞮を置いた。官僚機構が各所に整備されている。
卑弥呼は専制君主ではないものの、相当な政治力を持っていたことが伺える。
邪馬台国の統治機構

国名 大官 副官 戸数
対馬国 卑狗 卑奴母離 1000余戸
一支国 卑狗 卑奴母離 3000家
末盧国 不明 不明 4000余戸
伊都国 爾支 泄謨觚・柄渠觚 1000余戸
奴国 兕馬觚 卑奴母離 20000余戸
不彌国 多模 卑奴母離 1000余戸
投馬国 彌彌 彌彌那利 50000余戸
邪馬台国 伊支馬 彌馬升 7万余戸

邪馬台国の所在地論争
九州説と近畿説とでは、邪馬台国の比定場所が異なる。

邪馬台国に至る行程は次の通りである。 -帯方郡から女王国まで一万二千里。帯方郡から韓国(馬韓)を経て狗邪韓国に至る。海を渡り対馬国につく、さらに海を渡り、一大国(一支国・壱岐)につく。そこから海を渡り末廬国につく。末廬国から東南に陸行して五百里で、伊都国につく。東南の奴国までは百里。東行して不弥国まで百里。南へ水行二十日で投馬国に至る。南へ水行十日・陸行一月。邪馬台国(邪馬壹国)に至る。
『魏志倭人伝』の行程の距離と方角をそのまま読むと、日本の南方に海の中になってしまう。したがって、方角または距離が正しくないことは明白である。
邪馬台国の所在地に関しては古くから論争がある。日本古代国家の起源や大和政権の起源を考えるうえで、その位置は重要である。そこで所在地候補には多数が挙げられているが、有力とされる候補地は九州説と畿内説とがある。両説の得失を比較してみる。
比較項目 畿内説 九州説 備考
距離 × 放射式説あり
方位 × 伊都国の南とされる
遺跡 × 九州に有力な遺跡はない
古墳 × 九州に3世紀の有力な古墳はない
規模7万戸 × 九州に邪馬台国7万余戸相当の遺跡はない

九州説の課題
考古学者の大塚初重は「邪馬台国九州説の一番の弱点は、これといった卑弥呼の墓の候補は九州内で見当たらないことであろう」と述べる(大塚初重(2021),p.103)。かっては卑弥呼の墓の候補として平原王墓( [[平原遺跡]])を考える研究者がいたが、現在はいないようである。 九州説に有利な考古学的根拠は鉄器の出土数が大和を圧倒しているということであるが、これについて大塚初重は3点の検討課題を挙げる。 -第一に九州では緊急の墳墓調査が日本海沿岸で行われているが、大和では墳丘墓の発掘があまり行われていないこと、 -第二に土壌の性質である。シルト状の粘土質の土壌と、北部九州のような花崗岩地質の土壌とでは鉄器の遺物の保存が全く異なる(大塚初重(2021),p.94-96)。 -第三に大阪湾湾岸の遺跡からは鉄の遺物の出土がかなり多い。鉄が残りにくいという土壌を考慮すると、鉄器の出土数で邪馬台国近畿説は成り立たないという主張は慎重にする必要がある。 -近畿説

古代中国の地理感
邪馬台国近畿説の唯一の欠点は「方角」である、これは当時の地理感が影響しているとみられる。近畿説においては、魏志倭人伝の方角の南は東の間違いとする説が一般的となっている。 当時は太陽が昇る方向が東と考えており、朝鮮半島から魏の使節が船で来航しやすい夏では、実際の東は時計と反対回りに45度ずれることになる、近世以前の中国の地図では日本列島が南に延びるように描かれている例が見られる、というのが根拠となっている。

『魏志倭人伝』の距離や方角の正確性
『魏志倭人伝』には距離や方角が不正確な記述がいくつか見られる。
(1)狗耶韓国から対馬、一支国から末盧国はいずれも「千余里」と書かれるが、実際は等距離ではない。
(2)末盧国から伊都国(500里)、伊都国から奴国(100里)と5倍の記載であるが、実際はほぼ等距離である。
(3)末盧国から伊都国を東南方向と書いているが、実際は等南ではなく、東方向である。方位が45度違う。
以上のように『魏志倭人伝』の方位と距離は正確ではないので、これをもとに邪馬台国の位置を決めるのは無理である。

人の移動と集中
纏向遺跡には列島の各地から人とモノが集まっている。しかし九州からの土器はほとんどない。土器の集中と移動は邪馬台国と関係があるとみてよい。邪馬台国の時代は九州より畿内が中心となっている。纏向で発見された宮殿と思われる遺構が庄内3式期のものとすれば、卑弥呼の時代と一致する。方位を一致させている建物の計画性や柵に注目される(大塚初重(2021),p.173-176)。纏向に土器の移動と集中がみられることは邪馬台国の条件を備えている。

邪馬台国の所在地論争

九州説における距離の克服解消には、放射説と短里説とがある。 放射説は白鳥庫吉の弟子の榎一雄が提唱した説である。行程のうち伊都国以後は伊都国を起点としてそれ以後の国々への行路が書かれているとする説である。邪馬台国が九州にあったという結論ありきで、読み替える説である。末蘆国から一大率という女王国の入口である伊都国に入り、その先は奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国へと順次移動する記述になっているのが、これを、伊都国を中心として放射状に記述しているとする。 榎は「新唐書」「地理志」に引かれている「賈耽」の記述を参考にしている。しかし、倭人伝の原文を素直に読めば、伊都国以後だけを放射状に読むのは、無理な解釈にみえる。なぜなら、放射状に読むためには起点の伊都国まで戻る行程となるから、なぜ、毎回伊都国まで戻るのかを明快に説明することができない。
また榎一雄の邪馬台国比定地は、筑紫平野の御井である。現在は、福岡県久留米市に属する地域である。それまでの九州説論者が比定した福岡県山門郡では、人口扶養力がないと判断した結果である。伊都国を福岡県糸島市に比定し、邪馬台国まで南へ水行10日、陸行1月となる地点であるはずが、糸島から御井までの距離は100km足らずであるから条件に合わない。 次に短里説である。当時の中国の一里は414mであったが、古田武彦は魏志倭人伝の里程記事は「短里」で書かれていると主張し、1里が約 76~77mの 短里説を唱える。しかし、これは成り立たない。

女王国と邪馬台国は同一か
魏志倭人伝に対馬国、一支国(壱岐国)、伊都国、末盧国はすべて女王国に従うとされる(「皆統屬女王國」)。この表現では[[投馬国]]や[[不弥国]]は女王国に従っていないとも読める。しかし[[翰苑]]が引用する『魏略』逸文では伊都国の後に、「其の国王は皆女王に属する(其国王皆属女王也)」と記載する(石原道博編訳(1985))。すなわちオリジナルの『三国志』は対馬国、一支国(壱岐国)、伊都国、末盧国、伊都国の全部が女王に従うと書かれていたと推察される。これらの文脈からすれば邪馬台国は女王に統治されているので、女王国と邪馬台国は同一であると解釈できる。

邪馬台国か邪馬一国か
古田武彦は邪馬台国ではなく「邪馬一(壹)国」が正しいと主張する(古田武彦(1977))。確かに魏志倭人伝に「南至邪馬壹國 女王之所都」と書かれている。理由を次の様にまとめている(古田武彦(1992)。 1.現在残る『三国志』の版本はすべて「邪馬一(壹)国」である。 2.三世紀の魏晋朝で「臺」は魏朝の王宮またはそれに準ずる王宮にしか使われない「至高の文字」である。 3.「臺」(台)と「壹」(一)の字形は似ていない。 4.「邪馬壹国」表記に裴松之は何も注釈を残していない。
これに対して山尾幸久は「邪馬臺国(邪馬台国)」の表記が正しいとする(山尾幸久(1986))。その理由は次の通りである。 1.「邪馬壹国」は11世紀初頭の北宋版で誤刻された表記である。 2.4世紀初頭から10世紀末までに執筆された諸本がすべて邪馬臺国となっている。 4.983年に成立した『太平御覧』が引用する『魏志』でも臺となっている。 5.『三国志』の最古の版本は紹興年間(1131-1162)のもので、これが現存する(南宋本)。宮内庁に現存する版本は巻4以降が残されている。しかしこれより古い写本は存在しない。 残されている刊行本は南宋本を踏襲したものである。 4世紀初頭から10世紀末までに執筆された諸本には、5世紀前半に書かれた『後漢書』、636年に完成した『梁書』諸夷伝などがある(石原道博編訳(1985))。石原道博編訳(1985)は『後漢書』の影印を掲載する。 すなわち『三国志』の南宋本より古い版本がすべて「臺」(台)になっているから、南宋本が印刷時に間違ったと考える方が合理的である。 したがって結論として「邪馬一(壹)国」が正しいとする説は成り立たないと考える。

里程と距離、遺跡の検討
帯方郡から邪馬台国への行程記事では[[帯方郡]]から[[狗邪韓国]]を経て1000余里を渡海して[[対馬国]]に至り、また南へ千余里渡海して一大国に至る。さらに千余里渡海して[[末盧国]]に至る。そこから東南へ五百里陸行して[[伊都国]]に至り、また東南の[[奴国]]へ百里、東行して[[不弥国]]に百里、南の[[投馬国]]へは水行二十日、南の邪馬台国へ水行十日、陸行一月で到達すると書かれる。各国を否定するにはそれぞれ3世紀代の遺跡と対応させる必要がある。以下に各国を遺跡・王墓と対応させる。

比定集落遺跡と王墓                                           
国名 集落遺跡 王墓 現在の地名
狗邪韓国 金海貝塚 大成洞古墳 慶尚南道・金海市
対馬国 三根遺跡 下ガヤノキ遺跡 長崎県対馬市|
一支国 原の辻遺跡 原の辻遺跡 長崎県壱岐市
末盧国 菜畑遺跡、宇木汲田遺跡 桜馬場遺跡、中原遺跡 佐賀県唐津市
伊都国 三雲・井原遺跡 平原遺跡 f福岡県糸島市
奴国 那珂遺跡群 須玖岡本遺跡福岡県春日市
不弥国 江辻遺跡 馬渡・束ヶ浦遺跡福岡県古賀市
投馬国 上東遺跡 楯築遺跡岡山県倉敷市
邪馬台国 纏向遺跡 箸墓古墳奈良県桜井市

参考文献
1.鳥越慶三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWAM
2.石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
3.西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社
4.古田武彦(2014)「筑後国の風土記にみえる荒ぶる神をおさめた女王か?」歴史読本、KADOKAWA
5.古田武彦・谷本茂(1994)は『古代史のゆがみを正す』新泉社
6.古田武彦(1992)『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞
7.古田武彦(1977)「邪馬台国九州説10の知識」『歴史読本』新人物往来社
8.山尾幸久(1986)『魏志倭人伝』講談社
9.藪田嘉一郎 編訳注(1969)『中国古尺集説』綜芸舎
10.石原道博編訳(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1』岩波書店
11.大塚初重(2021)『邪馬台国をとらえなおす』吉川弘文館