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阿倍倉梯麻呂2023年08月25日 23:56

阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしのまろ、?-649年3月17日)は飛鳥時代の官人である。 「阿倍内麻呂」「摩侶」「阿倍麻呂」「安倍倉梯麻呂」ともいう。娘の小足媛は孝徳の妃である。

概要

推古32年、蘇我馬子は阿倍倉梯麻呂と阿曇を推古に遣わして、葛城はもともとの居住地であるから、この縣を頂きたいと要求した。推古は私は蘇我の生まれで蘇我馬子は私の叔父である。たいていのことは聞き入れるが、葛城を失ったら、後世から悪く言われるし、蘇我馬子も不忠とされるとして断った(史料1)。 推古の死後、皇位が定まらず、蘇我馬子を中心に群臣が協議した。蘇我馬子は阿倍倉梯麻呂と諮って、自邸に群臣を集めて饗応した。散会する際に内麻呂は皇嗣に関して語った。早く決めないと乱が発生する恐れがある。誰を後継ぎとすべきか。意見は2つに割れて群臣の意見は折り合わなかった(史料2)。 乱のあと左大臣に阿倍倉梯麻呂、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂が任じられた。阿倍倉梯麻呂は豪族を代表する重鎮となった(史料3)。 '阿倍倉梯麻呂は四天王寺に四衆を招き、仏像4体を迎えて内に安置させ霊鷲山の像を造るなど、法要を執り行った。 翌年、大化5年3月17日、阿倍倉梯麻呂は難波宮で亡くなった。孝徳や中大兄皇子をはじめ、諸卿も嘆き悲しんだとされる。

安倍寺

阿倍氏の本拠は大和国十市郡阿倍(現・奈良県桜井市阿部)である。 安倍倉梯麻呂が創建した安倍寺(崇敬寺)は、現在の寺の南西約300mの地に法隆寺式伽藍配置による大寺院となったとされる。安倍一族の氏寺として「安倍山崇敬寺」(安倍寺)を建立した。近隣に、その流れを汲む安倍文殊院がある。 『大安寺伽藍縁起』によれば、舒明11年(639)に創建された最初の勅願寺である百済大寺が、子部神の怨みにより焼失した後、夫・舒明の遺命を受けた皇極が改めて造営を命じた際に、阿倍倉梯麻呂と穂積百足を造寺司に任命したという。

史料1 『日本書紀』巻第廿二 推古卅二年

  • (原文)冬十月癸卯朔、大臣遣阿曇連闕名・阿倍臣摩侶二臣、令奏于天皇曰「葛城縣者、元臣之本居也、故因其縣爲姓名。是以、冀之常得其縣以欲爲臣之封縣。」於是、天皇詔曰「今朕則自蘇何出之、大臣亦爲朕舅也。故大臣之言、夜言矣夜不明、日言矣則日不晩、何辭不用。然今朕之世、頓失是縣、後君曰、愚癡婦人臨天下以頓亡其縣。豈獨朕不賢耶、大臣亦不忠。是、後葉之惡名」則不聽。

史料2 『日本書紀』第廿三 推古卅六年

  • (原文)九月、葬禮畢之、嗣位未定。當是時、蘇我蝦夷臣、爲大臣、獨欲定嗣位、顧畏群臣不從、則與阿倍麻呂臣議而聚群臣饗於大臣家。食訖將散、大臣令阿倍臣語群臣曰「今天皇既崩无嗣。若急不計、畏有亂乎。今以詎王爲嗣。天皇臥病之日、詔田村皇子曰、天下大任、本非輙言、爾田村皇子、愼以察之、不可緩。次詔山背大兄王曰、汝獨莫誼讙、必從群言、愼以勿違。則是天皇遺言焉。今誰爲天皇。」

史料3 『日本書紀』 巻第廿五 孝德十二年五月

  • (原文)以阿倍內麻呂臣爲左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣。以大錦冠、授中臣鎌子連爲內臣、増封若于戸、云々。

史料4 『日本書紀』巻第廿五 孝德四年

  • (原文) 二月壬子朔、遣於三韓三韓、謂高麗・百濟・新羅學問僧。己未、阿倍大臣、請四衆於四天王寺迎佛像四軀、使坐于塔內、造靈鷲山像、累積鼓爲之。

史料5 『日本書紀』巻第廿五 孝德四年

  • (原文) 二月壬子朔、遣於三韓三韓、謂高麗・百濟・新羅學問僧。己未、阿倍大臣、請四衆於四天王寺迎佛像四軀、使坐于塔內、造靈鷲山像、累積鼓爲之。

史料6  『日本書紀』巻第廿五 大化五年

  • (原文) 三月乙巳朔辛酉、阿倍大臣薨。天皇幸朱雀門、舉哀而慟。皇祖母尊・皇太子等及諸公卿、悉隨哀哭。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀4』岩波書店
  2. 井上光貞、笹山晴生(2020)『日本書紀』中央公論新社