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飯豊青皇女2023年08月18日 23:51

飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)は5世紀末の女性皇族である。 飯豊女王(日本書紀)、飯豊王(古事記)、飯豊郎女(古事記)、青海郎女(古事記)、靑海良女(古事記)、忍海部女王(日本書紀)、忍海飯豊青尊(日本書紀)、忍海郎女(古事記)、青海皇女(日本書紀)、靑海皇女尊(先代旧事本紀)などの別名がある。

概要

古事記によれば履中大王の皇女で、母は葦田宿禰(葛城襲津彦の子)の女(娘)の葛城・黒比賣命(くろひめ)とされる。日本書紀は履中天皇の息子である市辺押羽皇子と葛城氏出身の荑媛(はえひめ)の間に生まれた娘とする。

飯豊天皇

古事記では清寧大王がなくなったとき皇后はなく、子もいなかったため、忍海郎女(飯豊王)が政務をとった(「葛城の忍海の高木の角刺宮に坐ましき」)と書かれる。 日本書紀では清寧大王が5年1月に没したとき、弘計王と億計王とで大王位の譲り合いをして大王が決まらなかった。そこで姉の飯豊青皇女は忍海角刺宮で朝政を取ったとされる。 そして同年11月に亡くなった。葛城埴口丘陵の埋葬した。 短期間であれ政務をとったという意味で、大王になったと解釈される。また日本書紀は天皇にしか使わない「崩」を用いている(『日本書紀』第15巻)。 『扶桑略記』は「飯豊天皇廿四代女帝」とし、『本朝皇胤紹運録』は「飯豊天皇 忍海部女王是也」とし、歴代天皇に含めている。

記載の矛盾

古事記では履中大王と黒比賣との子とされる。『日本書紀』第15巻(顕宗)では、市辺押磐皇子と荑媛(はえひめ)との子で、仁賢と顕宗の兄弟とする。別名が多くまた親に二説あることから、実在性が薄い。表記は天皇(大王)扱いであるのに、古事記と日本書記はどちらも歴代天皇に含めていない。

伝承地

葛城市歴史博物館の南にある角刺神社は、飯豊が政務を執った忍海高木角刺宮の伝承地である。祭神は飯豊青尊。

陵墓

宮内庁は「北花内大塚古墳」を飯豊青皇女の陵墓に比定する。飯豊は亡くなった後「埴口丘陵(はにくちのおかのみささぎ)」に葬る、と書かれる。「陵」は天皇の墓にのみ用いられない表現であるから、扱いの上では飯豊は大王(天皇)であった。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 倉野憲司(1963)『古事記』岩波書店

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